三
『何故、口付けてくれないのです。』
妖が言った。
『きみは人じゃない』
人が言った。
『何故、わたくしの想いを受け取れないのですか』
富豪が言った。
『ご容赦ください。』
貧困が言った。
『お慕い申しております』
弟子が言った。
『良い婿を紹介しよう』
師が言った。
『好きだ』
男は言った。
『オレは男だ』
男は言った。
『好き』
言ったら、
雨が止まなかった。
藍太は、うんざりしながらベランダで滴を垂らす洗濯物をみる。
取り込むと水滴が絨毯を濡らす。面倒だと、取り込み忘れをほうって置いたが雨が止まなかった。
藍太の仕事は、質が悪い事にボランティアに近いモノがある。
ひと月何もしなくても金額振り込まれるが、逆を返せば物凄い量を片付けても給金は変わらない。年金暮らしとの違いは金が多いか少ないか、時間を趣味に使うか仕事に使うかの違いだとボヤいていた父の姿を思い出した。
はあ、と溜め息付いた時。
不意に、
ひたりと、冷たい冷気を首筋に感じる。瞬時に振り返った瞬間!
ごぅん
物凄い勢いで飛んできた鞄が、水の幕を突き抜け藍太を強襲してきた。
顔面に、やたらに膨らんだ学生鞄の洗礼を受け星が飛ぶ。
部屋の入り口で瑠輝の悲鳴じみた謝罪が上がった。
(馬鹿孫が!)
五十代後半とは思えぬ動きで、そのまま転がり体勢を整えた藍太の前に、水の塊がぐにゃぐにゃと不規則に変形しながら浮遊していた。良く見れば、緒のように伸びる細い水糸がベランダに通じる戸の隙間から伸びていた。
ぐわんぐわんと揺れる頭を無視して、シャツの袖から軽量型の折り畳みクナイを取り出す。
クナイの刃には、五行を取り入れた独自の調伏の呪文が彫られている。
(引っ越したい)
と切に思った。水の妖も孫も招待した覚えは一切無いのである。仕事やらなんやらを抜きにして、藍太は叫びたかった。
不法侵入者共め!
無言で、クナイを水の緒に振るう。外から余計な水分を呼ばれては叶わない。
水漏れは家財保険に入って無いのである。
「じいちゃん!俺手伝います!」
じりじりと此方に近付く気配を感じて、藍太は冷淡に一言。
「電化製品を台所に移動させろ。テレビが最優先だ!」
何故か空気が吹き出したような音が孫方面から聞こえたが、意識外に追いやって化け物と対峙する。目を凝らすと、忍術に似た構成が『みえた』。
水はまだ良い。次には、火が来る可能性がある。長年住んできた木造アパートを焼け出されるなどとんでもない話である。
片を付けようと、クナイを塊の中心に投げた。
しかし、ストンとクナイは部屋の壁に突き刺さる。その横で、瑠輝がラジカセを抱えており、びくんと身体を停止させる。
水塊はべちゃりと天井に張り付いた。
よし、と思わず藍太は拳を握る。上からの浸水なら管理人がなんとかしてくれるかもしれない。
考えながらも素早く、壁のクナイを引き抜いて再び水塊の中心へとそれを放った。
今度は、身体が慣れたせいもあり素早くクナイを放つ事が出来た。水塊は悶えながらも天井から動かなくなる。
藍太は、久し振りに呪文を唱えようと口を開くが。
なんだったか。
眉を寄せて考え込む藍太に、素早く瑠輝が言う。
「火遁?静止?呪返し?調伏?どれ?」
「…呪返し」
「返天!」
呪の冒頭を瑠輝が言うや、重くなった頭脳の引き出しが途端すらりと開いた。孫の優秀さにはっきりと嫌な複雑さを感じつつ藍太は呪を口にする。
水の中に込められた力が一気に解放されて物凄い勢いで窓に返っていくのと同時、どぽんとプールがひっくり返った音を立て水が落下した。