表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星空の海辺に  作者: あおい
03
6/23

03-1

■03■


 マスクが痛い。肌に触れてる箇所が痛い。


 朝、起きたら顔面が腫れと痣で酷い事になっていた。

 こんな顔で学校へ行く勇気は無い。自宅にマスクがあって良かった。

 昨夜と今朝、母親に顔を合わせなくて済んだのもラッキーだったけど。


 全身が痛くてあまり眠れなかったし、怠い。だからって学校を休むわけにもいかない。


 陽成はなるべく気配を殺して教室に入った。

 誰もこちらに興味さえ持たなければ、マスクしているだけの人間で居られる。マスクからはみ出した部分にも少し、痣があるのだ。


「うっす、陽成」


 横尾の声がしたと同時に、背中が叩かれる。

 陽成の身体はビクンと痙攣し、あまりの痛みに呼吸困難に陥った。

 そして軽い、咳。


「お、どーしたマスクなんかして。カゼか? なら、バリヤー!」


 ――しょーがくせいか。


「まぁそれはそれとして、相談があるんだけど。英語の宿題のさ……あ?」


 その瞬間、横尾にマスクを剥ぎ取られた。

 陽成は反射的に、それを元に戻す。


「ど、どぉした? まさか巳央と殴り合ったとかじゃねーだろうな」


「そんなわけないっしょ。違うんだよこれはその……街でヘンな集団にカラまれて」


「巳央、一緒だったんじゃないのかよ」


「ん、ちょっと離れてたスキに……あの、騒がないでくれる?」


「あ、ああ、そうね。分かった」


「おっおはよ……湯山くん、横尾くん」


 声がしたので振り返ると、そこに居た小坂がこっちを見てビクッと反応する。


「うっわぁ~、大丈夫なの? 何か、凄い事になってるみたいだけど」


「僕は、うん。大丈夫。それより小坂さん、どうだった? お家」


 小坂は頬を赤らめ、少し不満そうに「大丈夫だった」と呟いた。


「そ。よかった」


「だから湯山くんから、あの人にも伝えておいてくれる?」


「ん、分かった」


 そこへ中野も「おはよー」と挨拶に来た。そして陽成の顔をジロジロと見る。


「聞いてたより深刻な被害みたいねぇ」


「聞いてたって、どう言う事?」


「夜、真夕に電話したのよ。そしたら湯山くんがボコられたって言うから……どうなってるのかなと思って来てみたら、あ~あ」


 思わず小坂の顔を見る。確かに口止めしなかったけど。


「なっ何よ~っ。別に、悪い事してるわけじゃないのに、そんな睨む事ないでしょっ」


「睨んでないよっ。……う」


 表情筋を動かすと、引きつるように痛かった。


「はいはい、陽成はさっさと着席して、体力温存しなさいっ」


 横尾に背中を押され、前に進む。


「痛い、止めて押さないでっ」


「ほらほら、着席っ」


 肩を押され、座らされる。

 イスにガツンと体重を受け止められて、痛みが骨に響くような気がした。

 両目をキュッと閉じて、耐える。ジーンと疼く痛みを俯き、堪えていると。


「おい、陽成ぁ」と自分を呼ぶ声が、教室の出入り口付近から聞こえた。


 自分を呼び捨てにするほど仲のいい人間が、この学校に居たっけ?

 いや、居ない。この学校にはそれこそ横尾くらいだ。


 でもあまりにも馴染みのある、この声は。


 陽成は顔を上げた。

 キラっとした空気が出入り口に佇んでいる。


 陽成の制服を着た銀髪で青い瞳の、巳央が。


 教室中の人間が息を飲んだ気配が、分かった。

 正確にはあいつの事を知らない、四人以外の全員が、である。


 全ての人間の視線を集め、足音もたてずに巳央は教室に入って来る。

 その表情は何を考えているのか分からない、いつもの薄い微笑みだ。


「わざわざ、何だよっ」


 近づいて来る巳央に向かって陽成は言った。あまり大声は出せない。顔が痛い。


「ぷ、ナニそのマスク。いやぁね、大げさね~」


 巳央の指がヒラリと動く。

 それを見て反射的に、陽成は両手で顔をガードした。


 マスクを剥ぎ取られたくない。

 自分で言うのもナンだが、なかなかえげつない腫れと痣なのだ。朝の、鏡を見た時の絶望ったら。


「分かった分かった、取りゃしねえって。繊細なんだから、もぉ。それはそーと、みなさんお揃いで」


 巳央が他の三人に向かって笑いかける。

 それに一番素早く反応したのは、中野だった。


「きゃーっ、ミオきゅん、おはようーッ」


 ――はっ?


「み、ミオきゅんん~っ? な、ナンだそれっ」


 あの巳央がたじろいでいる。


「巳央くん、を可愛く呼んでるの。ミオきゅんっ」


 小首を傾げ、上目遣いに巳央を見つめている。

 中野って、こんな風にはしゃぐ人だったのか……しかも、本人を前にして。


 ――確か昨夜、ファミレスの前で会っただけだよね? すごいハートしてる……巳央がどんな奴かも知らないはずなのに。コイツがヤな性格だったらぶん殴られるかもとか、チラッとでも考えないのかな。


 だが巳央は嬉しそうに笑った。


「おう、何とでも呼べ。きゅん呼ばわりなんて初めてで楽しいぞ。意味分かんねーけどな」


 口の右端をキュッと上げ、流し目で笑う。

 その視線の先に居る中野は顔を真っ赤にして、昨夜のように飛び跳ねた。


 ――一瞬にして馴染んでる。何なのこの人達。


 巳央がこんな奴だから陽成とも付き合って来れたのだろうけど、馴れ合うハードルが低くて驚かされる。

 他の女子が羨ましそうな、嫉妬混じりの視線で中野を睨んでいるのが視界の端にチラリと見えた。


「で、何しに来たの巳央」


「あ、そうそう。お前小坂、だっけ」


 巳央が視線を向けると小坂は一瞬、ビクッとした。


「そうですけど、何かっ」


「最近、どこか出掛けた? 例えば海外とか」


「遠出なんてしてない」


 数秒の間の後。


「でも外気には触れたろ。外国からメールや手紙を受け取ったとか。ちょっと違うかも知れないけど、映像を見たとか……他には、う~ん……」


「全く。全然っ。映画も見てないっ」


 それがうさぎと関係あるのだろうか。


 ――うさぎの化け物に憑かれてたとか、言えないよね。どこから来たのか探ってるのかな。絵葉書に描かれていたうさぎが正体だったとか?


「アメリカンカントリー、イングランド……」


 考え込んでいる巳央の呟きに、小坂が一瞬ハッとした。


「小坂さん?」


 小坂は巳央にではなく、こちらに視線を向けた。


「あのね、そう言えば絵本読んだな、って」


「うさぎ、の?」


「ううん。森と草原が舞台の、リスの絵本よ」


「巳央、リスだって」


「その本のタイトル、覚えてるか」


「えっと……何とかフィールドの……忘れた」


「頼りないなぁー。それだけの情報であの街から見つけ出すの、厳しいわぁ~」


「うさぎ探すの?」


「原因を調べに行くんだ。あのうさぎはまぁ、再び小坂に憑かなけりゃいいだろ。なぁ?」


「さっきから言ってるうさぎが何か分からないけど、私に実害が無いならどうだっていいよ」


「正直でよろしい」


「あ、そうだ……あの」


「ん?」


「あなたの言った通り、帰ったらもう大丈夫だったから……これは報告ね。それから、ありがとう」


 巳央はいつもの、何を考えているのか分からない表情ではなく、穏やかに笑った。

 そして腕を伸ばして、小坂の頭を撫でる。


 小坂は目を見開き、顔を赤くし、驚いている。

 それは彼女にとって、想定外の出来事だったのだろう。


「よかったな」


 いつもとは全く違う声で、巳央は言った。

 低く優しく落ち着いた声であった。


 小坂の瞳が一瞬にして潤んだのが、陽成には分かった。

 心が追い込まれるほど必死に踏ん張っていた時に救われ、安堵した時。

 人は誰だって涙腺が緩むだろう。当然だ。


 自分もこうやって、ずうっと巳央に救われて来たのだな。巳央は陽成だけではなく、誰にだって優しい。


 小坂がラクになれて良かったと、陽成は心の底から思う。

 だがその反面、淋しいような気がした。


 別に巳央が自分以外の人間と仲良くなっても、悪い事ではない。


 でもきっと小坂の親は、巳央が小坂に抱く情と同じだけの感情を、陽成に向けてはくれない。

 当然だ。理不尽だと思う方が間違っている。

 だって巳央は、陽成の親ではないのだから。


「子供扱いしないでっ」


 小坂は恥ずかしそうな表情で巳央の手から逃げ出した。


「子供じゃん」


 いつもの笑顔を浮かべる巳央。

 小坂の瞳からは涙がひと滴だけ零れたけれど、それだけだった。


 あとはいつもの小坂に戻るのだろう。学校で朝から泣いてる場合ではないし。


「でさ。その絵本探したいんだけど、付き合える?」


「うん、行くっ」


「じゃ放課後、迎えに来……」とそこまで言った時。

 巳央は真顔になり、すうっと天井の方を見た。


 そして、数秒。


「……陽成」


「なに」


「またアレ聞こえたぞ」


「僕は何も聞こえないけど」


「うっふんあっはんのちゃりんちゃりーん、だ」


 陽成は息を吹き出した。それってあのうさぎの呪文ではないか!


 その瞬間、教室中の空気が変わった。

 陽成と巳央と小坂以外の、全員の瞳孔がぱっくりと開いている。

 横尾も中野もだ。


 みんながゆっくりと、こちらに歩いて来る。昨夜の再現だ。


「逃げるぞっ」


 その言葉が聞こえたと同時に陽成は巳央に抱えられ、状況を把握した時には窓の外に居た。


 窓の外――巳央が飛び出したのだ。


 右脇に陽成を抱え、左脇には小坂が居た。


 小坂は絶叫している。

 教室は三階だったのだ。そこから飛び降りたのだ。


 数瞬後。

 巳央が地面に着地する。


 陽成の身体にもその衝撃が伝わって来た。

 全身に響き渡る痛み。身体中の骨にヒビが入ったのではないだろうかと思えるほどの痛みである。


 小坂は上手く着地出来たようで「私、靴取って来るっ」と叫びながら、陽成の上履きをむしり取って下足室の方へと猛ダッシュした。


 校舎に戻るなんて大丈夫か、と心配した途端、巳央が陽成を抱いたまま飛び上がって数メートル横に移動した。

 と同時に、ガツガツーンと重たい物が落ちたような音が響いたのである。


 驚いてそっちを見ると、机とイスが地面に転がっていた。

 うわっ! と思って三階を見ると、窓辺に続々と机とイスが姿を現す。

 そして次から次にどんどん投げられる。


 そのたびに巳央が陽成を抱いて、ちょっとずつ移動する。

 遠くへ逃げないのは小坂を待っているからなのだろう。


「くそー。飛び降りはしないだろうと思ってたけど、投下攻撃かよ」


「全部投げるつもりなのかな」


「教卓まで投げるんじゃねーの。投げる物が無くなった奴から追いかけて来るとかさー。クラスメートを投げないだけでも理性的なんじゃね?」


 人が人を物のように窓から投げる場面を想像した。

 浮かんだ映像は頭が丸で、その他の身体が線だった。


「シュールだ」


「いや、グロだろ」


「生々しい想像した?」


「まぁね」


 校舎の方から小坂が走って来る。


「よし、じゃあ逃げるか。お前、金持ってる?」


「財布ならポケットにあるけど?」


「よかった。鞄に入れてるとか言われたらどうしようかと思ったわ。バス乗れるな? 三人」


「それくらいなら、まぁ」


 小坂が後数メートルの所まで来た時、巳央は再び走り出した。


「ちょ、ちょっと! 待ってよっ」


「いいから今は走れっ」


「湯山くんのスニーカー、持って来たのにっ。履いてよっ」


「それはもぉ少し預けとく」


「走り難い~ッ」


 陽成は小坂の方を見た。

 両手に片方ずつ陽成のスニーカーを持ち、振り回しながら走っている。


「ほらほら小坂っ、お前の真後ろに……来てるぞっ!」


 巳央が振り向きざまにそう言うと、小坂は一オクターブ高い声で「いやあああ!」と絶叫し――巳央を追い抜いた。

 その背中が、どんどん小さくなってゆく。

 彼女は昨夜の、陽成がリンチを受けている場面を見たのだから、怯えて当然なのだけれど。


「妙に体力あるんだな、あの子。なかなかのコメディエンヌっぷりじゃね?」


「そんな風に言っちゃ悪いよ、昨日だって怖い思いしてるのに。それより、どこに向かってるのかな」


「心配すんな。そのうちスタミナ切れるだろ。そこから乗り物に乗ればいいわ。じゃスピード上げるからな」


「うん」と返事している間にも、ぐんっ! と身体に重力を感じる程の速度に達した。

 新幹線や飛行機に乗った時とよく似た圧力だ。これくらいの事、巳央にとってはヌるい行動のはず。


 ――なのに巳央から逃げ切ったうさぎ、って……何なんだろ。


 土地の精霊だか妖異だかの巳央が、自分のテリトリー内で獲物を逃がすとは思えない。

 テリトリーを出れば別なのだろうけど、あの繁華街は少なくとも〈地元〉扱いなのだから、テリトリー外とは考えられない。

 なのに見失った、だなんて。


 まだ陽成はうさぎを見てはいないが、そのうさぎはもしかして……巳央よりも〈強い〉存在なのだろうか。

 だから今だって巳央のテリトリーでもある学校で、みんなに呪文をかけてしまった?


 陽成の気持ちがスッ、と冷たくなる。

 だけど巳央はもう、小坂の家庭は大丈夫だと判断したのだ。

 それを疑いはしないし、現実に無事だったみたいだし。


 だけど。

 そう。分からないのは〈原因〉だ。

 それさえ分かったら、うさぎの事も分かるのだろう。

 だから今は、小坂の見たと言う絵本に頼るしかないのだろうな。


 そんな事を考えているうちに、小坂に追いついた。

 彼女は前屈みになり、必死で呼吸をしている。

 場所は大通りに面した歩道だ。カラオケ屋パーキングの入り口である。

 ここならバスも通る。


「つっ疲れた……もう走れないぃ」


 声がかすれていた。呼吸器の粘膜が乾いているようだ。


「おいおい、ちょうどバス来たぞ。あれに乗るぞ小坂。反対車線だから、もう少し走れっ」


「えっ、ちょ……!」


 巳央に肘で腕を突かれ、小坂のマラソンがほんの少し延長される。


 小坂が、こっちを見た。

 巳央に抱かれっぱなしでラクチンそうな自分をうらやましく思っているのか、恨めしく思っているのかは――分からない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ