02-1
■02■
繁華街の方に向かっているようだ。結構な距離を走った。
陽成は息を切らしながらも、必死で巳央を追いかける。でも本当は、運動はあまり好きではない。
バス道路に沿う歩道は、まだあまり深い時間ではないし、人通りがそれなりにあって走り難い。
巳央は人々の間をニョロニョロと、滑らかに身を交わしながら進んでゆく。
ああ言う姿は、確かにヘビっぽいと思う。さっきのジャンプだってそうだ。ヘビは五メートルくらい平気で飛び上がるらしいし。
巳央は自分の事を、両親を不仲にさせた土地に棲む妖異の化身、だと言った。子供に分かりやすい言葉で言うなら〈妖怪〉である、と。
妖怪である彼の本体は白いヘビだと言われた。
白い身体で、青い瞳を持つヘビだ。
その姿を陽成は、これまで何度か見た事がある。
白い身体を透明な鱗が覆い、クリスタルが朝の光を浴びているようだった。
そこにはめ込まれた青い瞳は、星空みたいにキラリと光を反射させる。
白い身体はアルビノ、と言うらしい。
でもアルビノって瞳は赤いのが普通らしいのだが。
『俺、妖異だからさぁ~。マトモな生物の分類には当てはまらなくて当然かも』
巳央は笑って言った。
『アルビノ・ブルーとでも呼べよ。うわ、ナンかカッコよくねぇ?』
それ以来、陽成は巳央の事をアルビノ・ブルーのヘビだと思っている。人の形にも化けられるヘビだ。
愛し合っていたふたりが憎み合い離婚するような世の中なのだから、ヘビの化け物くらい居るだろう。
どちらが理不尽かと問われれば、変化する人の気持ちの方だと思う。
少なくとも陽成にとっては、迷惑だった両親より、支えてくれた妖異達の方が大切だった。
随分、商業施設が増えて来た。街灯の下で人々が雑然と行き交っている。
巳央達が居なければ自分も夜明けまで、こんな場所をうろつく街の住人となっていたに違いない。
ドラッグや暴力などに翻弄され溺れ、今よりもっと荒んだ気持ちになっていたのは確かだろうな。
「うらぁ~! どこまで逃げても一緒なんだぞっ。こっちはお前のニオイ、覚えたんだからなぁ!」
上空を見上げながら巳央が叫ぶ。
「観念してとっ掴まりやがれ、クソうさぎっ!」
――うさぎ? 僕達が追いかけるのって、うさぎなの?
そしてまた、巳央が街灯よりも高くジャンプする。
右腕を伸ばし、大きな半円を描いた時。
ぶちっ! と短い音がした。
降りて来た巳央の手には茶色い、クッキー色の毛らしき物体が握られていた。
握り拳を形作るそれぞれの指の間から、結構な量の毛がはみ出している。
「ひ……ひぃ! 酷っ!」
声が聞こえた。短い言葉を発している間にも、遠ざかってゆく声。
「今度は毛だけじゃ済ませないからな! 耳としっぽと、ぶっ千切られるならどっちがいい! それとも全身、ズル剥けがお好みかっ!」
どれもお断りだろう。脅すから必死で逃げるわけで、その分、陽成が走る距離も伸びてしまう。カンベンして欲しかった。疲れた。
「え……なに?」
突然、巳央が呟いた。
お? と思い、陽成は彼を見つめる。
巳央は少し首を傾げながら、視線を前方に落とした。何か、集中しているような表情で。
「ちゃりん?」
「ど、どうしたの」
「いや、妙な言葉を発したみたいだから……ちゃりんちゃりん、て」
「誰が」
「クソうさぎ……呪文、か?」
呪文、ならば陽成には全く分からない。
巳央達も時には使っているみたいだが、何度聞いても理解出来なかった。
あれは言葉ではなく音だと思うのだが、彼らはハッキリと「意味のある言葉だ」と言う。
聞いても分からないなら、異国の言葉と同じだ。陽成の理解の範囲を超えていた。
うさぎの発したと言う呪文に対して陽成は興味を抱けず、諦め気分で走り続ける。
止まりたかったし休みたかったけど、うさぎとの追いかけっこに決着がつくまで、どうせこのまま走るのだ。
――どっちでもいいから、ギブしてくれないかなぁ。
ゴールの見えないマラソンなんて、地獄である。
と、突然。
「ぷっ!」と巳央が吹き出して笑った。「え?」と視線を彼に向ける陽成。
「ぶあははははははは! な、ナニ言ってんのあのクソうさぎっ! 止めて、笑えるから止めてぇっ!」
脇腹を押さえながら巳央は走っている。
「今度はなにっ」
「ひぃはは! いやね、もっと他に言い回しとかあんだろ、って」
そんなにも面白いのか、あんなに速かった巳央のスピードがガクンと落ちてしまい、息も乱れてしまっている。
「あいつ、人間の耳元で囁いてるぞ」
「だから、何を」
「『あっはんうっふんちゃりんちゃりん!』だーって! ぶあーははは! バーカバーカ!」
巳央は息を整えた後、再びダッシュを開始した。
「なにそれ、なにそれっ。意味が分からないよっ」
陽成は巳央に向かって叫んだ。もう、彼に追いつこうだなんて体力は残っていない。巳央の姿は人に紛れて見えなくなった。
陽成はやっと、足を止めた。前屈みになり、両手を膝について荒い呼吸をくり返す。背中に一筋、汗が流れた。
「人の欲望を刺激してやがるんだ! お前の友達、無事でよかったな!」
遥か前方から、それだけが聞こえた。
――欲……望? あっはんうっふん、が?
背筋がゾワッ、とした。
それはきっと、性と金に対する欲を刺激している、と言う事なのだろう。
刺激すればそれに釣られて、人が自分の言う事を聞くとでも? コントロール出来るとでも?
陽成はガードレールに腰掛けて、息を整える事にした。
喉が渇いた。自販機、近くに無いだろうか。
自販機を探して視線を流すと、そこは雑貨屋の前だった。隣はカフェで、その隣はガラス張りのブティックである。
――コンビニでもいいんだけど。
キョロキョロと視線を動かす。少し移動しないと、無いようだ。
――カフェかぁ……ジュースをグラス一杯じゃ足りない気がするし。
少し多めの水分をグイッ、と流し込みたかった。
仕方なく陽成は立ち上がり、水分を求めて移動する。
巳央が向かった方向に少し歩くと、ちょっと先にコンビニのネオンが見えた。
ホッとしながらそこへと入り、目的のドリンクを数本購入して店を出た時。
陽成はビクッと身体を震わせた。
自分の立つコンビニの出入り口を半円状に囲むようにして、目つきの怪しげな人間が並んでいたから。
まさか、と思う。
その人達の統一感が無い。通りすがりのバラバラな人達が集まり、瞳孔を開いてこっちを見ている。
制服姿の高校生や、私服姿の中学生、大学生にサラリーマン……年齢もグループもバラバラだ。二十人くらい居るだろうか。
全員、その黒い瞳孔がパックリと開いた目でこっちを見ている。
陽成を見つめている。
「み……巳央」
呟くが、当然のように返事は無い。彼はもっと先に行ってしまったではないか。
――自力で切り抜けなきゃならないって事ぉー?
自分の身を自分で守るなんて、当然の事だ。
だけど操られている集団を相手にだなんて、ちょっとムリ。ケンカ馴れしてないし、こう囲まれたら逃げ出そうにも逃げられない気がする。
陽成は一歩、横にズレた。彼らの視線も同じタイミングで動く。完全に自分がロックオンされている。
後退だけは、してはいけない。店の中に逃げ込めば、追い詰められると言う事だ。抜け出さなければ、絶対に。
左に一歩ずつ移動する。彼らも距離を保ちながら付いて来る。
コンビニの壁まで、自分を囲む人は居た。自分を中心に、半円状に並んでいる人達。
どうにかして抜け出さねば。
陽成は移動するスピードを上げた。スッ、スッ、スッと身体を移動させ、その勢いでドリンクの入ったコンビニの袋を振り上げた。
そして遠心力を付け、その勢いで壁まで詰めていた人を狙う。
一番端にいた大学生くらいの男のこめかみをヒットした。
ガツン、とした衝撃が袋を通して伝わって来る。人をペットボトルで殴った衝撃だ。
男はうめき声を漏らした。自分がとても酷い事をしてしまったと心が萎縮するのだが、この人達は明らかにオカシい。いつ豹変して襲われるか分からなかった。
囲みを突破したが、陽成は走れない。自分が走れば相手も走り出しそうな、イヤな予感しか無いからだ。
自分の足が遅い事だけは、分かっている。追いかけられたら、逃げ切れない。
ドキドキしながら、彼らから視線を離さないようにしながら、巳央が行ってしまった方向へと移動する。
ジリジリと移動している自分を、近所の猫みたいだと思った。猫はそれすらも可愛いが、自分がみっともない事は分かる。
その時、若いサラリーマンがこちらに腕を伸ばして来たので、それをまたコンビニの袋で振り払う。
人の肉や骨を叩く感触は、心地悪かった。
さっきの人はこめかみとは言え、頭を殴ってしまったが……大丈夫だろうか。
自分のやってしまった事に恐怖を覚える。
と、その時。
陽成は背後から突然、羽交い締めにされた。
驚いて顔をそちらに向ける。女の子がふたりほど見えた。
腕をギリッと締め上げられ、思わず悲鳴が漏れる。
痛い、容赦無い。女の子の力とは思えなかった。だが背後から聞こえる小さな笑い声は、確かに女の子のものだった。
後方へ大きく引っ張られ、バランスが崩れる。
それとほぼ同時に左腕が強く、別の人に引っ張られたのが分かった。
太くたくましい手の感触に手首を掴まれたからだ。絶対に、女の子の手ではない。
男の気合いの叫びと共に、陽成の身体は空中を跳んだ。
短い飛距離だったと思う。
だが瞬間瞬間がとても長く感じられて、目が周囲の景色を確認してゆく。
商業ビルが見えた。夜空が見えた。街灯も見えて、それらが足下の方へと流れてゆく。
そして陽成は、自分の身体がガードレールから車道へと移動している事を確認した。
ヘッドライトとテールライトの流れる空間へ向かってゆく。
身体が落ちる。光の流れの中へ。
複数のクラクションが聞こえる。ビーッとした長い長い、警告音だ。何台も鳴らしているのだろう。
だけどそんな物を鳴らされても、陽成にはどうしようもない。空中を落下してゆく自分の身体は、コントロール出来ない。
大音量に包まれて、陽成は両目を閉じて身体に力を入れた。
他に、自分を守れる術が無い。
流れ行く物体に打ち当たる。
最初は腰だった。それからすぐに背中、そして肩。
衝撃を感じて陽成は、首を前にすくめた。
だってとても痛かったのだ。あんな勢いでアスファルトに頭をぶつけたら、きっと無事では居られない。車のボディに擦っただけでもこんなに痛いのだから。
身体を丸め、ブレーキとクラクションの洪水を浴び続ける。
地面に落ちる時はきっともっと痛いだろうな。そう思うと、心も強張った。