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星空の海辺に  作者: あおい
01
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01-1

■00■

 穏やかな水辺だった。

 透明な湧き水が小さな泉を作り、そこから細く細く水が流れてゆく。

 水はやがて川へと合流する。


 泉は変わらず水を生み出し続けていたが、ある時。


 水の中に小さな結晶が姿を現した。

 赤子の爪程に小さな、透明な結晶である。


 それは陰の気の塊、であった。


 周囲に暮らす精霊達はその結晶を〈象徴〉と呼んだ。

 この国の、この土地の、〈陰気の象徴〉なのだ。


 空から太陽の光を浴びてキラキラと輝き、鋭くも美しい〈象徴〉である。

 象徴が育ち、意思を持ち、瞳を開けるまでには遥か長い時を必要とする。


 人がまだ、精霊と区別がつかない存在であった時代に、それは生まれた――。




■01■


「起立、気をつけ、礼」


 誰もがピクリと小さなリアクションで頭を下げ、そのまま放課後に突入した。今日も授業は無事に通り過ぎ、クラスメート達は部活や遊びなど、それぞれの世界へと戻ってゆく。


 湯山陽成ゆやまひなもみんなと同じで、開放感にホッと息を吐いた。

 ふわりとした髪はミルクチョコレートのような色をしている。男子にしては大きい瞳で、黒目に宿る光は穏やかだ。


 クラスでも大人しく地味な少年は母子家庭で暮らしており、仕事が忙しい母親に変わって家事をするのが日課であった。

 掃除はあまり得意ではないものの、料理を作る事は楽しくて、あまり苦にはならない。

 さて今日は何を作ろうか。自宅にどんな食材が残っていたのか、記憶をたぐり始めた時であった。


「おい陽成、ちょっとこれから付き合えっ」


 友人の声を認識した時、もう右腕が強い力で引っ張られていた。


「え? あ、ちょっ……」


 左手で慌てて机の上の鞄を掴み取り、友達の横尾に連れられて教室を出る。


 横尾は陽成より二センチほど背が高く、髪はこざっぱりとした黒の短髪をした男だ。

 あまり裏表の無い性格で、今のクラスでは一番親しい友人である。

 小学校の低学年から時々、同じクラスだった。クラスが変われば自然と疎遠になり、同じクラスになれば自然と付き合いが多くなる。

 普通の付き合いが普通に続いている相手だった。


 下足ロッカーで上履きからスニーカーに履き替え、校舎を出る。

 出た所には横尾と最近仲良しの、中野がいた。


 中野は、黒髪ロングの女子だ。落ち着いた漆黒の目をしていて、女子の中に居ても、ちょっと存在感がある。

 男子からの人気は当然だが、女子からの人気も相当あると聞く。こざっぱりした性格らしいのだ。その、神秘的な美しい顔立ちからは想像もつかないような、見た目とは印象の違う子らしい。

 陽成はあまり親しく無いので、その評判が本当かどうかは分からない。話をした事すら無いのだから。


 横尾と中野は以前、席替えで隣同士になった時、意気投合したらしい。ふたりの間に恋愛感情は無いようで、サバサバとした付き合いをしているように見える。

 そう言えばこの間、横尾が言ってたっけ。


「中野ってさぁ、黙ってたらそれなりの美人なのに、考え方とか聞いてると、男っぽいんだよなぁ」と。

 だから、話しやすいし付き合いやすいのだ、と。


 その中野が、こっちを見ている。まるで自分達を待っている、ようであった。

 実際、そうなのだろう。


「お前らどこか出掛けるの?」


 横尾に問うと「おう、お前もな」と返って来た。


「……ど、どこに」


「んー、ファミレスでも行くか。待たせたな、お前ら早いわ」


 言われてみれば、同じ教室で。同じ礼をしたのに。もう校舎の外に出ているなんて。


「いーからいーから、早く行こ。ガッコ出よ!」


 中野がくるっ、とこちらに背中を向けて小走りしだした。思わずそれを追いかける。


 なぜだ。どう言う理由があって自分がふたりのお出かけに巻き込まれているのだ。

 今日がスーパーの売り出し日じゃなくて買い物の予定も無かったからいいようなものの、突然過ぎる。


 今日一日、横尾も中野も、陽成には何も言ってくれなかったくせに。


 不満がコロリと胸を転がったその時、陽成の目は〈もうひとり〉を発見した。

 中野の隣に並び、同じスピードで移動してゆくその背中。後ろ姿。


 ――小坂、さん……?


 背中の、肩甲骨ほどまで伸びたストレートの髪はココア色で、スカートから伸びる脚は膝から下が中野より長い。

 中野だってスタイルはいい方だけど、頭のサイズや胴体部分の骨格を比較すると、隣の子の方がもっといい。


 ――あの後ろ姿、やっぱり小坂さんだよな……中野さんと仲良かったと思うし。


 小坂真夕こさかまゆも中野に劣らず、男子からの評判はとてもいい。クラスで一番可愛いと言われている子だ。

 もしかしたら学年で一番可愛いかも知れないし、ひょっとしたら全学年の中でも一番可愛いと言えるかも、なんて男子が噂しているのを聞いた事がある。


 そんな、ふたりの女子を追いかける。


 中学に入ってから陽成は、そんなに身長が伸びたわけではなかった。

 クラスで身長順に並ぶと、男子の中では真ん中より少し後ろだが、スタイルのいい彼女達より多少は背が低かった。

 その分、脚も短いのだろうか。追いかけて、息があがる。


 周囲に楽しげな人達が歩いている中を、小走りで抜けた。


 校門から飛び出すと、ふたりの女子はホッと息を吐いて、数秒。

 陽成と横尾が追いついてから、改めて。


「じゃ、行こうよ」と言った。


 中野と一緒に居たのは、やはり小坂だった。

 誰とでも分け隔てなく接する事の出来る、笑顔の絶えない明るい子だ。

 顎の小さな丸顔で、大きな瞳は目尻が少し下がっていて、可愛らしい。

 美少女にありがちなトゲトゲした空気は持っていないので、男子から大人気である。

 いつだって楽しげに、みんなの中でキラキラしている女の子だ。


 陽成は常日頃、彼女が自分とは正反対の存在なのだな、と遠くから見るだけであった。もちろん会話をした事はない。挨拶くらいなら、あったかも。


 そんな小坂が……中野の横で。


 今にも泣き出しそうに表情を歪め、つぶらな瞳は潤み、涙が滴りそうになっていた。

 その視線は地面に向けられている。


 陽成はギョッとして、思わず息が止まった。


 ――なっ、な……なにっ? ど、どぉしたんだ!


 女の子が泣く理由、と言うと。


 ――う。し、失恋とか?


 ならばなぜ、自分がここに居るのだ。関係無いではないか。

 不快な鼓動がバクバクする。


 ――ファミレスって言ったよね……これから気晴らしの宴会でも始めるの? ドリンクバーで?


 陽成は心の一部が冷たくなるのを感じた。

 こんな時に慰めたり気晴らししたり接待したりするための、宴会芸など持ってはいない。オモシロ小咄やモノマネのレパートリーも皆無だ。


 女子が好きなモノ、好きそうなモノと言うと……何だ? 思い浮かべろ、イメージしろ。

 精神集中し、考えてから。


「ぼ……僕、みっきー……」


 小声で呟いてみる。


 ――……ダメだぁ~!


 裏声が上手く出ない。

 あまりのヘタクソさで全身にトリハダが立った。ゾクゾクする。


「え、ナンか言ったか」と隣を歩いている横尾に問われ、陽成は「なんでもないっ」と強く否定した。


 もしかして聞こえてしまっただろうか。

 陽成は自分の頭も耳も首も背中も、毛穴が開いたように熱くなるのを感じた。

 恥ずかし過ぎて、横尾に今のセリフが届いていない事を祈り、願う。


 大きな道路に出て、バス停の少し先にあるファミレスに入った。

 制服姿で、四人で。


 禁煙席のフロアに案内されて、窓際の一角に座り込む。

 奥に小坂と自分が押し込まれ、通路の方に横尾と中野が座った。


 陽成の正面に小坂真夕。

 彼女をチラ見するけど、その表情は先程と変わらず暗く、緊張が漂っているのが分かった。

 シリアスな雰囲気だ。苦手だ、こんなの。


「ほらほら真夕、メニュー見て見て。パフェどうよパフェ。それよりケーキの方がいい?」


 中野が小坂の前にメニューを広げた。

 それから、数十秒程度の長い沈黙の後。


「……パフェ。お団子のパフェ。白玉団子のパフェがいい」


 小さな低い声は震えていた。今にも泣き出しそうだ。

 そんなにも泣きそうなのに、パフェは食いたいのか。食いたくも無い、と言い出したら危険領域なのかも知れないが。


「抹茶と白玉のパフェね、うんうん、分かった。じゃ、あんた達は?」


 小坂には猫撫で声だったのに、こちらへの問いかけは放り投げるかのような、味の無い言い方である。

 横尾がメニューを受け取り、視線を落とした。


「腹減ったなー。とりあえずチョリソとフライドポテトかな。陽成、ほら」


 今度は陽成にメニューが回って来た。


「え……と。苺ソースのパンケーキ……かな」


「じゃ、あたしもそれにしよっと」と言って、中野がオーダーを済ませてくれた。もちろん全員ドリンクバーを付けて。



 中野が小坂を連れ、ドリンクバーへと行ってから。


「あのさぁ! 何なのコレっ」


 陽成は横尾に抗議した。

 自分ひとりが事情を知らなくて、なぜ小坂があんな落ち込んでいるのかまるで分からない。

 何の説明も無いのは理不尽だ。


「俺だってお前に、悪いかなぁとは思ってるわけ、迷ったし、今だって申し訳無い気持ちがあるわけ。でもさ、小坂が〈あんな〉だからって、中野がすげぇ心配してるし」


「だから……」何の事だ? と問いかけて、躊躇した。小坂の悩みを本人の了承も無しに聞き出すなんて、やってはいけない事のような気がして。


「ほらな。陽成はそんな風に優しいし、繊細だからさぁ……イヤなコトを思い出させたくはないわけよ? 俺だって」


「言い方、クドいよ」


「だよな。俺だってそう思う。だからこれは、俺の葛藤だから、って言っておく。それだけは分かってくれ。俺の良心がチクチクしてんだ、って」


 イヤな事。

 良心が痛むような事。

 横尾が陽成に対して、そこまで考えるような事――。


 心当たりが、あった。


「もしかして小坂さんの両親って……」


 横尾はため息をひとつ吐き。


「うん」と頷いた。


「元々、すげー明るい家庭だったらしいんだ。原因もよく分からないって、小坂は混乱もしてるらしくて」


 大人達の事情なんて、子供には窺い知れない事がきっと多々、ある。

 家庭が壊れるくらいの事情が、あるのだろう。きっと。


「離婚なんて、よくあるコトじゃん? そのコト自体は小坂も分かってるらしいけど、実体験が襲って来たとなると、動揺くらいするだろうさ。特に、原因が分からないようなら尚更なー」


「まさか、それを慰めろって? 僕が乗り越えられたんだから、小坂さんだって大丈夫だよって、言えって言うの? 今現在、その問題の真っ只中に居る当事者にっ?」


 クラスメートの言葉なんかで心が落ち着くような問題ではない、と陽成は思う。


「そー言うわけじゃ、ない、けど。いや、そうなんだけど……。陽成なら、さ。小坂の愚痴を全て飲み込んで、なるべく傷付けないような言葉選んで、相談にも乗れるんじゃねーかな、と思ってさぁ」


「これまで話した事だって無いんだよ? そんな人間に首を突っ込まれたら小坂さんだって、困るって!」


「いや、お前なら大丈夫だって。中野も信用してくれてるし」


「信用? 何をっ」


「だから、陽成を」


「僕、中野さんとだってあんまり話した事ないよっ。それが信用されてるとか言われても、信じられるわけないからっ」


「お前が中野を信用出来なくても、あいつはもう陽成を信用してるから」


「だから、どうしてっ」


「だから、それは俺がお前の事を……っ」


 そこまで勢いで返して来たくせに、横尾は言葉を一度切り、濁した。

 でも変わりの言葉を見つけられなかったらしく。


「お前の親友、ミオとか言ったっけ?」


 親友、と言われると妙な感じだけれど。


 確かに巳央は、生まれた時から陽成の傍に居てくれた。

 家庭の事でいっぱい傷ついても耐えられたのは、きっと彼が居てくれたから。


「友達に支えられて、頑張ったみたいなんだよ、って言ったら……中野は自分でも頑張れば、小坂の慰めになるんだろうか、って……言う、からさ。健気じゃん? 少しだけ、話してやってくれないかな」


「話す、って……巳央の事を?」


「て言うか、家族が全てじゃないって言うか……何て言えばいいのか難しいけど」


「友達は素敵だよ、って? そんな事で消える不安なの?」


「難しいか?」


「て言うかね。僕には分からないから」


「何が」


「小坂さんの家庭って、平和で明るかったんでしょ? そんな家庭じゃなかったから、ウチ」


 横尾の頬がピクッ、と反応したのが分かった。


 そうだ。横尾だって言い難い事を、こうやって頼んでいるのだ。気を遣ってくれているのだ。

 こんなにも煮え切らない態度で、言葉を探して。


「……ごめん」と陽成が言うと、横尾も「こっちこそ、スマン」と言ってくれた。


「僕は僕の経験しか分からないけど、それでよかったら話してみるよ」


「……そぉ? いい?」


「先輩ヅラするみたいで恥ずかしい、けど」


「だよな。ほんとスマン。俺、短絡的だわ反省する」


 だけど横尾は、覚えていてくれたのだな。

 陽成があまり楽しい私生活を送っていなかった事や、巳央の事を。

 普段はそんな事を話したりはしないから、昔の事なんか自分でも忘れていたような気がするのに。



 彼女達が戻って来て、自分達もドリンクを取りに行って。

 それからみんなで小坂の愚痴を聞いた。


 離婚だ何だと言い出した理由が全く分からない、と何度も言う。

 それが一番、彼女の心に引っかかっているのだろう。


 数日前まで何の予感も無かった、両親の苛立ちと大喧嘩に振り回されている小坂。

 自分の感情をどう持って行けばいいのか、折り合いを付ければいいのかなど、そんな事を考える前の段階みたいだった。


 きっと怖い、のだろうと思う。安定していた家庭が、今にも壊れそうになっている。

 帰るべき場所が崩れると言うのは、自分の存在まで不安にさせるようで……恐怖を招いてしまうのは、仕方のない事だと思う。


 特に平和な家庭で育って来たのなら、その差に怯えてしまうのは無理からぬ事。


 胸がきゅーっ。と痛くなるのも想像出来る。

 底知れぬ不安を未来に対して抱いてしまい、怖くてつらくて、逃げ出したいだろうと思う。


 その愚痴を聞いて、同じ内容の不安を何度も聞いて、全てを肯定してあげて。


 クラスメートがそれを聞いてあげたからって解決してあげる事など出来はしないし、そんな事はここに居る四人全員、分かっていた。


「まぁ、とりあえず原因を知りたいよなぁ。皿やグラスが飛び交う状況にまで追い込まれてるなら難しいかも知れないけど、原因を解消出来れば離婚もチャラに出来なくはない、よな?」


「どうして教えてくれないんだろうねぇ……聞いてはみたんでしょ?」


「うん。でもこれまでの積み重ねが今、突然爆発したんだからどうしようもないのよ! って言われて」


 ――積み重ねとか、定番だなぁ。


 女性のヒステリックがどれほどに手強いのか。陽成には経験があるから分かる。

 子供なんかには、どうしようもない。大人の男の腕力でしか押さえ込めないと思う。


「あー、ヤだヤだヤだヤだ! 帰りたくないっ! 家出したいっ」


「今夜、ウチ来る?」


「なかりんに迷惑かけられないよ」


「あたしだって心配だよ、家出とか言われると」


「だから、我慢して帰ってるもん……こんな時、兄弟居ないってつらいーっ!」


 ――他人は他人、だもんな。いくら友達でも。


「けど陽成は友達に支えられて、やり過ごしたんだよな」


 キた! と思ってドキッとする。


「う、うん……まぁね」


 小坂の視線がチラリ、とこっちに流れて来た。


「湯山くんからは〈自宅の修羅場〉って気配を感じられないから、意外なんだよねぇ。私と同じ立場を経験した、だなんて」


「僕にとっての修羅場は……生まれてから小学校入学くらいまで、だったからさ。親が離婚してくれてからは少し、落ち着く事が出来たから……。て言うか多分、ウチの修羅場は僕が生まれる前から始まってたみたい、なんだけど」


「うわ、それキッツいね……生まれる前からご両親、不仲だったの」


 そう言った中野に向かって、陽成は苦笑いを浮かべて見せた。向こうも苦笑いを返してくれた。


 だったら生まなければよかったのに。と、心の中で何度抗議したか分かりはしない。

 無限に考えた。

 生まれて来なければ殴られる事も、蹴られる事も、文句を言われる事も、無かったはずだから。


 その方がよかった。


 仲が壊れてしまった夫婦にとって子供など、荷物でしかない。

 そんなの、大人の方が分かっているはずなのに、なぜ生んだ?


 ひとりの子供を成人させるのに、数千万円かかると聞いた事がある。必要の無い子にそんな経費がかかるなんて、バカみたいではないか。それに。


 陽成だって、好きで生まれて来たわけじゃない……。


 だけどきっと、小坂は違う。

 自分の家庭に満足していたはずなのだ。

 だから混乱しているのだ。不安なのだ。


 同じ不安でもきっと、陽成の抱いている気持ちとは違うと思う。

 彼女は〈今〉を乗り越えれば、人生を肯定して生きてゆける人だと思う。


 でも自分は――。


「湯山くんは幼かったから覚えてないの? 不安じゃなかったの? 抱っこされて当然の頃なら、特に深く考える事もなかったのかな……」


 親が罵り合う怒鳴り声、金切り声、泣き声……どれも陽成の心を壊そうとした。

 でも自分には巳央達が居た、から。


「覚えてない事は、無いよ……覚えてる。怖い思い、したし。親の離婚が現実だったのは、未だに現実として今の僕の生活の中に存在してる。母子家庭だから、家事は僕がやってるし」


 ふたりの女子が少し目を開いて、こっちを見た。


「家事、してるんだ?」と中野。

「そうだったの」と小坂。


「私、そんな事する覚悟すら、持てないよ……今の生活、手放したく無い」


 小坂の本音が出た。

 家事をしたくない、と言う事などではなく、両親の揃った家庭を、生活を、手放したくないのだ、と。


 仲のいい家族だったのなら、その思いは強いだろう。

 家庭が壊れてやっとラクになれた自分とは、やはり違うのだ。


「小坂さんが自宅に戻りたく無い気持ちは僕にも分かる。僕が夜の街を彷徨わないで済んだのは、やっぱり支えてくれた友達のおかげ。それ以外には何も無かったよ」


 だから小坂に伝えられる事など、何も無い。


「親へのわだかまりが解消されたわけじゃないから、今でも自宅の中で自分以外の気配がしたら、イライラする。足音とか咳とかあくびさえ……聞くのはイヤなんだ。母親のね」


 他人の気配は大丈夫なのだ。客や、隣の家の人の気配、外を歩いて通り過ぎてゆく人達の会話の声も。

 自分に関係ない人達は親みたいに、陽成の気持ちや生活を壊しには来ないから。


「電話してる時の深刻な声とか、嘆きの感情が混じってる声とか、ため息とか――聞きたく無い! って叫びたくなる時もある……」


 我ながらよく我慢出来てるな、とフと思った。

 小坂が言うように、それこそこの感情を分け合える兄弟が居たらよかったのに。


 でも、居ない。それが現実。


 気を紛らわせてくれる存在、それが巳央。

 別に巳央は、親の不仲を解決なんてしてくれやしない。ただ、陽成の傍に居てくれた。


「うぉ、マジか。それは知らなかった」


「誰かに言うような事じゃないから」


「シンドいだろ」


「うん……でもほら。僕には巳央が居るから」

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