岩場の陰
リュウジ、ヤスさん、カホ……もう一人あの冷たい瞳をする人間を知っている。別れた女房だ。
美人という感じではないが、器量よしといわれた。よく笑いよく食べた。実家の離れに住んで、漁師の女房として働いていた。
一年程立った頃、妊娠した。
「男の子がいいね」きっかけはその言葉だった。
母親は男の子を可愛がる。俺のお袋も妹が産まれてすぐに死んでしまうまで、兄貴を可愛がっていた。俺はいい表せない恐怖にかられた。何故か『あの日』、ヤスさんに連れられて立ち去ったリュウジの後ろ姿がちらついた。
「子供なんか、いらん」
女房は笑わなくなった。体調が悪くなった女房にいらいらし、暴力をふるった。女房は必死で腹を庇っていた。俺はかまわず、日常的に殴った。そのたびにリュウジの後ろ姿がちらついた。いやリュウジではなくお腹の子供の後ろ姿だったのかも知れない。
ある日、話し掛けても返事をしない女房に腹がたち、いつものように殴ろうとした。女房は腹を庇う事もせず、俺を見据えた。あの冷たい瞳で。
「子供を俺に殺させる気か?」返って来た答に愕然として、俺は殴る事もせず、家を出た。
「あんたの子供なんか、もう始末してきたわよ」明け方家に帰ると、女房の姿はなく、離婚届だけが残されていた。
俺はふてくされて浜の岩場に寝転がった。冷たい瞳に追いかけられている気がして、目をつぶった。
眠っていたのか。
近付く二人分の足音で目が覚めた。
「ここで休みませんか?」カホの声。
「ああ」もう一つはカタセさんの声だった。
沈黙が続く。波の音が響く。俺に気付く様子はない。
「何もないところでしょう」
「私のまわりにあるものはないですね。でもリュウジを育ててくれたいろんなものがある……」愛おしそうなカホの声の余韻が残る。
また沈黙が流れる。
「あの」
二人の声が重なって、くすくすと笑いが起きる。
「お先にどうぞ」
「はい。あの、すみません。私なんかで」
「私なんか?」
「ええ。漁のお手伝いも出来ず、車の免許もなく、こっちに住むわけでもなく……」
「構わん。あいつは漁師にはなれんから。私なんかなんて言わないで下さい」
「……」
「あいつは……大丈夫ですか?」
「大丈夫?」
「ほら、わしはずっと漁師で……口も下手くそじゃから。その……しつけはいつも」
カタセさんの拳が空を切る音がする。
「ああ。殴ったり、しません。癇癪起こしてひっぱたくのは、私の方かな。ごめんなさい。大事な息子さんを」
「いや、いや。あかんたれをひっぱたくのは女の人の特権です」
ひそやかな笑いがおさまってまた沈黙が流れる。空は晴れていて、時々星が流れる。
「リュウジもカズミも遅くに産まれた子で甘やかしてしまったから……迷惑かけてませんか?」
「迷惑なんて。でも甘やかされたのはわかります」
「え?」
「ちょっと違うかな。とても愛されて来たんだなって。うらやましい。私は親戚をたらい回しにされたから」
「……」
「でも、これでも産まれてきた事には感謝してるんですよ」
カタセさんの声が弱々しく探る。
「うまく……言えなくて悪いの。母さんが生きてたらなんていったかな」
「ふふふ。リュウジとおんなじ言い方です」
「あいつも母さんっ子だったから」
「そうみたいですね」
「あいつが高校に入ってすぐに母さんが入院して。なんかお守りやいうて四つ葉の……」
「クローバー?」
「そうそれをとってきたけども……」
「?」
「泥だらけというか傷だらけで」ふっふっと二人の笑い声がする。
「だけどあの時が最後だった。それまでは何度かあったけど。傷だらけでも男だから……」
「きっと」
駆け足の砂音が聞こえる。
「きっとその日に本当に男になったんじゃないですか?」
「何やってんの」弾むリュウジの声がする。
「何って、デートだよ」
「そうそう」
「何がそうそうだよ。息子の彼女捕まえて」
「いいじゃない。ネ、カタセさん、カズオさんってお呼びしてもいいですか?」
「いいね。カズオ、でもいいよ」
「親父、何いってんだよ」
「お前がリュウジって呼ばれているのがちょっとうらやましい」
「うふふ」
「ああ、もう、恥ずかしい。いいから帰ろう。走ったら酒抜けちゃったよ。家で飲み直そう……」
声が離れて行く。
『あの日』リュウジが何をしていたかなんて、考えてもみなかった。
俺が考えていたことといえば…
何故誰も俺を見ない?
何故リュウジばかり可愛がられる?
母ちゃん連中も、ヤスさん達先輩も、商業高校の女達も、マナミもカホも何故リュウジばかり見る?
リュウジを知らないお袋も女房も、何故俺を見ない?
運動だって勉強だって、漁にしたって、リュウジよりも兄貴よりも出来るじゃないか。
何故愛されない。
本当は気付いているのかも知れない。
リュウジのように誰かのために地面にはいつくばった事があっただろうか。
ヤスさんのように誰かを見守った事があるだろうか。
カホのように誰かを守ると強く思った事があるだろうか。
女房のように体をはって誰かを庇った事があっただろうか。
わからない。
ただ愛されたいと願ってきた。ただそれだけ。
だから妬ましかった。リュウジはすべてを持っているようで。俺がどんなに願っても、手に入らないものを持っているようで。
「私のまわりにあるものはないですね。でもリュウジを育ててくれたいろんなものがある……」その言葉がぐるぐると頭を回った。
いろんなもの……
ただ広いだけの自然。ランドセルを置いて帰った木陰。海水パンツをぬがされた海。殴りあった草村。リュウジの両親と妹。ヤスさんのような先輩。マナミのような後輩。ツヨシのような同級生……
俺は?俺はリュウジを育てたいろんなものに入っているのか?
愛おしそうなカホの声がこだまする。
リュウジをいじめた事を後悔しているのか?……わからない。俺はただ、愛されたいだけなのに。
わからないのにただ、涙が溢れた。
波を渡る風が、遠吠えのように長く長く鳴いていた。
かなりタクに感情移入しながら書いてしまい、最後はせつなくなりました。どんな理由があるにせよ、いじめはいけません。




