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優しく慈愛に満ちてるのが聖女だよね?

 このまま学校にいても何をするでもない。昇降口で靴を履き替えて、少し早いがバイトへ向かうため鉄は校舎を出ようとした。

「江川鉄君」

 凛とした、聞き覚えのある声に鉄は足を止めた。

 通り過ぎる生徒はもちろんのこと、教室の窓から身を乗り出してこちらに興味津々の眼差しを向けてくる生徒までいる。

 確認するまでもない。だからこそ、できれば振り返りたくない。足を止めなければよかった。鉄は後悔した。

 すると声の主はもう一度鉄のフルネームを呼んだ。

 何度も無視するわけにはいかず、油の足りないブリキ人形よろしく、鉄は振り返る。

「……ぇっと、マジェッツさん」

「はい」

 カナンはにっこりと微笑んだ。

「ぅっ」

 急に息苦しさを感じて鉄は息を呑んだ。


(動悸? 十七にして既に動悸なのか?)


 小さく呻き声を上げて胸を抑えた鉄へカナンは駆け寄り、顔を覗き込む。

 結構近い。鉄の胸がまた大きく跳ねる。

「大丈夫ですか?」

「だだ、大丈夫です。ちょっと胸が痛かっただけで……」

 どもりながら応えるとカナンはそうですか、と言ってさっと身を引いてしまった。

 ちょっと惜しいことをしたかと思いながらも、ここは天下の往来。無数の好奇の目があること思い出した鉄はカナンから一歩距離を取った。

「あー、えっと俺になんか用ですか?」

「はい。……江川鉄君はもう帰宅されるんですか?」

「いや、これからバイトなんですけど」

「そうですか。アルバイトへは電車で?」

「はぁ……」

 なんでユリ様がそんなことを気にするんだろうか。早くこの客引きパンダ状態から解放されたい。なんとなくいたたまれなくて鉄は視線を彷徨わせる。

「では、ご一緒してかまいませんか?」

「はぁ……。はぁっ!?」

「では行きましょう」

「え、ちょっと待って!」

 呼び止める鉄を余所に、カナンはスカートが翻るのを抑えながら颯爽に歩き出した。


◇◆◇


「あのー、どういうことなんですか?」

 揺れる電車の中で鉄はとうとう本題を切り出した。

「どういうこと、ですか?」

「これ、ですよ」

 現時点では、車両内の人々の注目の的になってることですよ。

 しかし、カナンは鉄が示唆しているところが分からないように曖昧に微笑んで首を傾げた。鉄は小さくため息を吐いた。

 多分、彼女は人の目に晒される事に慣れているのだ。聖女ともなれば、それは当り前だろう。聖なる象徴の一人なのだから。

 先ほどだってホームで電車を待っている間、聖教会信者だと思われる人が何人か、カナンの元にやって来た。「お言葉を」と言って。カナンはそれを当然のものとして受け応えていた。

 だが鉄は違う。

 トラブルを避ける為、面倒事を避ける為、なるべく目立たず、空気の如く生きる。注目される事などもっての外。

 これまでそう生きてきた鉄にとっては、この状況は身の置き場に困るのだ。困り過ぎて、胃が痛くなってくる。

「なんで、俺にかまうんですか?」

「……昨日の夜の事を、謝りたくて……。本当に申し訳ありませんでした」

 そう言って深々と頭を下げるカナン。

 一斉に車内の人々が息を詰めた。

「ち、ちょっと何やってるんですかっ!」

 突き刺さる非難の視線が気にならないほどに、今はカナンを前に鉄は大いに慌てる。

 優先席に座っていたおばあちゃんが、身を乗り出して「こんな若い女の子に頭を下げさせて、何だい!」と野次を飛ばす。

 こんなことさせたくてさせているのではない。どうしてこんなことになっているのか、自分でもよく状況が把握できていないのだ。アタフタしながら頭を上げるように頼むが、どうしても頭を上げようとしないカナンに終いには鉄もガバリと頭を下げる。

「やめてください、そんなことしないでください! 本当に、お願いしますっ」

 二人して頭を下げ合っている光景はなんともおかしなものだったが、とうとう折れたのかカナンは顔を上げた。

「江川鉄君……」

 とその時、行先の駅の名がアナウンスされる。

 ドアが開くと同時に、鉄は咄嗟にカナンの手を取って車外へと出ていた。


「ふはぁーーーー」

 とりあえず危機は脱した。鉄は大きく長く息を吐く。そしてカナンの手を握ったままだと気付いて、パッと離す。

「あ、っすみません!」

「いえ……」

 カナンは珍しいものを見るかのように鉄に離された自分の手を見つめていた。

「あのっ、昨日の事は気にしてません。傷だって残ってないし、本当にマジェッツさんが気にすることなんかないんです。むしろこうやって話しかけられたりする方が困るって言うか……」

「迷惑、ですか?」

「あ、いや、迷惑では……でも、困り、ます」

 言い淀みながらも鉄は本当の事を告白する。迷惑ではないがカナンに関わられるのは、本当に困るのだ。自分のためにも、そして多分カナンのためにも。

「そう、ですか……」

「……はい、すいません」

 俯いていたカナンが、ついと顔を上げる。

「それでも私は、あなたに償いをしなくてはなりません。私は罪のないあなたを、罪人と間違えて罰してしまうところでした。いえ、私は確かにあなたを切りました。……なぜかあなたは無傷も同然でしたが。でも無傷だったとか、そんなことは問題じゃありません。私にはあなたに償う義務があるんです」

「償うって言われても……」

「何でも良いんです。あなたの命を奪おうとした事への償いになれば」

 そう言うカナンの目には、決して譲らないとの決意がありありと見えた。


――命を奪おうとした事の償い。


 なんだかとんでもなく大事になってきた。どうしてカナンがそれ程までに償いに執着するのか分からないが、これではテコでも引いてくれ無さそうだ。鉄は何か代替策がないかと思いを巡らす。

「……じゃあ俺には、今後一切関わらないでください」

 本当はとっても、とっても関わりたいが鉄も命が惜しい。おそらくこれが自分の寿命を長引かせる一番妥当な提案なのだ。鉄は窺いながらカナンの答えを待つ。

 やがてカナンは神妙な顔で口を開いた。

「それは、できません」

「え?」

「それでは償いになりません。償い切るまではあなたに関わらないわけにはいきません。他の事でお願いします」

 キッパリと言われて鉄は面喰う。

「でも、さっき何でもいいって言ったじゃないですか!」

「はい。でも、私は江川鉄君と一切関わらないことはできないんです。なので、他の事でお願いします」

 冷静に言うカナンに鉄は唖然としてしまった。カンナは頑として、態度を変えることなど微塵もなさそうだ。


(何なんだ、この人……)


 聖女は優しく慈愛に満ちているだけではないらしい。


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