避けましょう、不穏な成り行き、怖い人
現在、世界には二人の聖女と一人の聖人がいる。
ドイツに拠点を置く世界宗教が一つ、聖教会の頂点に君臨し、信者―ビリーバーを導いて神の御業を代行する。人の言うところの神から遣わされた者たちである。
そして彼らにはその証として、体のどこかに聖痕と呼ばれるマークがあると言う。
元々聖教会は、南ヨーロッパの某国に拠点を置く十字架で大変有名な宗教から派生したらしい。だが、神の御業を成し得る彼らの存在もあってか、今となっては大本よりも多くのビリーバーを持つまでになり、ヨーロッパ、アメリカはもちろんの事、アジア、オセアニアの多くの国々で国教となっているほど信仰されている。
そこまでは和洋折衷の鉄でもさすがに知っている。
しかし現代の伝説的存在の一人が日本に、こんな身近にいたとは知らなかった。しかもその聖女は鉄と同じ高校生だと言うのだ。
「そう、それ。聖マリアにいるのは知ってたけど、何しろユリ様親衛隊が常に周りを囲ってるからどんな子なのかも知らなかったんだよな。でも噂通りの清純そうな子だなー、カナンちゃん」
「彰二、清純とか言いながら鼻の下、伸びてるから」
ついでに涎も垂れそうだ。そこまでは言わなかったが、鉄に指摘されて彰二は照れ隠しとばかりに鉄をねめつける。
「だから、お前はカナンちゃんに近づかない方が良いぞ。世界のユリ様相手にお前のトラブル体質が発揮された日には、どうなることになるやら。もしお前のせいでカナンちゃんに何かあったらいろんな意味で抹殺されるのかオチだ」
「抹殺……」
実は一度抹殺されかけた。しかもその聖女の手によって、だ。既に鉄のトラブル体質は存分に発揮されてしまっていたのだ。
江川鉄はどこにでもいる、ごくごく普通の男子高校生である。
だが、ごくごく普通でない面が一つ。彼は幼い頃からなぜかトラブルに巻き込まれ易かった。
決して鉄自身がトラブルを起こすのではない。あくまで、巻き込まれるのだ。
幼稚園では喧嘩していたお友達の横を通って、一人が投げた泥団子が方向を誤って鉄の顔に命中。喧嘩していたはずの二人はその惨状に驚いて泣き出し、先生にはなぜか鉄が怒られた。
中学からの帰り道、怖いお兄さんたちに絡まれている見知らぬ人に知り合いだと言われ、仲良く一緒にカツアゲされた。もちろんその後その怖いお兄さんに個人的にカツアゲされる事しばしば。
高校に入って始めたバイトでは働くところ働くところ、事ある毎に何かしらのトラブルに巻き込まれ給料日まで働き通したこともない。やる気はこんなにも漲っているというのに。
とにかく鉄の周辺一キロメートル以内にトラブルがあれば、それは必ずと言っていい程鉄を標的とするのだ。
時は遡り、齢五歳にして自らのトラブル体質を悟った鉄は、それ以来「事なかれ主義」をモットーに掲げて生きてきた。
避けましょう、不穏な成り行き、怖い人。
出来るだけトラブルが起こりそうな状況を避け、その環境をいち早く抜け出す。
とりわけここ数年で随分磨かれてきた特技ではあるが、残念ながらまだこの体質に完全に対応するまでには至っていなかった。その証拠につい一か月前、客同士のトラブルに巻き込まれ、またまたバイトをクビになっていた。
確かに世界のユリ様なんて言う超有名人とは関わりたくない。彰二の言葉ではないが、今度こそ命に関わるトラブルに巻き込まれかねない。
「だよね……。俺、まだ死にたくない」
「だろ。俺だって江川鉄、死亡のニュースなんて見たくねぇよ」
「不吉な事言うなって!」
人の不幸をおいしく頂いているミツバチ・彰二は楽しそうに冗談、冗談と繰り返した。
「でもさ、なんでそのユリ様がうちの高校に転入なんかしてくるんだろう? うちはミッション系でもなければ、一般人しかいない公立じゃん。聖マリアからわざわざうちに来ることなんかなさそうだけど」
「……お前、本当に知らねぇのかよ?」
「は? そんなの俺が知ってるわけないじゃん」
「ふぅーん?」
いかにも疑わしげに目を細める彰二に鉄は噛み付く。
「なんだよ、その信じてません、『ふぅーん?』、はっ! マジで知らないって」
「あっそ。だったら尚更、気を付けといた方が良いぞ、鉄」
急に真顔で言われて、珍しく本気で彰二が心配していることに鉄は気付き、柄にもなく少し感動する。なんだかんだと言っても、やはり持つべき者は友だ。
「彰二……」
「あ、でもちゃんと俺とカナンちゃんのお話の場、作れよな。これとそれとは話は別だから」
錯覚だったらしい。やはりこいつは悪友だ。
遠い眼でどこかを眺める鉄に彰二はしきりに承諾の言葉を言わせようとしていたが、拗ねた鉄はのらりくらりとうまく躱して彰二と別れた。
ささやかではあるが、鉄にとっては精一杯の復讐であった。