序
所々にある燭台に灯されたオレンジ色の光のみが照らす薄暗い礼拝堂。薔薇とも薄荷とも言えない、乳香独特の香りが漂う。
無神論者であろうとも、この場に足を踏み入れたからには膝を折らずにはいられない、そんな厳粛な空気。
衣擦れの音さえもはっきり聞こえてしまいそうなほど静まり返った教会内のある一角――懺悔室から漏れるのは嗚咽を堪える声だった。
「分かってるんです。あいつに騙された俺が馬鹿だったんだ。……でもっ、こちらの弱みに付け込んで俺たちを食い物にするあいつがっ……あいつが憎いっ!」
男は掠れた声で叫んで頭を抱えた。
「……こうなったら、あいつも殺して俺も死んで――」
「それはいけません」
静かな声が男を遮った。
男は顔を上げ、衝立越しにそれまでずっと黙り込んでいた神父を見る。 なんとなく輪郭は見て取れるがどのような人物なのかはっきりとは分からない。ただどうやら声からして年配ではないようだ。
「いいですか。どんなに卑劣な悪行をされたとしても、あなたまで悪行に手を染めてはいけません。それは絶対にしてはならないのです。悪事をした者には必ず神罰が下ります。どんなにつらくても神を信じ、耐え、祈るのです。そうすれば必ず神があなたの祈りを聞き入れて下さるでしょう」
男は型通りの文句に内心失望した。そんなことを聞きたくてここに来たわけではない。
男は元々この教会の信徒でもなかった。放心状態で歩いていた時に、偶然この教会にまつわる「ある噂」を耳にしてふらりと足を運んだのだった。
やはり噂は噂なのだ。男は自嘲気味に口元を歪めた。
「そんなキレイ事でどうにかなるなら、今頃こんなことにはなってませんよ。こんなとこに来ることだって……」
「……」
「話、聞いてくれてありがとうございました」
気まずさに耐え切れなくなり、投げやりにそう言って男は腰を上げた。
「……なのです」
「え?」
何か言われた気がして振り返ったが、神父は何も応えない。教会内は先ほどと同じように静まり返っている。
聞き間違えに違いない。男は懺悔室のドアを開けて教会を後にした。
外に出た男は思いっきり深呼吸をして天を仰ぐ。空には三日月が出ていた。
「神に祈る、か……」
(あんなこと言ったけど……たまには、悪くないのかもしれないな)
ほんの僅かだが、久しぶりに清々しい気分になっていることに気づき、男は小さく頬をを緩めた。