act2-1
神奈川県
厚木基地
9 Augest.2021
「やべぇな、まだ頭痛い」
「二日酔いか?情けねーな」
険しい表情の笠原を秋本が笑った。笠原は頭痛に悩まされていた。眉間に皺を作って耐えている。
「月曜日に二日酔いなんて馬鹿な真似するか。それにもうすぐ“展開”だしな」
パイロットもフライト前は健康チェックで呼気点検も受ける。酒気帯びでは飛行停止処分どころか懲戒ものだ。
「じゃあどうしたんだよ」
「日曜に家の芝刈りをしたんだがな、芝刈り機が暴れたんだよ」
受け身をとったが、庭にあった木に強かに後頭部を打ち、こぶが出来ていた。全くなんてザマだと内心でぼやく。
「シャドウは休日だと一人漫才してるのか。見たかったな」
その話を聞いていた瀬川が笑う。
基地には今日の朝四時に帰り、その後機体の点検などを済ませ、今は朝礼代わりの全体ブリーフィング前の時間だった。
佐渡の淹れたコーヒーを飲みながら笠原は机の中身を整理していた。忙しくて普段から片付けている暇がないのだ。高平が転属したという実感がなく、つい探そうとしてしまう自分がいる。
「今日は転任者来るんだからあんまり醜態晒すなよ」
安藤に苦笑気味に言われて笠原は目を瞬いた。
「今日でしたっけ」
「今日だよ」
「他にいつ来るんだよ」
安藤と秋本に呆れ顔で言われて笠原は頭を抱えた。
「俺って転任者の部屋の掃除とかしとくんでしたっけ」
「いや、知らんけど笠原があの部屋入ったら殺されるよ……」
「何?転任者の居室って地縛霊でもいんの?」
「……、」
安藤と秋本は顔を見合わせたきり、笠原の下らない言葉にも何も言わなかった。
笠原はため息を吐き、課業の準備に取りかかる。朝礼で新任の紹介があることになっていた。
朝は0700からの飛行隊全体ブリーフィングで始まるが、今日は新任の紹介行事だった。その後に気象や各機体の状態、本日のスケジュールの詳細の確認が行われる。
今日の第一ピリオド、つまりファーストという最初のフライトは0840時からだ。笠原は丸一日フライトからは外されて転任者の受け入れに当てられていた。転任者がずぶのど素人でなければ空いた時間を使って自分の溜めているデスクワークを消化できる。どんな奴が来るのだろうと不安半分、期待半分だ。人事発令の命令が出ていたのになぜ確認しなかったのだろうと今更後悔した。これから相棒となる人間の名前や原隊くらい把握しておくべきだった。後悔先に立たず、パイロットたちは新任の紹介行事もあるので早めにブリーフィングルームに集まった。
「これより新着任者の紹介行事を行う。黒江二尉、前へ」
「はい」という澄んだ返事が笠原の後方から聞こえた。笠原が他のパイロットたちと同じように振り返ると、そこにいたのは笠原たちと同じフライトスーツに身を包み、髪をポニーテールにまとめた背の高い女性自衛官だった。
内心で思わず「え?」と呟く。口には出さないが、動揺した笠原の心境を知らない秋本はからかう。
「あの人の部屋には入れないだろ」
笠原は色々な意味に今気づいた。まさか転任者が女性パイロットだとは。
女性の戦闘機パイロット採用は数年前から航空自衛軍でも行われ、それは増えつつあるものの狭き門の上、訓練は非常に厳しく、天然記念物並に貴重だ。まさか自分のウィングマンが女性パイロットになるとは夢にも思わなかった。
「マジかよ……」
笠原が低く呻いた頃には彼女は背筋を伸ばして颯爽と壇上に立ち、こちらに向き直っていた。改めて笠原は彼女を見た。怜悧に整った端整な顔立ちに切れ長の目元の目を奪われるような和風美人だ。口元は引き締まり、髪型や姿勢の良さからも女の印象とは違う凛々しさがある。化粧の気配はなかったが、それは怠惰からではないと分かる清潔感があった。足はすらりと長く、身長は一七〇センチを超えている。飛行服を着ていなければモデルか、女優と言われても頷いてしまうだろう。あまり不躾な視線を向けるわけにもいかず、内心穏やかではないままその顔を見た。
「第307飛行隊から来ました、黒江葵二尉です。本日付けで第103飛行隊に配属されました。TACネームはファル。まだまだ未熟でありますので、ご指導ご鞭撻をお願いします」
そう着任の挨拶をして、無駄も隙も無い挙手敬礼をした黒江を見た笠原は冷や汗が流れるような緊張を覚えていた。第307飛行隊は宮崎県新田原基地で増強のために新編された、艦上航空隊以外では唯一のF‐18を運用する戦闘飛行隊だ。
「彼女は第101飛行隊で着艦資格を取得後、第307飛行隊に配置された。若いが、西部航空方面隊の戦技競技でもトップクラスの成績を治めている。新人も我々も彼女から学べることは多い。お互いに高めあってくれ」
的場は短くそう彼女を紹介した。的場が手放しで褒めるということは確かな人材なのだろう。女とはいえ、侮れない。
ブリーフィングはその後、予定通り進められた。黒江初参加で黒江はやはりその経歴からも容姿からも一目置かれている。
各伝達事項も済み、ブリーフィングを終えると笠原は秋本を小突いた。
「俺以外みんな知ってたのか」
「当たり前だろ。シャドウこそなんで人事発令通知すら見てないんだよ。でもいいサプライズになっただろ?」
「サプライズって……」
「おい、シャドウ」
的場二佐が笠原を呼ぶ。笠原は的場の元へ急いだ。隣には黒江二尉もいた。
「黒江、こいつは笠原だ。今日からウィングマンを組め。しばらく二機編隊長は笠原に務めさせるが、君も慣れれば変える。笠原、自己紹介」
「あ、はい。笠原樹二尉です。TACネームはシャドウ、マザースコードロンは204飛行隊です……」
笠原はそこまで言ってから黒江の顔を見て怯みそうになった。彼女は不満や嫌悪感といったものが入り混じった眼で笠原を見ていたのだ。
「その……よろしく」
笠原は心苦しさを感じつつ半ばなげやりに言うと手を差し出した。黒江は「よろしくお願いします」と先ほどまでの真面目な様子から一変、不満そうに答えるとその手を握り返した。しかしその手は力無く、悪くいえばいい加減な握手だった。
一体なんだ?正体不明の違和感に笠原は戸惑うばかりだった。
「シャドウ、隊の施設をファルに紹介してやれ」
「りょ、了解です」
黒江は明らかに不機嫌な様子でそんなことをしていられるような雰囲気ではなかったが、命令は命令だ。そもそも的場はそんな笠原と黒江の様子など気にも留めずに歩いて行った。とりあえず休憩として笠原は黒江の元から逃げ出した。
「シャドウ、どうだ黒江二尉は?」
すぐさまにやつく秋本が聞いてきた。
「なんでシャドウがウィングマンなんだ?」
瀬川は不満そうにつぶやく。
「カーンが異動だからだろ」
「あそっか。サドもどっか行かねーかな」
「酷いですよ!」
佐渡が抗議する。佐渡の担当教官は瀬川だった。
「どうかって言われても……。なんかかなり不機嫌そうだった」
それを聞いた秋本と瀬川は顔を見合わせる。
「お前、なんかした?」
「初対面だぞ」
「なんだろうな」
二人も顔を見合わせる。とりあえず笠原は黒江の元に戻った。
*
「で、ここが救命装具室。装備はもうまとめてあるそうだから」
黒江に説明する笠原は黒江の態度に次第に不機嫌になっていた。黒江は相変わらず面白くなさそうな顔をして無言で笠原に続いていた。
航空自衛官として戦闘機を駆り、己を捨てることを意識する誠実な軍人とはいえ、笠原もまだ二十代前半。世間で例えるなら、大卒二年目の若輩者であり、人生経験も乏しい健全な男子だ。同年齢の美人から嫌悪感の籠った目で見られることに笠原は心苦しさを感じ続けていた。
自分の迂闊さや配慮の足りなさが招いた事態なら納得はできるが、何も言わずにこうして身に覚えのない不快な顔をされるのは自分だって割りに合わない。
「地下ハンガーの入り口があれだから。デフコンが上がればあそこで待機することになる」
返事はない。次第に説明もなげやりになってきた。防空隊は去年の射撃競技会で全国三位の成績だったとか、施設隊の施設を案内する時は詳しくここの施設隊が前年度の訓練で、爆弾にて破壊された想定の滑走路を三時間ほどで復旧させたなどという話もして興味を持ってもらいたいなどと思ってはいたが、あからさまによそよそしい態度を取る黒江にそのことを語ることはできなかった。
「なにか質問は?」
「ない」
黒江は今にもため息を吐きそうな顔だ。笠原もため息を吐きたい。笠原はとにかく今この時間が早く過ぎ去って昼になることが待ち遠しかった。
「んじゃ帰るか」
笠原はふて腐れたくなるのを堪え、事務室に大股で戻った。そのあとを黒江が続いてくる。相変わらず規則正しい、凛々しい歩き方だが、それが逆に笠原に対する黒江の態度を連想させ、笠原は余計に苦しい胸を抱えていくことになった。
「どう、黒江は?」
飛行前の最終打ち合わせであるプリ・フライト・ブリーフィングを終えた秋本が再び笠原に聞いてきた。顔が面白半分というところで笠原は気に入らなかった。
「どうって何が」
ぶっきらぼうに聞き返しながらタブレット型のファイルで機体の整備ログを見て気を紛らわす。そんな呑気に聞かれるような状況ではなく、笠原には深刻な問題だ。
「なんか話さなかったのか?」
瀬川も聞いてくる。
「いんや」
「……女だからって緊張してんの」
「ちげーよ、馬鹿。なんか不機嫌っぽくて話す空気じゃなかった」
笠原はコーヒーをすすろうとして中身がないことに気付くと、ため息を吐き、タブレット端末を置く。
「黒江がか。なんか失礼なことしたんじゃね?」
「……さあな」
会ったばかりでまったく心当たりがなかった。
「汚ぇ口のせいじゃねーの」
離れた机にいる藤澤が茶々を入れ、その隣の小池隆二二尉が藤澤と笑う。〈NOISY〉のTACネームを命名されている小池も秋本や藤澤と同じく笠原の同期ではあるが、藤澤とつるんでいて笠原を快く思っていない者の一人だ。飛行隊内でこんなに人間関係が悪いのはどうかと思うが、笠原の性格の問題だった。
嫌味を言ってくる二人を笠原は無視し、自分でコーヒーをいれるために立ち上がった。まだ残る頭痛と抱えた悩みに笠原は普段にも増して厳しい表情を浮かべる。そこへ黒江が事務室に戻ってきた。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
藤澤が声をかけると素直な声で頭を下げて挨拶する。笠原は眉間に皺が寄っていくのを感じた。よりによって自分と対立する藤澤には普通の態度で接するのか。あいつが何か吹き込んだわけじゃないだろうなと笠原は思わず藤澤を見る。当の藤澤は笠原の視線に気づくと勝ち誇った顔でにやりと笑って見せる。
笠原は人睨みすると、歯ぎしりと舌打ちを堪えてコーヒーを入れたカップを持ち、席に座る。黒江はカバンを持って笠原の向かいの机に座った。そこが黒江の机となっている。ブースで阻まれていなかったら常に彼女の不満な表情を見ることになったに違いない。
「ツンデレだよ、ツンデレ」
笠原に秋本が小声で耳打ちしてきた。笠原は肘で秋本を小突き、コーヒーを煽った。瞬間、コーヒーの熱さに慌ててカップを遠ざけた。
「あちっ」
「ざまあ」
舌をやけどした。今日は厄日か?笠原は自問しながらブースの合間から黒江の顔を盗み見た。笠原と話していたときのような不機嫌な表情はない。綺麗な顔立ちに思わず見とれた。凛とした和風美人だ。女性が着るには野暮ったい飛行服も違和感なくきっちりと着こなしていて、落ち着いた雰囲気を纏っている。
あの態度がなければ手放しで大喜びできなくもないが、一体どうしたのたろうか。笠原は頭を捻るばかりだった。
午前中にACM訓練に備えたシミュレーションを行い、午後は機体整備と自主トレーニングだった。
黒江の態度の原因は分からず、相変わらず笠原とは距離を取っている。笠原はそんな黒江を誘う気にはなれず、別々に機体整備に当たっていた。
「928号機の整備ログを貸してくれ」
笠原は広いハンガーに入ると休憩していた機付長の渡邉に声をかけた。
「どうぞ」
F‐18は携帯型整備支援装置の端末を機体に接続することによって自己診断が行われる。F‐15やF‐2戦闘機と違い、TOと呼ばれる技術指令書を参照しながら整備するものとは違い、PMAの指示に従って必要な整備箇所を整備すればいいのだ。タブレット型のPMA携帯端末を渡邉は取り出して渡す。
「タバコか?」
かすかに鼻孔を刺激した臭いに笠原が聞くと渡邉が苦笑いする。
「駄目ですか」
「若いうちからそんなもん吸ってるとあとで泣きを見る」
「言い方が年寄り臭いですよ」
むぅと唸りながら笠原は機体にかけられたラダーを登ってコックピットに滑り込む。
「世間様が夏休みなのにわが社は忙しいですね」
「土日祝日は休めてるだろ、文句は言わない」
「もうすぐ終戦記念日ですね。今年は靖国神社でも参拝してこようかな」
「左翼に刺されるなよ」
最近の若い者は自衛官ですら靖国神社を参拝することは無い。笠原は感心しながら機体の整備に取りかかる。
「そういえば黒江二尉は一緒じゃないんですか?」
「あいつは知らん。俺が前にいるのが許せんらしい」
黒江は少し離れた位置で整備を受ける、明日アサイン――割り当てられた自分の機体を見上げていた。機付長の白田三曹の話を静かに聞いているその横顔は真剣そのものだ。
仕事に対して熱心そうな姿勢が、その横顔からも分かる。決して悪い人間ではないはずだ。胸に秘めたる情熱は通ずるものを感じたのだが。
「なんですか、その修羅場」
渡邉は苦笑するが、笠原は笑っていられない。新しいウィングマンとは仲も深め、飛行隊の中でも最強のチームを目指そうと期待していた笠原にとって今の関係は最悪だった。この調子では安藤や今井を倒すのを目指すどころか、あの藤澤にも絶対に勝てない。
「だから女は苦手なんだよ。接し方も分からないし、扱いにくいし、面倒くさいし」
「そんなに女性経験あるんですか?不遇の笠原二尉が」
「首絞められたいか」
笠原は渡邉を冗談顔で睨む。とはいえ自分の機体を整備する機付長には頭が上がらない。年上なら階級に関係なく敬語になるだろう。
どうせこの顔だ、女性経験なんて微塵もねぇ、と心の中で愚痴る。口も悪いし、短気で、性格が駄目なのも自覚している。それに笠原に女性の縁などまったくなかった。会話を普通にしていたことがあったのは高校でクラスメイトや部活仲間くらいだった。今では女の同僚相手にも事務的な会話しかしていない。
そんなことを思っていると、いつの間にか黒江が近くまで来ていた。
「……聞かれてたかもしれないですよ」
渡邉が小声で言う。それはまずいなと顔をしかめ、それでも挨拶くらいはするかと手を挙げかけるが、黒江は先に来ていた笠原と顔を合わせるとため息でも吐きそうな疲れた表情になり、ぷいと前に向き直る。笠原は挨拶の敬礼をしようと肩まで挙げかかった手をそのまま所在なく静かに膝におくと渡邉が同情で肩を叩いた。
「……やってらんねぇ」
笠原はぐったりした顔で突っ伏した。