act3-3
神奈川県
横浜
9 September.2021
「で、どこ行くんだ」
笠原は信号待ちの交差点で背中にしがみついた黒江に聞いた。
「笠原の家……は駄目か」
その言葉に目を剥いたのは笠原だ。
「俺の家に来るっていうのか」
「他に行くあてもないんだ」
黒江は溜息を吐いて言葉を継ぐ。
「笠原はウィングマンが困ってるのに見捨てるのか」
「いやいや、お前な……」
なかなかの殺し文句だ。黒江の晴れない表情を見ているとそれ以上言えなくなった。
「俺一人暮らしだぞ」
「そうか好都合だな」
「あのな。同じ屋根の下に男女二人きりで泊まるんだぞ。お前は何か思うところないのか」
「下地島でもそんなことあっただろ。今さら何を言ってるんだ」
笠原は反論できずに青に変わった信号を見てアクセルグリップを捻る。
結局、折れた笠原は黒江を載せて首都高を走り、練馬の自宅へと向かうことになった。
自宅までの道のりは比較的空いていた方だったが、街乗りはやはり暑く、家に着くまでにじっとりと汗をかいてしまった。
練馬区北部の新興住宅地にある笠原の家は都会の喧騒とは離れたひっそりとした空気に包まれつつあった。近くには小学校や中学校も少なくない数があったが、バブル時代に建てられた多数の団地からなる集合住宅街は高齢化が進んでいて、子供達の遊び声は少なくなりつつある。
そんな黒江の家とは違う、静かな街の平凡な家の前で笠原はバイクを止めた。黒江はもう勝手知ったるや身軽にバイクを降りて猫のように背を伸ばしている。
二台分の車を収納できるガレージにバイクを格納し、シャッターを閉めた。黒江は門の前で早く開けろとばかりに腰に片手を当てて待っていた。
門の鍵を開けて階段を登ると庭に出る。庭の芝生はこの前に刈っていったため、伸び放題にはなっていないがすでに紛れた雑草が飛び出している。黒江は興味深そうに家を見ていた。
「こんないい家に一人暮らしか」
「お前に言われると嫌味に聞こえるぞ。元々祖父母の家なんだ。バリアフリーにリフォームするのも面倒なんで群馬に引っ越してったんだ。それを俺が管理しているだけだ」
「なるほど。でも一人で住むには広すぎるな」
黒江の感想を聞きながら玄関を開けて中に入る。「お邪魔します」とかしこまって黒江は笠原に続いて家に上がった。
久しぶりの家の中は心なしか冷たい空気が漂っていた。いつもはそこにこの家を温める存在にはなり得ない笠原が帰ってくるだけだったが、今日は黒江というエネルギー溢れる存在がいた。それだけで家の空気が入れ替わった様な錯覚を覚え、笠原は戸惑いを覚える。
「スリッパあったかな……」
笠原がごそごそと靴棚を漁っている間に黒江はもう勝手にリビングまで進んでいた。ブーツがきっちり揃えてあることに育ちの良さを窺わせたのに対して、その遠慮のなさが黒江のバランスを取っているようだった。
「なんだ、つまらない。一人暮らしの男の家って感じでもないな」
筋トレ道具や本などがリビングに散らかっているが、そこまで汚くはない。自堕落な生活は送っていないつもりだ。家の壁紙は祖父母が出る前に張り替えてくれていて、全体的に年季を感じさせる要素はなかった。それがまた生活感の無さによる虚しさを感じさせていたが、黒江と一緒に家に入っただけでまるで新しい生活が始まるような期待を感じさせてしまうようだった。
「まあ、座ってろよ。お茶を入れるから」
笠原がそう言って台所に立つと黒江も台所に入ってきて食器などを漁り始めた。
「調理器具くらいは揃ってるな。使った形跡が無いのがいくつもあるが」
「しょうがないだろ。ヤカンにフライパンと鍋さえあればほとんど事足りるんだから」
祖母が残していったが、圧力鍋なんて使ったことがない。自衛官は洗濯や掃除、果ては裁縫まで広い家事全般が出来るが、料理はあまりやらない。
「よし。分かった、料理を作ってやる」
「黒江がか?」
このガサツな乱暴女に料理が出来るとは意外過ぎた。
「そうだ。泊めてもらうお礼だ。それに今まで結構迷惑かけたしな」
黒江はそう言いながらも表情が明るく、楽しんでいるようだ。料理を作るのは楽しみなようだが、女の繊細さよりも男の大胆さの方を身につけている勇ましい黒江の料理は心配になる。
「迷惑っていえば、さっきのあれ、何なんだよ一体」
「さっきって?」
「黒江の家でだ。お前の母親、俺のことを恋人だと思ってたぞ」
「あれは口が滑ったんだ。最悪だぞ、家に帰った瞬間見合いの話をされる私の身にもなってみろ。咄嗟にごまかすために便宜上恋人ということにしておいただけだ。気にするな」
「お前なぁ……」
気にするなと言われても複雑な気持ちだ。笠原にしては大事件だった。
「大丈夫だって。見合いの話をしてこなくなったら、あとで適当に別れたことにしておくから」
別れる前提なのか。笠原はまたもや複雑な気分だ。
「それより料理だ」
黒江にとっては些細な事らしい。
「本当に作れるんだろうな……」
「疑っているな?安心しろ、あのうるさい母に家事だけは躾けられている」
そう言いながら黒江は冷蔵庫を見て顔をしかめた。
「食材らしい食材が入ってないな」
「いつ帰って来れるか分からないのに置いておけるわけないだろ」
「それもそうか。よし、買いに行こう。何が食べたい」
「何がって……なんでもいいけど……」
「じゃあカレーとかはどうだ?ハンバーグは?」
俺は子供かと心の中で呟きながら笠原は顎に手を当てて考える。せっかくなら黒江の料理の腕も見たい。
「……肉じゃが、とか」
その瞬間、黒江は目を輝かせた。
「任せろ!」
どうやら得意だったらしい。車が無いのでバイクで行くことになるが、近所のスーパーに飛行服姿で買い物に行くのには気が引けた。
「私服に着替えろ。そんな恰好で買い物行けるか」
「分かった」
黒江は自分の荷物を持って場所も聞かずに脱衣所に向かった。もう勝手に家の中を知られているようだ。
笠原は呆れながら二階の自分の部屋に向かって私服に着替える。黒いスキニーに暗いグレーのパーカーを着た笠原が一階に降りると黒江はすでに着替えを終えていた。
黒江の私服姿に期待は抱いていなかったが、ジーンズに白いワイシャツで、腕時計は無骨なG-Shockだ。逆に黒江の活発な性格が表れているともいえるが、どちらかといえばファッションなど興味が無く、着るものに無頓着なようだ。
「なんつーか、黒江らしいけど」
笠原の言葉に黒江はすぐに私服への感想だと察した。
「ファッションセンスだの、カラーコーディネートとかそりゃ何語だって感じだな、私からすると。しっかりしていて長持ちすればなんでもいいだろ。あ、でもブランドは選ぶぞ」
「軍用品メーカーは世間一般じゃブランドものなんて言わないからな」
有名な某タクティカルギアメーカーのタグを見て、笠原は呆れながらもライダージャケットを羽織って、家を出る。それまで履いていた靴ではなく、さすがにスニーカーを黒江は用意していた。バイクに跨り、近くのスーパーに向かった。
大型のスポーツバイクで若い男女が二人乗りして庶民的なスーパーに乗り付けるのは場違い過ぎて他人からの目が気になったが、黒江は堂々としている。その堂々とした姿勢の良さと持ち合わせた長身でさらに目立っているのだが、黒江はさっさとカートにかごを入れるとスーパーの中を進んでいった。
笠原はカートを押して黒江に言われるがままに食材をかごに入れていった。その手際の良さはさすが女だと褒めたくなる。しかしこうして並んで買い物をしているのは妙な気分だった。
「晩酌はするのか」
「……まあ、何か肴があれば」
「ふむ。まあ、任せろ」
黒江は鼻歌でも歌いそうなほど楽しそうに食材を選んでかごに放り込んでいる。そんな職場とは違った活き活きとした姿に笠原は思わず頬を緩める。仲間たちの知らない一面を知ると得をした気分だ。
「ほら、次はこっちだ」
「はいよ」
笠原はひたすらついていくだけだ。いつの間にかかごはいっぱいになっていた。夕飯分だけではあるまい。
「こうしてると、なんか夫婦みたいだな」
黒江はそう言って笠原に笑いかけた。不覚にもその笑顔に見とれてしまい、笠原は思わず下を向いた。
「恥ずかしいことを言うなよ」
「こういうワクワクする週末は久しぶりでな。私も浮かれているんだ」
黒江は気にせず、レジへ向かった。笠原は複雑な気分でそのあとを追った。
支払いは割り勘だった。バイクのサイドキャリアに付けてきたバックパックにやや無理やり押し込んで二人は家に帰る。
黒江は勝手知ったる我が家のように、台所の柱にかけてあった笠原が普段使っている濃紺のエプロンを羽織ると早速料理に取り掛かった。手伝おうとするとジャガイモや玉ねぎの皮むきや使った道具の洗いを任される。冷水で米を研いで炊飯器に入れ、笠原は皮むきに取り掛かった。
黒江は手際良く、肉じゃがの他にも味噌汁やサラダ、ホッケ、冷奴などを作っている。十八時過ぎの食卓には笠原がこの家で暮らし始めてから一番彩り豊かな食事が並んでいた。
「おお……」
思わず感嘆の声を上げてしまう。貴重な光景で思わず写真に収めておきたいと思ったほどだった。二人はお互いのグラスにビールを注ぐと乾杯した。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
グラスまで凍らせておいた一口目のビールは格別だった。黒江も気持ちの良い笑顔を浮かべている。さっそく注文した肉じゃがに箸を進める。
ジャガイモを口に運ぶと味が染みたほくほくの食感に思わず顔が綻んだ。
「うまい」
「おお、口に合って良かったよ」
不思議な気持ちだった。今までこの食卓を自分以外の人間で囲んだことはなかったし、ここまで彩溢れる料理が並んだことも無かった。ここは本当に自分の家かという違和感を覚える一方で、初めてこの家が居心地よく感じた。
「黒江にこんな特技があったなんて。戦闘機飛ばすだけじゃなかったんだな」
「失礼な奴だな。だから言っただろ。最低限の家事は躾けられてるって」
黒江は勝ち誇ったようにビールを飲んでいる。味噌汁もうまい。ホッケも酒がよく進んだ。
「お前、料理作って食っていけるんじゃないか」
「料理を仕事に?それはプロに失礼だ」
黒江は苦笑し、それから表情を改めた。
「なあ、パイロットはどれくらいまで続けられるか知ってるか」
突然の質問に笠原は戸惑った。まだ遠い先の話だと思っていて考えたことも無かった。
「まあ、飛行班長くらいになれれば四十過ぎってところか。でもそんなタフな奴ばかりじゃないからな。四十前後で大体F転(戦闘機から他機種、職務に転換)だろうな」
「降りることを想像すると怖くなる」
黒江は目線を落として言った。本心からの言葉であり、すでに真剣に考えているのだろう。その言葉を発しただけで肩が落ちていることに笠原は戸惑いの気持ちで黒江を見つめた。
「まだ二十代の前半、これからって時に何言ってんだ」
「結婚するならもう考え始めなくちゃいけない年だろ」
結婚という言葉に再び笠原は戸惑う。結婚?それこそ笠原には非現実的な言葉だった。
「結婚したいのか?」
「家庭は築きたいと思ってる。子供も欲しいし。自衛官の定年は早いからな。そういうシャドウはどうなんだ」
「俺はまあ……まだ考えてもいないが……。でも孤独死は嫌だな」
「なら良い奥さんを見つけないとな。年上の女房は金のわらじを履いてでも探せと言うし」
笠原は肩をすくめた。黒江はつくづく自分を異性として意識していないようだ。そうでなければこんな話もしない。自分だけ黒江を意識していてバカみたいだが、男の脳味噌は残念ながら女とは違う。
「そんなことよりも黒江は航空学生出身だろ。俺と同期のはずだが、今まで知らなかったぞ」
「私は準備課程を修了して、11飛教団に移ったからな。アルバムがあるだろう」
笠原は席を立って自分の部屋からアルバムを引っ張り出してくる。開くと黒江がすぐにこれだと言って指差す。確かに目立たないところに黒江の顔写真があった。毅然とした表情の黒江は他の女性学生の中でも際立っていた。何故今まで気づかなかったのだろうか。
「笠原はどれだ」
「これだ」
写真を示す。ぶっきらぼうな表情で髪を刈った男が睨んでいる。黒江が思わず笑った。
「本当だ。目つき悪い」
「悪かったな」
笠原はむくれる。
「この人がこの前で会った麻井二尉か」
「そうだ。こいつのおかげで助かったし、酷い目にも遭った」
笠原は溜息を吐く。黒江は途中席を立ってホッケの骨を揚げて骨せんべいにすると酒の肴にして持ってくる。色々と昔話は弾んだ。
そろそろ時間かと、笠原はテレビを点けた。液晶テレビが灯るとNHKが映り、真剣な顔のニュースキャスターのバストアップが映し出される。
「中国株価の大幅下落か……」
ニュースのテロップを見て黒江が呟く。最近は中国関連のニュースばかりだ。
『上海総合指数は依然大幅に下がり続けています。中国当局は金融緩和や市場介入などを進め、対策を強化していますが、下落は止められず、すでに金融不安による混乱が起きています。市場リスク観念の薄い中国の個人投資家は今後中国政府に株安の不満を向けつつあり、当局は更なる金融緩和や株価対策が迫られています。中国の景気減速は大きく進んでおり、その相場下落はすでに海外市場にも影響を及ぼしています。失業率は去年比で二十パーセントを越えており、政府は中国株価の下落対策に――』
中国バブルの崩壊は日本市場にも影響が及んでいる。政府は日中関係の悪化から中国からの日本企業撤退を支援してきた。日本企業は今では東南アジアに進出を進め、中国市場から離脱を図っている。
「ますます予断を許さない状況だな、バブル崩壊なんて」
中国のバブルが崩壊すれば十三億人の不満の矛先がどこへ向くかが懸念される。共産党は情報を操作し、今対立する台湾や日本への敵対心を煽って政府への不満を回避すると予想されている。
「中国脅威論は軍事面だけじゃなく、経済面でも表立ってきた訳だ」
「こうなることは十年も前から予想出来ていたはずだよ」
笠原はそう言いながら続きのニュースを眺めた。
『台湾上陸作戦を担う中国軍の第31集団軍が中国本土南東部で上陸作戦を想定した軍事演習を行ったと台湾中央社が報じました。いずれも昨年に発足した、独立志向を持つ台湾の民進党政権を牽制する狙いがあるとみられ、台湾を所管する国務院台湾事務弁公室は「いかなる手段を持ってしても、台湾独立の分裂行動は阻止する」との声明を繰り返しました。国連安保理では先の金門島及び台湾海峡における両国の軍事衝突から、共同で対中裁定順守勧告、並びに対中制裁決議が発議されました。しかし中国が拒否権を行使したために成立せず、安保理では中国政府の態度に対し、中国の常任理事国の資格を喪失させるべきだとの発言も飛び交い、一時騒然となりました……』
「もう戦争と無縁でいられるという保証はないな」
黒江の言葉が重く響いた。しばらくニュースの音だけに部屋が支配されていた。せっかくの休日の安らかなひと時に暗雲が立ち込めそうで、笠原は思わず立ち上がる。
「風呂は沸いている。先に入ってきてくれ。あとあいにくだがベッドは一つしかないんでね、お客は布団だ」
「分かった。構わないよ、私も実家では座敷で寝てるんだ」
黒江は自分のバックを持って脱衣所に向かう。笠原は和室に入って布団を敷き、床を取る。和室は普段ほとんど何も使っておらず、家具はライトと本棚しかなく、仏壇があるだけだ。笠原は床を取り終えると本棚の上に置いてあった写真立てを仏壇の下の棚にしまうと部屋の冷房を弱で入れておいた。
黒江はすぐに風呂からあがって来た。ハーフパンツにタンクトップと、思わず笠原が唸る格好だった。
「なんだ言いたいことがあるなら言え」
「なんて言うかな、もう少し人の家に泊まっているっていう自覚を持ってくれよ」
「官舎みたいにジャージ姿になれっていうのか」
「そうは言わないけど……」
風呂に入ったせいかアルコールも回ったようだ。黒江は上機嫌にアルバムをネタにしばらく話をすると眠くなったのか、寝床に案内を頼んだ。
和室に案内すると、入った黒江は顔をしかめた。
「冷房か」
「なんだ、寒がりか」
「いや。ありがたいんだが、止めてくれ。しばらくしたら窓を開けさせてもらうよ」
「ここの夜は蒸し暑いぞ」
「だからこんな格好をしている」
黒江はそう言いながら仏壇を見た。
「挨拶した方が良いんだったか……?」
「うーん、別にそんなに決まってないだろ」
「まあ難しく考えなくてもいいよな」
そう言って黒江は仏壇を開ける。笠原は複雑な気持ちでそんな黒江を見ていた。
「この位牌は?祖父母はご存命なのだろう?」
「……両親だ」
笠原が答えにくそうに言うと黒江は「悪いことを聞いた」と素直に謝った。
「気にするな。もう十年も前のことだし」
蝋燭で線香に火を灯して供えた黒江は輪を鳴らし、合掌する。作法を理解している辺りがただの男勝りなガサツ女ではないことを笠原に再認識させた。座を降りた黒江が笠原を振り返る。
「挨拶させてくれてありがとう」
「別に……こちらこそありがとう」
笠原はそう言うと和室を出る。
「それじゃおやすみ」
「ああ、明日の起床は?」
「普段通りだ」
「分かった。おやすみ」
襖を閉じて笠原は自室に向かう。別に隠すつもりはなかったが、言うつもりもなかった余計な細事だった。黒江は釘を刺さなければさらに笠原の懐にまで切り込んでくる予感がした。この部屋にもそのうち黒江は入ってくるかもしれない。他人に自分のことを知られるのは今まであまりいい気分ではなかったが、黒江には自分のことを知っていてほしいという別な気持ちもあった。
普段、冷たい空気の流れる静かな家は、同じ屋根の下に自分を知る人間が寝ているというだけで、普段よりも落ち着くような気がした。




