act3-1
act3は面白くないパートが続くと思いますが、辛抱願います。
神奈川県
厚木基地
9 September.2021
中国人民解放軍による予告なしの大規模軍事演習は極東アジアの軍事的緊張をさらに緊迫化させた。
中国軍は厦門市から二・一キロしか離れていない台湾の金門島の周辺に戦闘機や爆撃機を飛ばし、台湾海峡に戦闘艦艇を展開して海上封鎖を行い、さらに巡航ミサイルを発射して台湾本島付近に着弾させた。金門防衛司令部はこの挑発的軍事演習に対抗して地対空ミサイルを発射して領空を侵犯した中国軍の殲撃10戦闘機を撃墜。さらに台湾本島から緊急発進した台湾空軍機と中国軍機が一時交戦状態に陥り、双方の戦闘機が二機ずつ撃墜された。
これに対し、台湾海軍も基隆級駆逐艦や成功級フリゲート艦等からなる駆逐戦隊を派遣。航空優勢を獲得できなかった中国海軍の海上封鎖はこれによって解除され、大規模な軍事衝突は一応回避された。
この軍事衝突において中国軍のパイロット一人が台湾軍の救難機に救助されたが、パイロットの返還に当たっては双方の当局は激しく対立し、台湾では反中国デモが各地で行われた。
さらに中国がこの動きに対抗して艦艇を台湾海峡に展開させ、台湾海峡の一部に一方的に飛行禁止空域を設定する等の強硬手段を取ると、台湾国内でもそれに対抗する主張が高まり、大学生などの若者が中心的だった独立運動も今やほぼ全土に広まり、鎮静化する見込みは立っていない。一方の中国でも反台湾の数万人規模のデモが行われ、あろうことか台湾軍機の対応を批難し、中国軍機が金門島の領空を飛行したことについては認めず、荒唐無稽でありねつ造だとし、徹底対立となっている。
そもそも中国共産党は台湾に亡命した国民党によって統治されている台湾を国とは認めておらず、台湾は中国の一部であり、崩壊した中華民国政府の一部勢力が台湾を不法占領して樹立した非正統的な政府だとして、その存在の正統性を否定しており、台湾が独立を宣言した場合、台湾独立派分子に対する「非平和的手段」を取ることを合法化した半分列国家法を二〇〇五年に施行している。
両国の軍事的緊張は一気に高まり、日本もまた行動しなくてはならなくなった。
束の間の平穏は淡くも消え去り、一週間後に《かが》は東シナ海に展開することとなった。短い休暇が終われば笠原達は再び空護に乗り込み、前線に立つことになる。
休暇初日は代休を切っていても残っていた書類を始末するのに追われ、結局基地に残っていた。デスクワークを嫌う笠原が唸っていると当直の机の電話が鳴った。あいにく当直は席を外していた。
笠原が電話を取ると交換手が『外線です』と伝えた。
「もし」
笠原が電話に吹き込む。こちらの情報は与えずに、相手の情報をまず聞き出すことを笠原はセオリーとしていた。耳朶に大人しい品のある女の声が響いた。
『私は黒江葵の母の静江と申します。第103飛行隊の事務室ですね?娘の葵に代わっていただけないでしょうか』
その品の良さが窺える言葉遣いと予想だにしない相手にぎょっとした笠原は思わず背筋が伸びる。
「しょ、少々お待ちください!」
振り返ると怪訝な顔をした秋本がこちらを振り返ったところだった。
「ブッカー、ファルのご家族からだ!今すぐ呼んで来い!」
「ら、ラジャー!」
秋本も驚いて慌てて席を立つ。そこへたまたま黒江がドアを開けて入って来た。
「ファル、君の母親を名乗る方から電話だ」
受話器の口を塞ぎながら笠原が呼ぶと、黒江が血相を変えて受話器に飛びついた。
「もしもし、葵です……え?」
飛行隊の事務室に家族から電話がかかってくる等、滅多にあることではない。思わず身構えて黒江を見守っているとどうやら様子がおかしい。
「もう……やめて!そんなことで職場に電話をかけてくるなんて、冗談じゃない」
いつもは毅然とした態度の黒江が明らかに困っている。母親には頭が上がらないらしい。
「――当たり前でしょう!何かあったのかと思ったよ。それに私も忙しいんだから」
そこへ当直の須崎二尉と瀬川が戻って来た。
「どうしたんだ、ファルのやつは」
黒江の様子を見て須崎が聞いた。
「家族から電話です」
笠原が言うと二人とも表情を曇らせた。
「身内に不幸でも……?」
「いや、なんか違うみたいです」
黒江は電話に向かって苛立ちをあらわにしながら話している。
「分かってる!……えっ、結婚?」
突然、動揺した黒江は一番間近にいた笠原の足の脛を咄嗟に蹴り飛ばした。
「痛ッ!」
「あっちに行ってろ!」
黒江は足を押さえて呻く笠原に一喝すると受話器に手を当てて声を潜めて話し出した。笠原は脛に突然受けた打撃によろけながらその場を離れる。
秋本と瀬川、そして須崎はそんな笠原の様子に周囲で笑っていた。
「くそ、なんで俺だけ蹴られるんだ」
笠原は悪態をつきながら黒江を遠巻きに見る。焦ったり怒ったり電話に向かって世話しない。やがて受話器を叩き付ける様に置くと苦々しい表情で歩いてきた。
「おい」
笠原は黒江を睨む。
「なんだ」
黒江はその言葉に苛立ちを込めて振り返る。
「なんだとはご挨拶だな。人の足を蹴り飛ばしておいて」
「あ……」
黒江は咄嗟に自分のしたことを思い出して苦い顔をした。
「その、すまん」
笠原もねちねち引きずるタイプではない。それでその場は済んだが、黒江の様子はそわそわと落ち着きがない。笠原はその様子を気にしながらも急いで自分が記入した書類を点検し、印鑑を押し、提出の棚に重ねていく。
「なあ、走りに行かないか」
瀬川が休暇中の話を始めた。手際も要領もいい瀬川はすでに溜めていた仕事ももう終わっている。
「展開前に事故なんて起こしたらどうする。絶対だめだ」
「ええー」
不満そうな瀬川に苦笑する。
「ブッカーは?」
「俺、彼女出来たから」
「はあ?」
さりげない言葉に瀬川が目を剥き、笠原も手に持ったお茶をこぼしかける。
「聞いてないぞ、そんな話」
「言うかよ。死亡フラグになっちまうだろうが」
展開前に、俺、彼女出来たんだなんて言い出したら、こいつは次の展開で死ぬなと笠原は思い返す。
「友情よりも女を取るわけだな」
瀬川は秋本に冷たい目を向け、秋本は「勝手に言ってろ」と鼻で笑う。
笠原はお茶をすすって落ち着きながら黒江を見た。棚に電子戦の資料を戻していた黒江に瀬川の肩越しに声をかける。
「ファルは休日何をして過ごすんだ」
「家に帰るつもりだった」
「だった?」
「今は分からない。宿舎で過ごすよ」
黒江の元気のなさに瀬川と笠原は顔を見合わせる。
「どうしたんだ。さっきの電話か?」
「関係ないだろ」
笠原が聞くと黒江はつっけんどんに言って自分の机に戻る。
「よし。仕事の遅いシャドウは置いて帰ろう」
瀬川が開いていた資料を閉じて宣言した。秋本もそれに賛同する。
「おい友情云々の話はどこ行ったんだ」
「知らんよ。まあ、せいぜい頑張り給え」
瀬川はそう言って秋本と出ていく。オペレーションも閑散としてきた。残っているのは当直の須崎と、笠原と黒江だけだった。
黒江は終わっているようだが、机を整理したりと余念がない。十五時を過ぎた頃、ようやく仕事が片付いた笠原はさっさと机を整理し、机上からどけていたF‐15Jのプラモデルを元に戻す。
そこへ黒江が突然、笠原の肩越しにそのプラモデルを覗き込んだ。背後の黒江の髪からシャンプーの匂いが漂ってきて笠原は思わず緊張して身を固くする。
「プラモデルを作るのか」
「……いや、これはもらいものだ」
笠原がプラモデルをひっくり返すと主翼の裏に達筆な字で「武運長久」と書かれている。ペイントやマーキングは嘉手納の第204飛行隊のものだ。
「マザースコードロンの204飛行隊から転属する時にもらったんだ」
「ほお」
黒江は珍しそうにその主翼に書かれた文字を見つめ、機体をひっくり返してあちこちを見た。プラモデル自体はそれを趣味にしている仲間が手をかけて作ってくれたらしく、塗装なども完璧だった。
「やっぱりF‐15もいいな」
「ファルはずっとF‐18だったのか」
「そうだな」
黒江は丁寧にそれを机に戻した。
「終わったんだろ、仕事」
黒江に聞かれて笠原は頷く。
「ああ。やっと帰れるよ」
「家はどこだ」
「……練馬だけど、どうした?」
「いや……やっぱり何でもない」
黒江はそう歯切れ悪く言うと自分の荷物を持って事務室を出る。笠原も後を追った。
「ファルの家はどこにあるんだよ」
「私の家は横浜だ」
「都会だな」
「練馬なんて東京じゃないか」
「都会じゃないと否定も出来ないが、そこまで混み入ったところじゃない。家の周りは閑散としてるよ」
隊舎から出るとまだ残暑が照り付けてくる。夏の暑さで木々が並ぶアスファルトの道路にも蜃気楼が見えた。
「暑いな……」
笠原は思わず呟く。サングラスをかけていてちょうど良かった。
「足は車か?」
黒江が聞いた。
「いや。バイクだ。どうして?」
「いや……別に。バイクなら風が切れて気持ちいいだろうな」
「飛ばせればな。渋滞に引っかかったら暑くて死ねるぞ。乗っていくか。横浜なら寄っても良いぞ」
「暑くて死ねるぞと言って誘うのか、お前は……」
黒江は呆れながらも苦笑した。
「でも一度バイクに乗ってみたかったんだ」
「よしきた。乗るなら頑丈な、フライトジャケットみたいなのを着てくれ。あと荷物は最小限で頼む」
二人は三十分後に合流することを約束して分かれる。平静を装いながらも笠原は少し浮かれた気分だった。女を背に乗せて走れることを不満に思うほど笠原は朴念仁ではなかった。
独身幹部宿舎前でかけられていたシートを剥ぐ。マッドブラックに塗装されたニンジャZX‐10Rが鎮座し、持ち主の帰りを待っていた。笠原はまず部屋に戻って荷物を整えると飛行服のままバイクを乗るときに使っている〈ダナー〉のブーツに履き替え、服装を整えた。夏でも飛行服の上からは黒いナイロン製生地で軽量な〈ベルスタッフ〉のライダージャケットを羽織る。モスグリーンの飛行服だといささか目立つためでもあるが、安全のためだ。
バックパックを背負ってフルフェイスのヘルメットを二つ、それにタンデムシートとラック型のキャリアを持ってバイクに戻ると、まずキャリアをリアシートに取り付けた。少々不格好になるが、これで二人乗りでも側面にバックパックなどの荷物を載せることが出来る。
次にバイクを念入りに点検する。まず外観。破損などないか。タイヤの空気圧は正常か。チェーンの緩み、風防やミラーの汚れは無いか。汚れていれば丁寧にふき取る。続いて水回り。燃料、オイル、冷却水などを点検する。そしてイグニッションを回してエンジンを始動する。重低音ある1000CCのエンジン音が響いた。
計器と灯火の点検を行う。念入りに点検を終え、満足していると黒江が荷物をまとめてやってきた。
飛行服の上から黒いフライトジャケットを羽織っていて無骨な格好だが、それが黒江らしい。飛行服はノーメックス製で頑丈なため、見た目以外はバイクに乗るのに適している。それにフライトジャケットという組み合わせも良い。これで〈レイバン〉のパイロットサングラスでもかければ完璧だ。
荷物は小ぶりなコーデュラーナイロンのバックパックで荷物が少ないことに笠原は安堵する。
「それか」
「ああ」
「凄い速そうだ。三百キロくらい出るのか?」
「翼を付けたら離陸しちまうな。これはそんなに出ないよ」
二人の荷物を柵のようなキャリアにストラップを使って固縛する。
「こんな感じかな」
「ほお……」
黒江は興味深そうにバイクを眺めて回っていた。
「ヘルメットはお古だ。保証期間切れてるけど、一度も落としたことないから耐久性はちゃんとある。中も綺麗だよ」
ヘルメットを受け取った黒江は感慨深そうにそれを見つめてから笠原を見た。
「運転に自信は?」
「それなりにある。このバイクでもう三万キロ走ってるし」
「飛ばすなよ」
「セナと一緒にするな。俺は法定速度で走る」
笠原がバイクに跨り、黒江がその後ろに乗る。物怖じしない性格なのでしがみついてこないのがなんだか残念な気もするが、肩に置かれた手は黒江に頼られているようで少し得意になる。
「行くぞ」
「ああ」
笠原はアクセルグリップを捻り、バイクを前進させた。
飛行隊の隊舎で笠原と黒江がバイクに乗って出ていく様子を見ていた秋本と和泉はにやりと笑った。
「あいつら、いい感じですね」
「不遇のシャドウにも春か。うかうかしてると追い抜かれるな」
和泉と秋本は笑いながら窓を離れ、部屋を出た。すでに私服に着替えている。瀬川はバイクですでに基地の外に出ていた。
「感覚が似てるんでしょうね。バイクに乗るからって外出にフライトスーツはないでしょう、普通」
「二人ともだったからな」
二人は隊舎の外の駐車場に停められたスポーツタイプのセダンに乗り込む。和泉の車だった。
「あいつらに追いつかないようにお願いしますよ」
「分かってるって。俺はセナじゃない」
和泉は慎重に車を発進させ、基地のゲートを通って東名高速道路のインターを目指す。和泉は秋本を東京まで缶コーヒー一本で送ろうとしている最中だった。
『台湾の馬総統は、いずれの中国の軍事的恫喝にも屈しないとする声明を発表しました。台湾では中国の恫喝に反発する反中国デモが各地で行われており、ここ台北市内でも――』
ラジオから流れてくるニュースを聞いて和泉は音量を下げた。任務に関わることは自ら情報を収集しておくべきだったが、休暇の初日からうんざりする話は聞きたくなかった。
「プロポーズってどんな風にするんですか」
突然、秋本に聞かれて和泉は頭をかいた。
「実はな、もうプロポーズはしちゃったんだ」
「えっ」
「それが、ほんのふとした拍子にな。この人と結婚したいなと思って言葉に出しちゃったんだよ」
「ええっ、どんな場面だったんですかそれ」
助手席の秋本は運転を妨害しない限界まで迫る。
「彼女のマンションで彼女の作った夕飯を食べてた時だ。おいしかったし、安堵した拍子に、ああ、結婚したいな、なんて何のムードもなく呟いたら、いいよって言われてな。でも待った、今の無し!っていう事で仕切り直しでムードのある場所で改めて婚約指輪を渡すつもりなんだ」
「うわあ、いいですねそれはそれで。それじゃあ指輪も買ったんですか」
「婚約指輪が三十万もするなんて知らなかったよ。まいったね」
「三十万……」
秋本は天を仰いだ。
「お前も今の彼女と身を固めるつもりなら貯金をしっかりしておけよ」
「まだそんなに深い関係じゃないですよ。付き合って少しです。しかも仕事のことは話してません」
秋本の言葉に和泉は感心した。
「パイロットという肩書無しでゲットしたのか。でも展開の事を説明できないのは辛いな」
「余裕そうな顔をしてますけど、正直関係はあまり良くないんですよ。なぜ何日も会えないのかも分かりませんし、ひとたび連絡が取れなくなれば今度はいつ連絡が取れるのかも分からない。不満はあるでしょうね」
秋本は窓の外を眺めながら語った。いつまでも不遇の笠原をからかっていられなくなってきた。
「説明は早くしないといけないだろうな」
和泉も難しい顔をしながら言った。
「分かってはいるんですけど、自分もチキンなんですよ」
「アビエイターがそんなんでどうする。どんな相手であれ、七面鳥撃ちに追い込めないようじゃ、アビエイターは務まらないぞ」
動きの鈍い七面鳥を撃つのは簡単というところからターキーシュートには楽勝という意味が込められていた。
「……そうですね」
秋本はワイルドターキーを好んで飲む笠原の事を思い出して苦笑した。
「シャドウはアビエイターですね」
「ええ?」
小声で聞き取れなかった和泉が聞き返した。
「シャドウですよ。七面鳥どころか隼を撃墜しようとしてる」
「隼ってファルのことか」
「あの下地島でTACネームの由来を聞いたそうです。ファルは元々はファルコだったとか」
「ははー、なるほどな」
面白そうに和泉は笑う。
「本人に自覚はあんのかねぇ」
「撃ち落したいと心の底では思ってるはずなんですがね」
「あいつは馬鹿だからなー」
その和泉の物言いに秋本は苦笑した。
「こりゃあ気持ちいいな!」
「そうだろ!」
馬鹿呼ばわりされている笠原は保土ヶ谷バイパスを走っていた。バイクに跨った背中の黒江は始終ご機嫌だった。同乗者が喜んでいると自然と笠原も楽しくなる。高速道路は比較的空いていてスピードも法定速度まで出すことが出来た。とはいっても後ろに約四億円をかけて育てられた人を乗せているので安全運転だ。自分の運転ミスで二人のパイロットが非戦闘損耗で失われたら費用だけでも合わせて八億円が無駄になる。日本の国防に損失を与えるわけにはいかない。最初は密着を嫌っていた黒江だが、ヘルメット越しで声が通りにくいことと、カーブでの体重移動が楽しいのか、笠原の背中に体を預けていた。黒江の鼓動が背中から伝わってくるのは緊張を覚えると同時に何故だか安心できた。
保土ヶ谷バイパスを降りてすぐのオープンカフェでお茶を飲む。
「思ったよりいいな、バイク」
黒江は楽しそうに微笑んだ。童心に戻った様な溌剌とした無邪気な笑顔だった。そんな笑顔を見ることが出来ただけでもバイクに乗せた甲斐があったというものだ。
「だろう。ファルも欲しくなったか」
笠原はにやりと笑う。飛行服姿で姿勢の良い男女がバイクから降りてくると注目されたが、不快な気持ちにはならず、むしろ優越感を覚えた。自分はこんなに自己顕示欲が高かったのかと笠原は自分自身に驚いていた。
「おい、プライベートだ。仕事とのオンオフは大事だぞ。名前で呼べ、名前で。周りの目が痛い」
黒江のそんな注文に笠原は意外な思いだった。
「ええと、黒江さん?」
「なんでさん付けするんだ、笠原」
自然に呼ばれて笠原はどぎまぎする。プライベート、完全な仕事以外の付き合いを女としたことは今までなかった。
「私もバイクが欲しくなった……というのはあるんだが、車を買うつもりだったからなぁ……」
黒江はスマートフォンを見せる。映っていたのは無骨な4WDのSUVだった。
「これを、ファ……黒江が?」
「良いだろ。私はこういうのに乗りたいんだ」
黒江はにやりと笑う。女が乗るにはごつい車だ。やはり黒江は変わっている。
「来年買う計画なんだ。買ったら真っ先に乗せてやるよ」
「そりゃ楽しみだ」
車でドライブというのも楽しいかもしれない。しかし黒江が車を買うならこうして二人でバイクにタンデムで乗ることももう無いだろう。そう思うと少し寂しい思いもあった。
腕時計を見た。もうすでに横浜は目と鼻の先だった。黒江は楽しそうに笑っていたが、家の細部位置を聞くと途端に面白くなさそうな表情をする。
「そんなに家に帰るのが嫌なのか」
笠原はそんな黒江の表情に遠くを見ながら聞いた。
「え?」
「いや。電話でも言い争っていたしな。母親ともしかしてうまくいってないのか」
「母さんは私の仕事が不満なんだ。私は家を勝手に飛び出してきたようなものだ。毎回小言を言われる」
「それは心配されてるからだろ。子を心配しない親なんていないよ」
「過保護すぎるんだ。……はあ、言っていて憂鬱になってきたぞ」
「憂鬱になるほどか……。でもな、親の気持ちも理解してやらないとだぞ」
笠原はしつこいくらいに言った。後悔してからでは遅いのだ。この仕事は特に。
「それは分かってる。厚木に転属すると言ったら喜んでいたんだけどな」
黒江はそう言って遠くを見る目で横浜の方向を見つめた。