act1-6
笠原と黒江は言葉を交わすことなく協力して中から重たい格納庫の扉を閉めた。扉を閉め、吹き込んでくる風雨が収まるとようやく息を吐く。二人とも航空靴の中から下着までずぶ濡れになっていて、まるで海を泳いだような有様だった。さらに雨は高空の冷たい空気を運んできていて、気温は沖縄とは思えないほど低い。地鳴りのような音が格納庫を支配するように不気味に響き渡っている。
「参ったな……」
笠原が呟いたとき、黒江が小さくくしゃみをした。笠原が思わず振り返ると黒江は視線を合わせまいと顔を逸らす。しかし強く腕組みをして寒さに震えているのはすぐに分かった。
「待ってろ」
笠原は格納庫から出て空港の管理事務所などに向かったが、どこも鍵がかかっていた。この時ばかりは律儀な空港職員を恨んだ。台風がどんどん近づいているらしく、その息吹が聞こえてくるようだった。
隣の格納庫内の休憩室で整備員用のつなぎの作業服とジャケット、それにタオルを見つけた。外を通るときに濡らさないようにビニール袋で包んで格納庫に戻ると、黒江がつなぎの飛行服を上半身だけ脱いでいて、思わずどきっとする。
黒江はインナーとして着ているハイネックの黒いアンダーウェア姿になって肩を抱えていた。体に密着しないルーズタイプだが、濡れて張り付いているせいで彼女の肢体のラインがはっきりと分かる。やはり肩幅が広く、背筋は伸びている。笠原は不躾な眼を向けまいと視線を下に向けながら近づいた。
「これに着替えるんだ。体が冷やすな」
笠原はそれを黒江に押し付ける。やせ我慢は出来ても低体温症になる恐れがあった。
「自分の分は?」
黒江が聞いてきたが、笠原は答えずに急いで隣の格納庫に戻った。他に着替えは見つけられなかった。飛行服とブーツを脱いでアンダーウェア姿になってから黒江の服装を思い出した。
今までろくに顔も合わせなかったせいで、気がつかなかったが、黒江も笠原と同じメーカーのハイネックのアンダーウェアを着ていた。ハイネックを好んで使っているのはドッグファイトの際にフライトジャケットで首が擦れる対策だ。彼女もそうした観点で服を選んだのだろうか。コミュニケーションを取れていないことを改めて思い知った。
飛行服の中に防水処置をして入れてあった操縦に必要な資格免許などの書類やお守りなどを取り出し、ワッペン等を外すと飛行服の裾を柱に縛って捻って絞る。打ちっぱなしのコンクリートの床に雑巾を絞るように水滴が滴った。
私費で買った私物の飛行服なので容赦せずに右に左にと捻って手荒く絞る。さらに振り回して水気を飛ばそうとするが、難燃性素材のごわつく飛行服は湿ったままだ。柱に吊るすとアンダーウェアとパンツ、靴下も影に隠れて脱いで絞る。そのあとも絞ったり、溜めてあった新聞紙で叩いて乾かしているとなんとか着れないことはない状態になった。裸足で飛行服に袖を通すが、冷たくて体が震え、鼻水が出てきた。
溜め息を吐いた時、格納庫に黒江が入ってきた。グレーの作業服姿だが、持ち主は背丈もあって胴が太かったらしく、かなりでかい。手先の指は辛うじて出てくるようで、足も捲り上げていた大人用のパジャマを着た子供のような不格好な姿で居心地の悪く拗ねたような顔をした黒江の姿を見ると、思わず笑みがこみ上げてしまった。
笑うと黒江も釣られて諦めたような笑顔を見せる。ふふっと小さく笑った黒江の姿に笠原は目を丸くした。
「なんだその顔は」
黒江も口許は笑ったまま目だけで睨んだ。
「いや、初めて笑ったなと思って……」
「失礼だな。お前だってさっき初めて笑顔を見せただろうが」
黒江が笠原を見る。
「そうだったか……?」
黒江は笠原に向かってずんずん近づいてきた。思わず後ずさると真剣な顔で聞いてくる。
「頬が切れてるぞ」
指摘されて右の頬に触れると血が指先についた。
「さっきヤシの葉に直撃されたんだ」
「大丈夫だ、浅い。唾つけとけば治る。それより着替えは?」
「それ一着しか見つけられなかった」
「なに……?お前の方こそ風邪を引くぞ」
黒江は不満そうな表情で笠原を見て羽織っていたジャケットを脱ごうとする。
「大丈夫だ。頑張って絞った」
笠原がそう言って見せると黒江は笠原のフライトスーツの裾を掴んだ。
「まだ湿ってるぞ」
「平気だ」
黒江はそう言って強がる笠原に無理やりジャケットを着せた。
「風邪をひくぞ。着ておけ。《かが》に無線で報告しておいた。台風が去り次第、助けを回してくれるそうだ」
「そりゃ助かる」
台風は時速二十キロ以下だ。助けというのは一体いつになることやら。
二人は機体を軽く点検すると広い格納庫の中で機体のそばにおいたベンチに座っていた。風雨が格納庫を叩く音が激しく響いている。まるで滝のような音だ。機体から水が滴る音が聞こえてきた。
黒江の息遣いが聞こえてくる。寒いようで腕を組んで機体を見つめていた。ジャケットを返したかったが、笠原の体も冷え切っていた。
無言の居心地の悪さとその後ろめたさに笠原は何度か口を開こうとしては躊躇うのを繰り返し、ようやく話し出そうと決心して口を開く。
「なあ」
「あの」
そう思ったタイミングで二人の言葉が重なる。二人は顔を見合わせた。
「レディファーストでどうぞ」
笠原が譲ると黒江が話し出した。
「スクランブル前に話があると言っていただろう」
黒江が睨むように笠原を見つめながら言った。
「ああ……」
黒江の言葉とその表情に笠原は緊張を覚えながら応じる。
「私から先に良いか」
笠原は頷いて黒江を見た。黒江は今、普段はポニーテールにしているストレートの黒髪を肩まで下ろしていた。濡れた髪が首に張り付いている。綺麗な女はどんな髪型にしても似合うものだと場違いな感想を覚えた。黒江が重い口を開く。
「どうすれば認めてくれるんだ」
「なんだって?」
「不満なのは分かってる。女のウィングマンなんて押しつけられただけだろうが──」
「ちょっと待て。俺がいつ黒江の不満を言った」
咄嗟に笠原は話を遮った。
「逆に聞くが、いつもどんな顔で私を見てるんだ、シャドウは」
「どんな顔だって?」
「顔に不満が出てるだろう。そんな目付きで見られて不快にならないと思うのか。今だって……何がそんなに気に食わないんだ」
笠原はしばらく沈黙した。ようやく笠原は黒江が不機嫌な理由を理解した。
「目付き……」
思わず呟いた言葉に黒江が眉間に皺を寄せる。
「自覚が無いとは言わせないぞ」
刺すような目で言われ、笠原は天を仰ぎたい気分だった。
ようやく黒江が今まで感じていた不満を理解した時、笠原は己の愚かさを恥じ、自分に怒りすら覚えた。
「今まですまなかった……」
謝ることは出来ても顔を上げることが出来ない。自分のことを棚に上げて、今まで黒江の態度に苛立ち、周囲に不満を漏らしてきた。黒江は納得できなかったはずだ。それで黒江に連携を求めていたのだから笑えてくる。
「謝罪は良いんだ。私は女である前に、同じ土俵に立っている戦闘機パイロットとしての自分を優先している。だからそれを認めてほしい」
「俺は……女だからといって差別しているつもりはなかったんだ。君がプロ意識を持って何よりも優先してこの仕事に臨んでいることは知っているし、理解しているつもりだ」
「ウィングマンであることは別としてか?」
笠原の言葉に黒江はますます怪訝な顔になっていく。
「違うんだ……その、俺はファルに対してこんな顔をしてる訳じゃない。目付きは生まれつき悪いんだ」
「生まれつき?」
そこでようやく怪訝な表情をしていた黒江の眼が丸くなった。
「そうなんだ。俺は普段から人相は悪くて、別にファルに不満を持ってた訳じゃない。俺は君を優秀なパイロットだと認めている」
黒江はしばらく笠原の顔を見つめていた。その顔には驚きと戸惑いが浮かんでいた。
「なんだ……私はてっきり……」
「本当に今まですまなかった」
笠原が再び頭を下げると黒江ははっとしたように慌てて表情を引き締めた。
「よしてくれ。私が悪かった。誤解していたんだ。私の方こそどうか許してほしい。お願いだ」
黒江が何時になく心細そうな顔で見ながら言ってくるので笠原は戸惑ってしまった。
「許すも何も、謝るのは俺の方だ。転属してきていきなり俺みたいな男をウィングマンに当てられたら誰でも不安になる」
「いや、だが私は一方的な思い込みで……」
「誰でもそう思う。俺も君のそんな不安を理解しようともせずに……」
「いやそもそも――」
黒江は譲らなかった。笠原は話を遮る。
「分かった。やめよう、どちらかに非があったわけじゃない。不幸な行き違いがあっただけだ。そうだよな」
「いや……そうだな」
黒江はまだ何か言いたそうだったが、頷いた。
「これからお互い、その挽回をしよう。それで良いだろう、ウィングマン?」
笠原が言うと黒江は一瞬、きょとんと丸くした目で笠原を見つめた。そして言葉の意味を理解して微笑んで頷いた。
「ああ……よろしく頼むよ、ウィングマン」
黒江が手を差し出す。
「よろしく」
笠原もその手を握って力強い握手をした。お互いにしっかりと目を見つめ合ってする悪手というのは照れ臭いものがあったが、初対面の時とはまた違う、信頼感が伴ったものだった。
「……手が冷たいな」
黒江が呟く。
「ファルも冷たいぞ」
「沖縄だっていうのに暖を取らないときついな、これは」
二人は暖を取れそうなものを探したが、八月の沖縄の島の飛行場の格納庫にそんなものはあるはずもなかった。扇風機とブルーシート、整備用の部品を寝かせる時に使う毛布を見つけたので、飛行服などを乾かし、二人は重ねたブルーシートと毛布にそれぞれくるまって機体のそばで冷えた体を温めた。
外は完全に暴風域に入ったようで雨が格納庫の屋根を叩くだけでも激しい音が響き、暴風で格納庫が軋み、時折飛来したものが壁にぶち当たっていった。
「凄いな、こりゃ」
「沖縄は毎回こんな調子なんだろうか」
「最近は酷い異常気象だしな……」
二人は細々とだが、会話をしていた。笠原にとっては台風に感謝したいくらいの気分だ。あの厳しい黒江の態度は急に柔和になり、笠原とも自然な会話が出来ていた。
「そういえば……」
笠原はずっと温めていた疑問を口にする。
「黒江のファルっていうTACネームは、どういうネーミングなんだ?」
ブルーシートにくるまって顔を出す黒江が笠原を見た。
「そっちこそシャドウなんて大したTACネームじゃないか」
誰しも自分が憧れるようなカッコいいTACネームを与えられる訳ではない。二機編隊長資格を取得して一人前となれば自分でTACネームを希望することも出来る。
「俺のは、まあ……世話になった204飛行隊の教官の元々のTACネームなんだ。だから正確には二代目シャドウ。それに昔の俺は影を薄くして目立たないようにしていた陰気な奴だったしな」
「二代目シャドウか。私も正しくはファルじゃない。ファルコだ」
「ファルコ……隼か」
「ああ。エースパイロットの黒江保彦というパイロットを知っているか」
笠原にはそのパイロットがすぐに浮かんだ。大戦中のエースパイロットで、最終的には航空自衛隊で空将補まで昇りつめた。
「ああ。陸軍飛行隊の……あ、なるほどそれで隼か」
「そう。黒江保彦のいた加藤隼戦闘隊の隼から取られているんだ。部隊配置になってからACMで隊のトップをいきなりまぐれで撃墜して、最初は魔女のクロエと呼ばれていた」
黒江は楽しそうに笑みを浮かべて語った。
「魔女のクロエ……黒江将補も大戦中の異名は魔のクロエだったな」
「そう。たまたまだったんだが、それを思い出した者がいてな。それに元々、猛禽類みたいな印象だったらしくて、ファルコになった。でもそれじゃあ女らしくないっていうから縮めてファルだ」
「猛禽類みたいな女……言い得て妙だな」
確かに黒江の立つ姿は姿勢が良くて凛々しく、毅然とした顔立ちにきりっとした眼差しは猛禽類を思わせなくもない。
「私はファルコと呼ばれた方が好きなんだがな。女らしさなんて……それにカッコいいだろ」
黒江はまんざらでもない様子だった。格好いいことを誇るなんて変わった女だ。
「確かにそっちの方がカッコいいな」
笠原が同意すると黒江は嬉しそうに微笑んだ。今までそんな自然な笑みはちらりとも見せなかったというのに、いきなり防護壁を開いて内部を見せてきたような無防備さがあって笠原はどぎまぎした。
猛禽類は確かに格好良いが、同時に自然の中で生態系の頂点として君臨する姿は洗練され、美しいと笠原は感じていた。同じものを黒江に見たような気がしたのだ。
そう思うと、急に胸の奥がくすぐったいような、妙な気分になった。
笠原は自分自身の心の動きを不思議に思っていた。
夜も下地島は台風の暴風圏内だった。激しく格納庫は雨風に叩かれ続けている。いくつかあった毛布、ブルーシートと段ボールを使って黒江は笠原と共に機体のそばに寝床をこしらえていた。コンクリートの冷たい床に直接寝ることにならずに済みそうだ。笠原は黒江の近くで寝ることを渋っていたが、黒江は構わずにすぐ近くに自分の分の寝床を作っていた。
黒江がトイレから戻ると笠原が自分の機から生存用入組品の救命糧食を取り出していた。救命糧食は緊急脱出等をして助けを待つ間に食べる非常食だ。
「二機分開ける必要もないだろ。これを分けよう」
「分かった」
緑色の缶の封印を解き、開封する。中には遭難時の励ましの言葉と糧食の説明が書かれた紙が入っていて、五食分の高カロリービスケットとゼリーが入っていた。
「元気百倍になります」
笠原が紙に書かれている内容をそのまま口に出して、黒江にアルミパックされたビスケットとゼリーを一食分渡した。
「本当になると良いんだが」
不信感を持っていた男が急に頼もしくなり、黒江は不思議な気分だった。しかし思えば酷なことをしてきたものだ。笠原はずっと黒江との関係を改善するべくアプローチしていた。
初めての印象は黒江にとって最悪なものだった。あの広いブリーフィングルームの中でも人を睨め付けて自己紹介を聞いていたパイロットが自分のウィングマンになると聞いたときは新手の洗礼かとも思った。決してミスを許さないような鋭い目と不満そうに結んだ顔はもはや教官だった。同期のくせに上から目線でものを言ってくるのも気に食わなかった。自分は経験者だ、初心者に教えてやろうという傲りを感じた。
始終、笠原は黒江の前で不満そうな険のある顔をし続けた。機体を整備する整備員たちも黒江の前では睨め付け、本人は得意げに歩く。顔を合わせれば常に怒った表情で見てくる。
黒江はすぐに笠原とは距離を取った。ウィングマンは背中を任せる相棒だ。戦いに勝つためにはそのウィングマンと阿吽の呼吸で戦えることが理想だった。信頼関係が無ければそんな連携は無理だ。笠原はトラブルばかり起こす厄介者で、飛行隊内でも浮いた存在だと同僚の藤澤は言った。飛行教導群を目指していて新人に自分の腕前を披露したがる自己顕示欲の強い、自己中心的な人間だとも聞いた。
黒江は笠原をわずか二日で信頼に値しない人間だと判断した。せめてもの救いは笠原が確かにそれなりに腕の立つパイロットだということだった。しかもその年と階級で四機編隊長資格を保有している。
自衛軍の大幅増員のため、指揮官クラスの人員は不足状態が続いており、二〇一〇年代前半と比べると異常な昇任制度や教育となりつつあるが、それでも能力が無ければそれも適わない。はったりではない能力はあるということだが、そうなれば、上から目線になりたくもなるのだろう。後ろに引っ付いて飛んで、学べることは学ばせてもらう。だが、それだけだ。笠原も黒江の無言の拒絶を前にすると最初の勢いは失せ、むしろこちらの顔色を窺ってくることが多くなった。
だが、今思い返してあの表情を除外すれば、笠原は挨拶や些細な声かけをして黒江とコミュニケーションを取ろうとしていた。あの目は黒江だけに向けられたものではなく、他の隊員達ともあの顔で日常を送っていたのだ。あれは上から目線や皮肉ではなく、転属したばかりの黒江の不安を解消しようとして激励し、称賛していた。そして黒江の笠原だけに向ける不遜な態度にも、彼は文句も言わずに彼なりに努力してウィングマンとして連携しようとしていた。笠原には何の落ち度もなく、黒江の態度に酷く戸惑ったはずだ。
そう思うと自分が取ってきた態度が非常に憎かった。人の思いを踏みにじる行為を黒江は取り続けていたのだ。しかもウィングマンに!
黒江は笠原の顔をちらりと窺った。黙々と救命糧食を食べる笠原の顔はやはり鋭く険しい。それでもこの顔がデフォルトなのだ。黒江は思わず信じられない気持ちで笠原の顔を見つめた。
獣の目とは違う。やはり猛禽類を思わせる鋭い目つきだった。
笠原がふとその視線に気づいて顔を上げる。黒江は慌てて自分の救命糧食を口に運んでごまかす。
救命糧食は味も触感も意外なほど食べやすい。ビスケットはバタークッキーのような味で、ゼリーは餡も入っている。サイズは小さいが、圧縮してあるので密度があり、満腹感が得られた。
空港は台風の影響で停電しており、真っ暗だった。水は幸いにも使えた。雨風を凌げる建物内でそれなりの寝床もある。生存自活訓練よりははるかに楽だ。
黒江がくつろいでいると笠原は険しい表情のままだった。それは普段の険しさとはまた別の色だった。
「どうした」
「いや……やっぱり俺は離れた方が良いんじゃないかと思って」
「そんなことを気にしていたのか」
黒江は呆れた。
「私は気にしない。だからシャドウも気にするな」
黒江がそう声をかけると笠原はやはり渋々とブルーシートと段ボールの寝床の中に納まった。
しかしいざ寝ようとすると床の固さが気になる。黒江は寝付けずに何度も寝返りを打った。気づくと笠原は左腕で顔を覆ってすでに静かな寝息を立てている。
なんとか段ボールを重ねて敷き、寝床を整えて眠りに着く前に黒江は寝息を立てる笠原の顔を覗き込んだ。目を覆い隠すような左腕の姿勢はきつそうだった。今まで自分が遠ざけようとしてきた男が、無防備に寝ている姿に、ああ、やっと安心して後ろを飛ぶことが出来るのだなと思うと安堵感がこみ上げた。黒江はしばらく笠原を見ると満足して自分も横になる。
でもやはりどう考えても落ち度があるのは自分の方だ。しかしもう許してくれとは言わないつもりだった。彼もそれを望んでいない。
「ありがとう、シャドウ」
黒江は小さく呟くと今度こそ眠りについた。
*
ガシャンという険呑な音に黒江は思わず跳ね起きた。
「見てくる」
笠原はすでに起きていたようで、ライトを手に立ち上がって濡れた航空靴を履こうとしていた。気づくと黒江にはジャケットがかけられていた。笠原に渡したものだった。
「起きていたのか」
「ちょうどトイレに。そんなことより腹を出して寝るな。風邪ひくぞ」
笠原が真顔で親のような口ぶりで言ってくることに黒江は思わず笑いがこみ上げてきた。あの鋭い、人を射殺そうとするような顔で心配されるのはやはり慣れないし、ギャップが凄い。
笠原はライトを照らして風の音が吹き込む格納庫の奥へと歩いていく。黒江も航空靴を履くとそのあとを追った。
「ついてこなくてもいいよ。寝てろ」
「ウィングマンだろ、私は。置いてくのか」
笠原が鋭い目をわずかに丸くする姿に黒江は満足した。格納庫の奥、人が出入りするための通用口の窓が割れていた。飛来した何かが直撃したのだろう。外は恐ろしい暴風雨で、雨が吹き込んであっという間に水たまりを作っている。
気圧が下がっていた。格納庫の中には笛が鳴るような音があちこちから沸き起こっている。
「気休めだが……」
笠原は余っていたブルーシートを持ってきてドアごと覆うようにして割れた窓を塞いだ。黒江は割れたガラスを片づける。
「勝手に段ボールやターピーシートもトラクターまで使って大丈夫だったかな」
笠原が今さらのように言った。
「緊急避難だ。それにここを管理しているのは海上保安庁だろう。同じ宮仕えだ、平気さ」
黒江は気楽に言うと笠原も納得した。二人はまた寝床に戻る。
「今何時だ?」
黒江は腕時計を外していた。
「一時過ぎだ」
笠原が腕のプロトレックを見て答える。
「台風は過ぎないか……」
黒江は溜息交じりに段ボールの寝床に身を投げ出す。クッション性がほぼ皆無で、気付けば背中が痛い。
笠原はいつの間にかノーズギアのそばに寝床を移動して黒江から離れていた。
「私の近くだと寝づらいのか」
黒江が不満そうに言うと笠原は苦笑した。
「いや、いつかこんな風に機体のそばで寝てみたいと思ってたんだ」
笠原はノーズギアに寄りかかってランタンにしたライトをそばに置いた。黒江もその光景を見て少し羨ましくなった。段ボールとブルーシートを持っていそいそと移動して笠原の隣に腰を下ろす。
「確かに。これはちょっといいな」
黒江も少し子供心が疼くようだった。コックピットの真下に腰を下ろすとランタンの光で機体の影が格納庫の天井に映っていた。思わず「おお……」と感嘆の声が漏れる。
「なかなか風情があるな」
「絵面は完全にホームレスだけどな」
笠原の言葉に黒江も思わず笑った。暴風雨も気にならないほど、黒江も笠原も飽きずに機体を見上げていた。
沖縄
下地島空港
August 26.2021
翌日、台風十九号が東へ移動し、暴風域から下地島が抜けると《かが》より整備員や燃料を載せたヘリが飛び立った。
生乾きの飛行服を着て、身なりを整えた笠原と黒江は到着を待っていたが、それよりも先に海上保安庁の職員たちが伊良部島から飛行場に戻って来た。
彼らからすれば戦闘機が二機、下地島空港に緊急着陸したことなど露とも知らなかったので、エプロンに引っ張り出された二機の戦闘機を見て驚いていた。
「知らない間にベレンコ中尉が二人くらい亡命してきたのかと一瞬思いましたよ」
黒江が使った作業服の持ち主であろう、力士のように大柄で穏やかな表情の海上保安官が笑いながら言った。ここに務めている数少ない職員たちは機体を興味津々といったようで見学していた。
台風一過ですっかり晴れた下地島はからっとした暑さで、南国気分を味わえるいい天気だった。
「すみません。勝手に段ボールやブルーシートを使ってしまって」
「気にしないでください。しかし申し訳なかった、格納庫で寝るなんて。さすがは自衛官です」
海上保安官は黒江に視線をやった。黒江は髪の毛をポニーテールにしてまとめていて別の若い幹部の海上保安官の質問を受けていた。
そこへ二機の航空機が飛んできた。空自の水色迷彩のCV‐22J多用途輸送機と海自のMCH‐101掃海・輸送ヘリだった。二機は滑走路に着陸するとタキシングしてエプロンへと進入してきた。
「おお、オスプレイか」
海上保安官たちも航空機を見て驚いている。導入当初は騒がれたが、ライセンス生産によって陸海空三軍に配備されるとさすがに見慣れた機体となったCV‐22Jもこの島では珍しい機体だ。
CV‐22Jの後部のランプドアが開くと、給油ポッドを搭載してきたようで機上整備員が地上での給油用のホースを引っ張ってきた。
MCH‐101からは整備小隊の隊員達が降りてくる。
「シャドウ!」
すぐに整備小隊長の江入一尉が駆け寄ってきた。
「偉い目にあったな。機体は無事か?」
「無事ですよ。ですがほとんど空っ穴です。もう残ってるのは八百ポンドもないくらいで」
「八百ポンド……」
隣で聞いていた二等空曹が絶句する。
「本当にフレームアウト寸前だったな……良く機体を持って帰ってきてくれた」
「あんな海にベイルアウトしたらどのみちお陀仏ですからね」
機体に取り掛かった整備員の一人が笠原に頭を下げる。渡邉だった。飛ぶ準備がなされ、エンジンランナップなどの点検が行われる。笠原と黒江は念のために同行した衛生員から一応の風邪薬をもらって温かいお茶を飲んだ。昨日からサバイバルキットの非常食しか食べていなかったので、非常に助かった。
空港のシャワーも借りて整備小隊の隊員が運んでくれた清潔な飛行服に着替えるとようやく人心地もついた。
「フライトプランを書いてきてくれ」
命令などの書類が入った封筒を渡された。笠原と黒江は海上保安官に案内されて空港施設内の飛行計画室に案内され、《かが》に戻るための飛行計画書を素早く記入した。こういう時はやはりお役所仕事だと思う。天下の戦闘機も空では航空法によって縛られている。実戦のスクランブルでもない限り、書類はつきものだ。
書類を書き、天候や離陸手順などを確認して機体に戻ると整備と補給は終わっていた。計画書ではあと一時間後の離陸だ。二人は飛行場内を散策して時間を潰した。
海に飛び出ている滑走路の端は小さな入り江になっている。白い砂浜とエメラルドグリーンの透き通った海が広がり、非常に美しかった。心地よい風が吹いている。台風一過で空は晴れ渡っていて、海鳥が鳴いている。
「絶好のダイビングスポットがあるそうだ」
空港にあったパンフレットを片手に笠原が言う。黒江は広がる海を見つめていた。髪の毛が海風でなびいている。どうしてもそれが気になって笠原は目を向けてしまう。
「ダイビングか……次ここに来るときは観光がいいな」
黒江はくすりと笑った。パイロットは皆、生存自活訓練で泳法などの技術を学んでいた。笠原もダイビングなどお手の物だ。
「確かに。あんな目に遭うのはもう御免だ」
「でも、なかなか貴重な体験だったろ」
黒江はそう言って手すりに寄りかかった。その姿も様になっている。今まで笠原に見せなかった様々な表情を黒江は浮かべていて、その表情の移り変わりに笠原の気持ちも落ち着かなかった。
なんだこの気持ちは……
当惑する自分をよそに黒江は下地島の自然に目を奪われて楽しんでいた。飛行甲板では嗅げない種類の潮の匂いを笠原も感じ、黒江のことを気にしないようにぎこちない気持ちで自然に目を向けるしかなかった。
黒江が腕時計を見るので笠原も腕時計を見た。もうすぐ時間だ。
「名残惜しいが、行こう」
「ああ」
黒江は頷き、笠原の後に続いた。




