act2-3
神奈川県
大和市
13 August.2021
週末の夕方、いつもの居酒屋の暖簾を笠原と秋本は少し遅れてくぐった。店内はすでに賑わっていて、奥の席では安藤一尉とそのウィングマンの今井一尉がすでに料理は頼んで待っていた。
「遅くなりました」
「残業お疲れさん。ブッカーはシャドウの手伝いか?」
安藤の問いかけに秋本は笑う。
「シャドウが自分の記録簿をパソコン上から削除しちまいまして、サルベージしてました」
「わざとやったんだろ?」
安藤は笑いながら店員にビールを頼み、笠原と秋本の椅子を引き出す。安藤は先輩という立場であってもこうしたことは躊躇わずに行う。そういう面でも笠原は安藤を尊敬していた。
テーブルに並んでいるのは寿司の盛り合わせと鶏肉の唐揚げに枝豆。自衛官だけあって三人ともよく食べるのですぐになくなるだろう。
「わざとなんてやらないですよ」
今日の笠原は秋本に頭が上がらなかった。
「しっかし本当にデスクワークが苦手だよな、シャドウは」
「タイピングは早いんですがね……」
笠原はきまり悪さを誤魔化すように熱いおしぼりで手を拭きながら呟く。ちょうどそこへ生ビールが大ジョッキで運ばれてきた。
「おーし、今週も訓練お疲れさん!」
「お疲れ様でした」
乾杯すると笠原は一気に生ビールを煽った。ストレスの溜まるデスクワーク後の生ビールは一口目が最高に旨い。自分もずいぶん大人らしくなったものだとジョッキをテーブルに置きながら笠原は思った。
高卒で自衛官になってから自衛軍という狭い社会の中で生きてきた自分はいつまでも若々しい気分でいたが、嗜好はだんだんと変化していった。もっとも無糖のコーヒーはまだ苦手だが。
「中トロうまいぞ」
「ああ、どうも」
寿司を食べながらジョッキの中身を減らしていく。すぐにお代わりを頼んだ。
「さすが若いな」
「ベアさんも若いじゃないですか」
「俺もさすがに年を取ったよ。三十代が迫ってきた」
安藤は首を回す。関節の湿った音が聞こえる。安藤のベアというTACネームは自身の名前の琢磨の“くま”からと、柔道で鍛えられたがっしりとした固太りの体格とその穏やかな性格からだ。
「でもまだ若い奴には負けてないでしょう?」
秋本が聞くと安藤はにやりと悪役のような笑みを浮かべた。
「たりめーだ。今日は不覚にも遅れを取ったが、次は負けん」
その間も今井は黙々と酒を飲み、焼き鳥の盛り合わせを頼んでかっ食らっている。
「スノーさんも良く食べますよね」
秋本が笑った。
「ベアのおかげで夕飯抜きだぞ。大目に見ろ」
今井は途端に仏頂面になる。色白の今井の顔にはすでに赤みが指し始めている。
その後は今日のフライトの話になった。やはり安藤は負けたことをまだ悔しがっていて、あれはこうだった。黒江があの動きをしなければ笠原を落とせた、などとまくし立てる。笠原は、自分は下から切り返し、安藤に対してどういう動きを取るつもりだった、などと説明する。パイロットは皆、負けず嫌いだ。プライドが高く、負けず嫌いでないとやっていけない。秋本は今井と飛んだらしく、秋本が世話をしている園倉という新人の話を熱心にしていた。
程よく酔ったところで安藤が切り出した。
「シャドウ、黒江との関係は良くなりそうか?」
安藤に黒江とのことを聞かれた笠原は難しい顔をする。
「分かりません。ただファルは自分が気に食わないみたいですね」
「気に食わないって……」
安藤が呆れる。
「分かりませんよ、自分にも。自分を見るたびに仏頂面です」
笠原はふて腐れ気味に串焼きをまとめて口に放り込む。
「お前は不愛想だからなぁ……」
安藤は溜息をついた。
「シャドウ、藤澤との仲が悪いのは知ってるが、ガイのことはよく見てるのか?」
今井が突然聞いた。
「いえ……」
「あいつは割と女と仲良くなるのが早いだろ。携帯の電話帳も女ばっかりだ。なんでだと思う」
笠原は今井が質問するからには意味のある質問なのだろうと察するが、明快な答えが導き出せなかった。
「女たらしだからですか?」
「女をたらせるってことはそれだけ会話がうまいんだよ、あいつは。顔がいいだけじゃない。コミュニケーション能力が高いんだ」
何を言わんとしているかようやく笠原は察した。
「自分は無口だからですか……?」
「そこら辺はガイを見習ってみたらどうだ?とりあえずコミュニケーションだ、コミュニケーション」
今井に言われて笠原は頷いた。
会話か……と笠原は顔をしかめる。人付き合いは苦手だ。特に女とは。
難しい顔をする笠原の肩を安藤が大げさに叩く。
「まあ、そんなに深刻に考えるな。気長にやれよ」
「早く実任務に戻りたいですよ」
「それを言うな。皆同じだろ、大体は」
「次の展開は多分、期間も長くなるだろう。南はピリピリしてる」
今井も言う。
「東シナ海は荒れ模様ですからね」
笠原は自分の話しやすい話題になったのをこれ幸いと引っ張った。
安藤も語調が強まる。普段から思うことがあるのだろう。
「舐められっぱなしなのはよくない。せっかく日本も空母を持ってるんだ。空母っていうのは外交手段の一つだろ?」
「空護ですよ、空護。そんな砲艦外交紛いの恫喝紛いの威圧で相手を屈服させるみたいなことを日本ができると思いますか?」
笠原は訂正しながら諦めたように苦笑をする。
「無理だろうな」
今井もむすっとした表情で皿を眺めて呟いた。
「だが、日本海はともかく東シナ海には常時張り付けておくべきだ。こないだの事件を見ただろ。嘉手納のスクランブルは間に合わなかった」
こないだの事件、というのは事件というほど大きく取り上げられてはいないが、領海侵犯した中国の海警を追跡していた海上自衛軍の対潜哨戒機に向かって中国海軍の空母から飛び立った戦闘機が異常接近した事案のことだ。
領空を侵犯した二機の戦闘機は海自の対潜哨戒機に異常接近して追い掛け回し、慌てて嘉手納から飛び立った空自のスクランブルが到着する前に離脱した。外務省は厳重な抗議を行ったが、その後も似たような挑発は繰り返されていた。
「せめてCAP(戦闘空中哨戒)が張り付いてれば間に合ったんですけどね」
「外交問題を気にして戦闘機を飛ばすことを避けたいみたいだな、上は」
安藤は不満そうだった。航空自衛軍のトップである航空幕僚長も記者会見で苦言を示していた。
「でも日本も一応、《きい》を沖縄沖まで動かしてるじゃないですか」
鹿屋の第102飛行隊は空護《きい》に展開し、東シナ海で任務に就いている。
「沖縄沖だぞ。尖閣諸島まで八百キロ。その時間の空白を埋めるのが航空護衛艦だろう。嘉手納と大して変わらないじゃないか」
「CAPすら控えてんのに空護を東シナ海に展開なんて無理に決まってる」
今井が聞く。
「中国は空母を引っ張り出してるんだぞ、なんで俺たちが自制しなくちゃならないんだ」
「日本がこの関係を悪化させたことにしたくはないんでしょうね。ただでさえ中国は台湾との関係でピリピリしていますし」
台湾では独立派が政権を取り、台湾の若い青年層を中心に独立の機運が高まっている。中国ではそうした台湾の動きに親共産党派が反台湾デモを起こしており、双方の不満は日に日に高まっていた。
「引き金を引きかねないとか言ってるけどもう引き金は向こうが引いてるんだ。まごまごしているとこっちは引き金に指をかけるどころか弾込めもできないぞ」
安藤はさっさと日本酒を頼んで飲み始めた。笠原も同じものを頼みながらきゅうりを齧る。
「陸自の水陸機動団は一部与那国島に転地訓練したりしてけん制してるみたいですよ」
「つっても連隊規模じゃないだろ。やっと与那国島にも駐屯地ができてまともに転地訓練ができるようになったが、それに比べて空自は何をしているんだか……」
「まあ、この縛られた状態でもいかに戦えるかが俺たちに求められるところだろ」
今井が言う。
「政治の失敗を引き受けるのは俺たちか……」
安藤の言葉を聞きながら笠原は遠い海に思いを馳せた。
独身幹部宿舎に戻ったのは十一時過ぎだった。翌日もフライトがあるので深酒はせずに帰って来た笠原はすでに高いびきの同室の瀬川を起こさないよう、自分のベッドの横に荷物を置いた。
瀬川は携帯電話の充電をしながら寝る間際まで弄っていたらしく、首に充電器のコードが巻き付いていた。助けてやるつもりで屈んだ時、突然携帯電話が鳴り出し、瀬川が跳ね起き、笠原の額と激突する。
「痛ッ!」
「くそ、なんでこのタイミングで起きやがるんだお前は!」
笠原と瀬川は互いに呻き、頭を押さえる。
「何、お前、酔っぱらって俺にキスしようとしてたのか。まさかいくら女にモテないからってまさか、そっちに目覚めたのか」
「殺すぞ、馬鹿野郎。早く電話に出ろ」
瀬川が頭を押さえて呻きながら携帯電話を取る。
「はい、瀬川。……え?デフコン?」
その言葉に呆れていた笠原も目の色を変えた。
「はい。……デフコン4発令、タイム2321、了解」
眠たげだった瀬川の顔色も真剣そのものになっていた。跳ね起きると急いでハンガーにかけていた飛行服を掴む。事情を説明しろと目で訴える笠原に瀬川は渋面で答える。
「デフコン4だと。よく分からん」
「くそ、酒を飲んじまった」
デフコンとはDefense Readiness Condition――防衛準備態勢の略だ。平時はデフコン5であり、デフコン4は情報収集の強化と警戒態勢の上昇を意味する。
態勢移行など笠原はこれまでの自衛軍人生で一度も経験していない。相当な事が起きたのだ。
「お前のバイク貸せよ。俺のじゃケツにシート付けてない」
「寝ぼけてんのか、ここBOQだよ。走ってくぞ」
笠原も言いながら自分も飛行服に着替え始める。
「ああ、くそ……なんだ一体」
二人はバタバタと部屋を出る。週末だったため、BOQにいる隊員は少なかったようだ。他の部屋からも何人かちらほらと顔を出す。二期上の和泉英喜二尉と途中で合流し、三人は飛行隊の隊舎へ走った。広い基地内では自転車を使って移動することが多いが、笠原たちは走ることを好んでいた。この時ばかりは後悔した。
隊舎に駆け込み、オペレーションルームに向かうと当直幹部に就いていた加沢三佐が苛々とした表情でスクリーンに表示された行動経時表を見ている。
時系列に沿ってその状況が表示されていた。
・日本標準時2243、世界標準時1343 ZULU
安徽省皖南基地から弾道ミサイル一発が発射されたことを早期警戒レーダーが確認。
・日本標準時2250、世界標準時1350 ZULU
七分後、同基地より二発目の発射を確認。弾道弾は台湾の上空を通過。
・日本標準時2312、世界標準時1412 ZULU
台湾空軍、デフコン1発令。清泉崗空軍基地、这是空軍基地、桃園空軍基地、台中空軍基地、台南空軍基地、桃園空軍基地より戦闘機二機ないし四機が発進。E‐2T早期警戒機が台湾海峡に展開中。
・日本標準時2325、世界標準時1425 ZULU
台湾空軍戦闘機、F‐16二機、防空識別圏に侵入。南西航空方面隊嘉手納基地より要撃機二機、与那国島周辺に戦闘空中哨戒中。
弾道弾は台湾沖の東シナ海海上に落下したと推定。
その情報を見た笠原と瀬川は思わず顔を見合わせた。そこへフライトスーツを着た藤澤を先頭に数人のパイロットたちが入ってくる。その中に黒江の姿もあった。
「出ないですよね、うちは」
藤澤はクロノロジーを見て開口一番、加沢に尋ねた。
「今のところはな。南西航空方面隊にはCAPの指示が出ている」
「ミサイルか……てっきり北朝鮮かと」
あの藤澤も驚いている様子だ。
「今のピリピリしている時に事前通告なしでミサイル発射とか……台湾じゃ戦争が始まったと判断してもおかしくないですよ、こりゃ」
和泉が呟く。
「台湾空軍も慌ててるみたいだな」
加沢が腕組みをしながら呟いた。今頃南西航空方面隊では戦闘機がスクランブル発進して対応し、高射部隊にも呼集がかかっているだろう。黒江の顔を窺うと、怜悧な横顔がさらに引き締まってきりっとしている。スクリーンを見つめる目は険しい。
「今、第103飛行隊に出来ることは無い。しかしこの後、どうなるかまだ分からん。シャドウとガイは今のうちに寝て早くアルコールを抜いておけ」
「了解」
笠原は藤澤の顔が赤みを帯びていることに今さら気付いた。藤澤も笠原が酒を飲んでいたことに気付いて目を一瞬、細める。次々に登庁してきた隊員たちに逆らうように笠原は急いで独身幹部宿舎へ戻った。
酔いなどとっくに吹き飛んでいたが、航空機を飛ばすにはアルコールが完全に抜けていなくてはならない。冷蔵庫に入っていたオレンジジュースをコップ二杯分飲んでしばらくテレビをつけて起きていた。寝てしまうと肝臓の機能が落ちてアルコールの分解能力が半分程度に低下するからだ。
テレビをつけても興味のないバラエティ番組ばかりでニュースに件の内容が流れることはなかった。危機意識が足りないのか、それとも情報が行き届いていないのか。
深刻に考えすぎても意味は無い。自分はただ戦闘機を飛ばす、最も高価な部品。余計なことを考えず明日の朝、再び戦闘機を飛ばせる状態に体を持ってくることだけを考えて笠原は目を瞑って脱力した。呼吸だけを意識する。眠気が襲ってきたことも実感せぬまま笠原は落ちるように深い眠りについた。