残照
「これはまた…」
思わずつぶやくほどの、季節外れの風雨。傘を持ってはいるが、これでは役に立つまい。
もう…こんな嵐はいらない。
歳三が箱館で戦死して3か月。その後も実姉であるのぶへの警戒はやんではいない。落ちてくる新選組隊士がいないか、常に監視されている状況はさすがに精神的にこたえる。
夫の佐藤彦五郎は、この辺りの庄屋で、まだ黎明期の新選組に出資をしたこともある。上洛するまで近藤勇が師範をしていた試衛館道場に通っていたこともあり、ともに鍛錬した歳三への身びいきも相当なものだ。
もともとが陽性の夫は、新選組が瓦解した後から今まで、一度ものぶを責めたことはない。根が冷静な彼女よりもずっと率直に、かつての仲間を悼み、弟の死を悲しんでくれた。
「急いで帰らなければ、また心配するでしょうね」
一つ息を吐くと、のぶは闇の増してきた道を小走りに駆ける。激しい雨風のなかを。まさか、これ以上の嵐が家で待っているとは想いもせず…。
帰路の半ばほどに家人のふきが待っていた。
「ああ、奥さんご無事で! 手ぬぐいと着替えは用意してありますから。
さ、参りましょう」
やはり傘をさしてはいたが、ふきも濡れねずみだ。まだ幼さの残る彼女だが、歳三の死を知ったのち、これまで以上にのぶに気遣いを見せてくれる。
盛大に泥をはねながら歩くこと二十歩ばかり。不意にふきが口を開いた。
「私、だんな様から言付かってきたんです。道々、お客様のことを奥さんに話しておくようにって。この雨なら、もし見張りの人がいたって話を聞かれることはないだろうからって」
のぶは顔が強張っていくのを感じた。少しずつ池に氷が張るように、心の中をパリパリと緊張が満たしていく。
「歳三様がこちらにお戻りの時、お見かけしたことがあります。まだお若い、たぶん私くらいのお年の」
彦五郎に言われているのだろう。ふきはのぶの顔を見ず、ずっと前を向いたままで話を続けている。少し震える声にはこの娘の興奮が感じられたが、強いていつもの調子に保とうとしているのが伝わってきた。
「お名前は、ちょっと…。だんな様の声がよく聞き取れなくて。でも確か、市村様…だったと思います」
「ああ、市村…鉄之助様ですね」
のぶの脳裏には、日野に帰った時の歳三や勇の談笑する姿がありありと蘇った。市村は歳三の小姓だと聞いたように思う。郷里の昔馴染みと盛り上がっている上官の邪魔をせぬよう、少し脇にひいて畏まっている姿がなんだか微笑ましかった。
「あ、そうです。間違いありません。土間で下座をしたまま、なかなか面を上げて下さらなくて。上に上がるようにだんな様がおっしゃっても、せめて奥さんにお詫びしてから…というばかり。何とかなだめて、今は奥向きにいらっしゃるはずです」
「そう、だんな様にご苦労をおかけしてしまいましたね。…人目につくようなことはありませんでしたか?」
「大丈夫。この風雨ですもの。それに…あの方は絶対に渡しません」
その頑なな口調に、思わずのぶはふきを見た。視線を感じたのか、ふきはきりりとのぶを笑顔で見返した。
「だって。ここは千人同心の町だもの。公方様への気持ちは捨てたりしません。歳三様はもちろん、あの市村さんだってそのために戦ってこられたんです。その方を売ったりなんか、この町の人間は決してしませんとも」
八王子千人同心。初代将軍家康のころから、武田家の遺臣を中心にして多摩近在の地侍や豪農などで組織された。当初は甲斐方面からの侵攻に備えられたものであったが、天下泰平ののちは家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となった。
配置されていた多摩地方は徳川からの庇護が篤かったため、同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったといわれている。
ふきの心奥を初めて知ったのぶは、胸が熱くなるのを感じずにはいられない。幕府滅亡の後は、重く苦しい思いを抱えていた。歳三の死後にいたっては、心の一部を殺していくように生きるしかなかった。でも、とっくに支えられていたのだ。この年若い娘に。誇り高いこの町の人々に。そしてもちろん、欠片も離縁を切り出さないでくれる夫に。
ふきは力みすぎた自分に照れたのか、頬を真っ赤に染めて微笑んだ。
「さあ、奥さん。家まであと少し。足元にお気をつけて。待っている方々のためにも少し急ぎませんとね」
「だんな様、のぶです。遅くなりました」
「ああ。大丈夫だったかい、雨は。さ、入ってくれ」
ふすまを開けて中を見やる。主の彦五郎からずっと下座に小さく平伏する人影があった。灯りがようやく照らすその横顔は、やはりあの市村だった。かつてより二回りほど小さく見えるのは、うずくまっているからだけではあるまい。苦しい逃避行が察せられる。病を得ているのでなければよいが。
「のぶ、こちらへ。市村さん、大変お待たせした。やっと戻ってきたよ。さあ、これ
で話してくれるかい?」
「ご当主さま、おのぶさま。一人おめおめと生き延びた私を、どうぞお許しください。
副長からの預かり物を、命を懸けてもお渡しすると約束したのです」
市村は少し身体を起こして懐に手を入れた。油紙に大事に包まれたものを取り出すとき、わずかに表情が窺えた。無精ひげに覆われてもなお、頬のこけ方がひどい。大変な道程だったに違いない。しかしその両眼は、ついに使命を果たそうとしている昂ぶりのせいか、潤んで見えた。
「どうぞ、こちらを―」
手ずから受け取ったのぶは、ちらと彦五郎を見やる。彼がうなずくのを確かめたあと、息をついて包みを開いた。
それは、しかと束ねたひと房の髪。
激しい感情が胸を渦まく。これで逃げられなくなった。はっきりと突きつけられた現実から。
(あの子はもう、いないのだ―)
幕府が瓦解し近藤勇が処刑されて。それでもなお転戦をしているらしいことを知った時から分かっていた。もう歳三が生きて目の前に現れることはないと。
(そう、あの子の気性なら―)
そして夏の初め。そぼ降る雨の夕方。家の外から大声が聞こえたのだった。
「ざまあみろ! 土方歳三がくたばりやがった」
後に続く罵倒の言葉。鬼の首を取ったような口調。凍っていく自分の心。
「弟は―、思い残すことなどなかったでしょうか」
自分でもほとんど無意識につぶやいた言葉。しかし鉄之助は苦しげに答えた。
「こちらへの使いを頼まれたとき、私はお断りしたんです。最後までおそばでお仕えしたかった…。可愛がってくださった副長の盾になって死のう、とずっと決めていました。宇都宮で足をお怪我なさった時も、私はお守りできなかった。だから…だから、
いつか今までの御恩をお返しできればと」
まだ歳三の齢半分ほどの鉄之助を、のぶは嘆息しながら見つめた。彼の決意は当然ながら弟にも伝わっただろう。だからこそ、この青年に任せたのだ。こんなにひたむきな若さを殺したくはなかっただろうから。
「何度も断る私に、副長はすごく怒ったようでした。『お前は新選組の決まりを忘れたのか。士道不覚悟は切腹。上からの命令に背くのであれば許さん』と。どうせおそばにいられなくなるのなら、少しでもお役にたちたくて。私は使いをお受けしました。そうしたら―」
ぱたぱたと床に落ちる涙の音。伏せた顔の表情は見えないが、たまらずのぶは鉄之助の背中をさすった。その手に押されるように、言葉が継がれる。
「『そうか。それならもう、俺に心残りはない』―と。とても穏やかな和らいだお顔をなさって…。本当に満足なさっているようでした。私にはそう見えました」
「ああ、そうでしょう…。本当に…よかった」
見れば彦五郎も目を真っ赤に泣き腫らしている。傍でともに涙を流してくれる夫を、たまらなく愛しく感じた。
そして、初めてのぶは気づいた。包みの中は髪だけではなかったことに。小さな絵のようなものを手に取って、思わず声を上げた。
「まぁ!」
驚いた彦五郎も横から覗き込む。
「副長のお写真です。箱舘に技師の方がいらっしゃって。他の幹部の方も作っておいでのようでした」
そういえば先年、勇のを見せてもらったのだった。でも、いざ自分の弟のものとなると…。
「ふふっ」
なんだか笑ってしまった。少し伏せられた瞳、ほんのわずか微笑んだような口元。若い頃、女に追われてばかりで困ると、まんざらでもない様子で言っていたのを思い出した。
「お帰り、歳三」
やっとここに帰ってきた。短くも長い激しい旅から、いま自分の手の中へと。この写真を前にみっともない姿は見せられない。もうこの薄暗がりから出なくては。今度は私が守る番だ。弟が残した命を。
自分は嫁いできた身だ。去年、勝村の戦で新選組が敗れたときも一家離散して新政府の奴らから逃げようとした。しかし長男が捕らえられた。すぐに釈放され佐藤の家も赦されたが、あの時の言い知れぬ絶望は深い傷として残っている。もし、市村を匿えば今度こそ無事ではすむまい。この家にも更なる迷惑がかかる。…いっそ、この家を出るか。
のぶが気持ちを整理しつつ、言葉をまとめていた時だった。
「彦五郎様、おのぶさま。…私はこれでお暇しようと思います。追われる身の私を招き入れていただき、本当にありがとうございました。ようやく役目を果たせました」
はかないような笑顔を浮かべて、ふわりと立ち上がろうとする市村。虚を突かれたのぶが押しとめようとする前に、口を開いたのは彦五郎だった。
「市村さん、少し待ってくれないか。聞いてもらいたいことがある」
これまでとは違う彦五郎の剣幕に、おずおずと腰を下ろす市村。それを見届けると、なりゆきに目を見開いているのぶに向けて優しくうなずく。〈心配するな〉と言うように。
「あんたは私たちに迷惑をかけまいと、急ぎ出て行こうとしているんだろう。うん。分かるんだ。伝わってくるからね、心持ちみたいなものがさ」
微動だにせず畏まっている市村を温かい目で見つめると、彦五郎はふと表情を改めた。
「さて、ここからが本番だ。あんたがこの先どうするのか、とても心配だ。ひょっとして、生きていることを恥と考えているのかい? どうもそう見える。いや、そう思っているんだろう」
すると彦五郎は市村ににじり寄り、肩をつかんで、伏せていた身を力ずくで起こし上げた。唖然とする市村に震える声で訴える。
「違うんだ。それは違うんだ。あんたは生きててくれた。歳さんをここに連れて帰ってくれただけじゃない。あんたが生きててくれたこと自体に意味があるんだ」
激しい思いが走って、体を揺さぶられる。しばし抵抗もせず、苦しげに眉根を寄せていた市村だったが、やがて静かに彦五郎の手を外すと弱弱しい笑みを浮かべて呟くように言った。
「そのようなお言葉をいただき、なんとお礼を申し上げたらよいのか。心から感謝いたします。まずはここからお暇し、自分の今後を…」
「いや、話は終わっていない」
市村の目を強く見据えながら、彦五郎は首を横に振る。そうしていないと彼が消えてしまう。そう考えているかのように。
「なあ、市村さん。あんたには分かるだろうか。これから歳さんや近藤さん、そして新選組に何が起こるか」
え、と不安げな表情で彦五郎の意を図りかねている市村。のぶは二人の応酬を固唾を飲んで見守る。今は、夫を信じるしかない。
「これは…のぶや歳さんの兄上の、為次郎さんの受け売りなんだが。これまで私たちが知り得た歴史というのはね、勝った側の、勝者の作った物なんだそうだ。源平の合戦では平家が負けた。そうすると源氏が歴史を作る側だ。自分たちに都合が悪いことはもみ消しちまう。そして後世の我々には、源氏にとってうまい話ばかり伝えられる。今となっては分からない、埋もれていった事実があるわけだ。そんなやり方はもちろん源平の時だけじゃない。神代の頃からそういうもんだ…と。市村さん、私の言いたいことが分かるかい?」
息を詰めて聞いている市村を見返し、彦五郎は続ける。
「新政府軍の奴らは勝った。歳さん達は敗れた。ということは、これからの歴史はあいつらが、薩長の奴らが中心になって作っていくんだ。自分たちのいいように、まずいところは捻じ曲げながら…。だから、まず間違いなく新選組は不当に扱われるだろう。志を持って京を守っていたことなんて隠されて、史上の悪人とされるかもしれない」
「そんな…。そんなことが…」
市村の語尾は聞き取れない。顔色は蒼白で今にもくず折れそうに見える。年端もいかぬ若者に、残酷な未来を告げる方こそ苦しいに違いなく、彦五郎は長い長い息をつく。
そうすることで心の嵐を抑えようとしているのか。
「ああ、もちろん許せんことだ。だが、奴らはやるだろうな。悔しいが私たちには止められない。だが…できる事はある。それにはあんたの力が必要なんだ」
はっ、と顔を上げる市村に、彦五郎は力強くうなずく。
「あんたが、私たちに伝えてくれ。本当の新選組を、歳さんたちの歩んだ道を。あんたはあの中にいた。同じ風の中を駆けた。そのあんたにしかできないことだ。たくさん教えてくれ。覚えていることをありったけ。そうしてくれたら、私たちは…次の代へと継いで行くから。この家だけじゃない。この辺の連中は公方様びいきだ。なんたって千人同心の誇りがある。必ず…みんなで守っていくから。あんたの新選組を」
しっかと顔を上げて彦五郎を見つめていた視線をゆるゆると下げ、市村はぺたりと尻をつく。やがて瞼を閉じ、内なる心の葛藤と戦っているようだった。
それにしても…とのぶは思う。為次郎兄か。盲目の身で土方家一の風流人。物事を斜に見るところがあったが、歳三はよく懐いていた。兄には分かっていたのだろうか。
血を分けた弟が、その負け戦に挑もうとしていることが。だから、江戸を動かなかった彦五郎に伝えていたのだろうか。
ふと市村を見る。そののぶのまなざしを待っていたかのように、ゆっくりと瞳が開かれた。
「私のようなものの言葉でよろしければ。少しお時間をいただくことになりましょうが、すべてお話しいたします」
彦五郎の表情に光が射す。おそらくのぶの顔も同じ光に照らされているだろう。
「では、ではその間、ここに留まってくれるね」
困ったように微笑んだ市村は、ようやく年相応のはにかみを見せながら指をついた。
「はい、お世話とご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いします」
市村鉄之助はそれから二年ほど佐藤家に滞在ののち、故郷の大垣へと戻る。そしてその二年後に病没。一説には、西南戦争に参戦し戦死を遂げたとも伝えられる。佐藤のぶは明治十年に死去。佐藤彦五郎はのちの生涯を新選組の復権に捧げ、明治三十五年に没する。
了