6.ずるくて脆い恋心
「それじゃ、」
またね、と言いかけて、口を閉ざした。
私たちの未来に、次はない。
車が止まった。身動きしない隣の上原。
お互いの息づかいだけが耳について、途端にどぎまぎしてしまう。
どれくらい経ったのだろう、上原がこちらを向くのが分かって、私も隣を見た。
「なぁ、岩崎」
「あっ、あの、アメリカでも頑張ってね。えっと、……テレビで見かけたら、応援するから」
何を言っているのか自分でも分からずに、でも上原の口から零れる言葉を聞く勇気はなくて、とにかく話し続ける。
顔じゃなく、シートベルトの縫い目をじっと見つめたままで。
すぅっと上原が息を吸い込む音が聞こえた。
それに思わず反応して、息を詰める。
「さっきのくらい答えろよ」
「え?」
「何であの時、外部に行ったんだ?」
俺に何も言わずに。
真っ直ぐ胸を貫くその言葉に、思わずほろりと、心の欠片が零れ出す。
「……見に行ったの、3年の、夏の大会の決勝」
*
みんなから期待されて、どの大会に出てもちゃんと結果を出していく上原と。
バスケのルールさえ体育の授業レベルで、とりえなんて真面目、ていうくらいの私。
上原はバスケをしててもしてなくても、どこでだって注目されてたから。
私は、付き合い始めの頃からずっと、自分には上原のことは何も分からないままなんじゃないかって怖かった。
それがやっぱりだんだん怖くなって、その手を離したけれど。
それでもそれは弱さだって自分が一番分かってたし、どうしても優しい思い出ばかりが思い出されて忘れられなかった。
だったら、いっそ想いごと捨ててしまえばいいのかって。
そのために、別れたにも関わらず私は上原の試合を見に行った。
「上原は……その試合中、走って、声出して、ボール投げてた。当たり前だけど」
「……」
「でも、その上原にとって当たり前の世界も、私にはすごく遠かった。上原がいたあの場所は」
「……」
「それで、ああ、この人は、こうやって羽ばたける人なんだって、その時再認識したの」
違うんだ、って。
だからあの時、きっと勝っていても、私には上原に声を掛けることが出来なかったと思う。
あの頃の私は全然ダメだったんだ。全然。
ハンドルを握っていた手がぱたっとスカートの上に落ちる。
「……ごめんなさい」
自信がなかった。ただそれだけ。
でもそれは、中学生の私にとっては、あまりにも大きなことだった。
「振り回してごめんなさい」
これだけは言いたかった。
自分のわがままのせいで上原に別れを告げた私。
そして逃げるように姿を消した私。
私はずるい。
けれど、それでも私もあの頃苦しくて、一方的に手を離してしまったことを悪いと思っていたことだけは知っていてほしかった。
私はずるい。
けれど、それでも---。
その言葉を口にした途端、10年間ずっとずっとぽっかり空いたままだった心の穴に染み込んでいく何か。
じんわりと胸の奥まで入り込んでゆく。
「でも今なら、」
何も言えなくて、うつむいたままふるふると頭を振る。
始めちゃいけないの。
やっぱり、あの時逃げちゃいけなかった。
上原の瞳が傷付く色を始めて知る。
こうしてちゃんと上原に伝えていれば、上原だって私のことなんてずっと早く忘れられたに違いないから。
私は今でも変わることが出来なくて、学祭でその姿を目の当たりにしただけで上原が立つその舞台に怯えてしまう。
だから……ごめんなさい。
カチャリ、とシートベルトが外される音がした。
そして最後だからと自分に言い聞かせながら、もう一度上原の顔を見た。
私を映した瞳がおずおずと近付いて、
触れ合って、
---遠ざかっていく。
驚いて、でも自然に目を閉じてそれを受け入れていた。
目を開けたら、そこには上原の姿はなくて、閉ざされた空間があるだけ。
しん、と襲って来る静けさ。
込み上げてくる涙は不条理だって分かってる。でも、必死に堪えても堪えてもどんどん視界がふやけていく。
頬に触れた10年ぶりの指先は、記憶に残っていた以上に冷たくて、優しかった。
そして、2人の道は今確かに交差していった。
*
「萌ちゃん、今日ご飯でもどう?」
明らかにあの日を境に不自然な私に、知世さんが気を遣って声を掛けてくれる。
分かっている。
いつまでこうしていたって、もう私たちは巡り逢いはしない。
けれど、一日が終わって布団に潜り込むと毎日同じ夢を見る。あの時、しがみついてでも離れないでいたら、と。
私は上原を傷つけても、あんなにも自分の心を守りたかったはずなのに。
それなのに、どうしてこの涙は流れ続けるんだろう。
なぜこの胸は痛み続けるの。
私は知世さんに悪いと思いながら、笑顔を作って「ごめんなさい」と謝った。