八話
十月十二日の夜。
町田市のとあるラブホテル内で発見された死体の身元確認は速やかだった。ホテル従業員が清掃のために入室し、死体を発見した直後、すぐに警察に届けたのだという。
そして今朝、テレビのニュース番組はその被害者を、『丘本静香』と報道した。
年齢は二十二歳。世田谷区の住居に一人暮らし。生活支援を受けながら、ときおり各地の中学校で社会人講師の活動をしている。その他には議事録のためのテープ起こしや、ホームページ掲載用文章の作成など、様々な事務アルバイトで生計を立てていた。
ホテルの監視カメラには、静香さんを連れて通路を歩く、犯人とおぼしき人物が写っていた。画質が悪く、顔はよく分からないが、背格好だけならかろうじて判別できる。
身長は170cm前後。灰色のブルゾンに紺のスラックスを着用している。フードを被っていたため髪型は分からない。犯人はおそらく男性だと考えられていた。
目が見えないのをいいことに、犯人は言葉巧みに被害者を騙し、暴行目的でホテルに連れ込んだのではないか、と警察は述べた。
映画俳優出身のコメンテーターは言う。
「身体機能に難のある、とくにこうした視覚障害者を狙った殺傷事件は今に始まったことじゃありませんが、われわれ健眼者にとっては非常に嘆かわしいことです。最近は障害者雇用や支援ばかりに目が向けられていますが、私が思うのは、こういった暴力事件の対策として弱者を守るために常日頃からもっと防犯意識を浸透させなければなりません。しかし、それにしてもこの犯人は――」
冗長かつまとまりの無いコメントだったが、彼が最終的に言いたいのはつまり「障害者の弱みにつけ込むなんて、この犯人はなんと卑劣で非人道的なのだろう」ということだった。
しばらく、吉村くんとの交流はぷっつりと途絶えた。会話どころか、挨拶すら交わした記憶もない。もともと吉村くんからの呼び出しさえなければ、袖も振り合わない縁遠い関係だった。たまに廊下ですれ違うくらいで、目も合わなかったと思う。
吉村くんは、静香さんの突然死をどう受け止めているだろう。いくら考えてみても無駄だった。顔も合わせない今、あたしが真の意味で彼の心を知ることはなかった。
「咲子、お前今日はいつにも増して暗いな」
そして兄貴はテレビへと視線を戻した。
「そんなに暴漢魔が恐いなら、しばらく送り迎えしてやろうか」
幼児に向けるような腹の立つ言い方だったので、あたしは無視した。
カップを持ち上げる。コーヒーの跡が、食卓に丸い曲線として描かれた。食卓には白いクロスが敷かれていたので、カップの底跡は余計くっきりと残された。あたしにはそれが、人間の目玉のように見えた。
コーヒーを飲み干す。もとの場所にカップを戻して、目玉を覆い隠した。
「障害者って、弱者なのかな」
あたしの問いかけに、兄貴は無言で煙草に火を点けた。じっくり考え込むとき、兄貴はいつも煙草を吸う。すーっと音を立て、開け放った窓へと煙を吐いた。
「どういう意味での弱者か知らんけど、身体的な意味でなら、間違いなく弱者だろ」
「たとえば目が見えないとして、それ以外の能力が人より発達していても?」
「それでも大した能力になりゃしねえだろ。立場が覆るわけでもない。咲子がいくら柔道習ってたからって、女のお前が俺に腕相撲で勝てんのか?」
あたしは食器を重ねて床に降ろした。パジャマの袖を二の腕まで捲りあげ、食卓にどんと肘をつく。兄貴は煙草を灰皿に押しつけて、あたしの挑戦に応じた。
開始の合図もなく、腕相撲は始まる。兄貴は、兄貴のくせに強かった。
開始直後、こりゃ負けるなと判断したあたしは、大口を開け、思いっきり兄貴の親指に噛みついてやった。おでこ引っ叩かれた。
「やっぱアホだろお前」
「柔道だったら勝てたわ」
「柔道だったらな」
兄貴は親指を寝間着に擦りつけながら、リビングを出ていった。
件の事件が報道されて数日と経たないうちに、容疑者の実名が世間に出回った。そんな日のことだった。
文芸部の部室でいそいそと作業をしていると、吉村くんから電話がかかってきた。ノートに猫の落書きをしていた真由が、弾かれるように顔を上げる。長机の上、突如として鳴動するあたしの携帯電話に、堤くんは露骨に顔をしかめる。いたたまれなくなって、あたしは携帯を手に部室を飛び出した。
『部活が終わったら、真由ちゃんを連れて僕のマンションに来なよ』
吉村くんの第一声がそれだった。久しぶりに連絡よこしてきたと思ったらこれだ。
「部活だって分かってんなら、電話しないでくれるかな」
サイレントモードにしなかったあたしも悪いけど。
「で、なんであたしら、吉村くんのとこ行かなきゃなんないの。あたしさ、今は吉村くんのお遊びにつき合えるほど余裕ないのよね。おもに心の方が」
『あのね咲子さん、どうやらそうも言ってらんないみたいだよ。これはお遊びでも冗談でもない』
「そういうのいいから、用件あるならさっさと言え」
『真由ちゃんの猫が帰ってきた』
そこで、あたしの注意は部室の扉から、完全に電話口へと移行された。
「ねえ、それって……」
『今日の学校帰りに彼と出会った。出会わされたと言った方がいいかも。静香はもういない、猫は持ち主に返してあげてくれってね。彼、岡本清に、いや』
吉村くんは一拍置いて言った。
『彼女、岡本静に』
事件から数日と経たず、警察によって容疑者の第一候補があげられる。
容疑者の岡本静は、普段は『岡本清』という偽名を使い、男性として生活していた。ある日を境に、勤務先の喫茶店に出勤していないことが確認され、自宅のポストにも数日分の新聞が放置されていた。どこか別の場所に身を潜めているのかもしれない。
さらに事件当時の目撃者の証言と、静香さんの交友関係から判断して、犯人は岡本静で間違いないだろうと推測されていた。
この事件に対する世間の関心は、このことで一気に高まっていった。
丘本静香と岡本静。オカモトシズカとオカモトシズカ。
こんな偶然があるだろうか。さらに話題を呼ぶのは、被害者が視覚障害者であり、一方の容疑者は性同一性障害者であるという、その希に見る特殊性だった。
朝のニュースや夕方のワイドショーでは、彼女らについて様々な推論や検証が為された。すると必然、番組の視聴者たちは事件の全貌にさらに興味を持つ。視聴者の興味はマスコミに伝わり、それを受けたマスコミの熱い要望に、警察もやがて折れた。
愚かなことだと思う。もしこの事件が、常人には理解しがたい猟奇と異常性を秘めたものであったとして、それでも彼らは知りたいと思うのだろうか。知りたいとして、もし知ったとして、彼らに、オカモトシズカを理解できるだろうか。
部活を抜け出し、あたしは真由を連れて電車に乗った。吉村くんの住むマンションはここから二駅となりである。
真由を連れてくるのは大変な苦労を強いられた。まず、彼女はタコヤキの生存をもはや諦めていたのだ。
岡本さんの顔写真が全国ネットで配信された当日の朝、真由が青い顔をして教室に現れたことを思い出す。
「あの人はやっぱり極悪人だったんだ。タコヤキはきっと、もう殺されちゃったにちがいない……」
あたしに慰める権利はなかった。あたしはつい先日、この手で静香さんにタコヤキを返してしまったのだから。
そして今日、吉村くんのもとにタコヤキが戻ってきた。そのことを告げてみたが、真由はかたくなに、猫の落書きから目を離そうとしなかった。
「咲子さん、嘘はいけないよ。そういう嘘は優しさじゃない。タコヤキはもう死んじゃったんだ。だってこの前、おじいちゃんと一緒にタコヤキのお墓つくってあげたもん」
なにが『だって』なんだ。しゃらくせえ。
「堤くん。あたしら、今日も部活さぼるわ」
あたしは真由の腕をつかんで、無理矢理立ち上がらせた。真由は色鉛筆を放り投げ、「いやー!」と半狂乱に暴れだした。
堤くんは知らんぷりだった。真由の悲鳴に苛ついていた様子だったが、俺は何も聞こえない、という風に原稿用紙に向かい続けていた。
「ねえ、ごめんってば」
暴れる真由を抑えつけながら言う。堤くんはため息を吐き、高そうな万年筆(こういうところが文豪気取りなのだ)を叩くように長机に置いた。
「その喧しいの、早くどっか連れていけ!」
堤くんの怒りの叫びに、真由はようやく大人しくなる。あまりの迫力に縮み上がっていた。堤くんは荒い呼吸のまま、乱暴に椅子に腰掛けた。もしかして、うちら側での一番の被害者は、彼だったのだろうか。
そうして今に至る。
電車を降りると、脱力して動こうとしない真由を強引に引っ張って歩いた。
十分も歩くと、吉村くんのマンションに到着する。吉村くんは玄関の前で待っていた。近づいてみて分かったのだが、彼は胸にタコヤキを抱いていた。
それを認めた瞬間、真由の顔色が変わる。目に見えて混乱していた。
「良かったね、真由ちゃん」
真由は吉村くんからタコヤキを受け取った。しかし彼女はなにを勘違いしたのか、タコヤキを守るように抱き締め、敵意をはらんだ睨みを吉村くんに飛ばした。吉村くんは首を傾げたが、やがてそれがどういう睨みなのか察したように一歩後ずさった。
真由は距離を詰める。わけの分からない叫び声をあげたと思うと、次の瞬間、鋭いタックルを吉村くんにかましていた。