七話
図書館前広場のベンチに座り、タコヤキを撫で回しながら静香さんを待つ。およそ二十分ほどして、静香さんは職員さんに連れられて戻ってきた。彼女は紙袋を手にしている。いくらか欲しい本を借りられたのだろう。
あたしの隣に静香さんを座らせると、職員さんは笑顔で頭を下げ、館内へと帰っていった。
静香さんは上機嫌そうだった。点字本の入った紙袋をお腹に抱きかかえ、顔を小さくうつむかせている。口元には満足そうな笑みがあった。
「笑顔の素敵な方でした」
さっきの職員のことだろう。
「たしかに素敵な笑顔でした。そういうの、やっぱり分かるんですね。不思議だなぁ」
「分かりますよ。楽しかったり、嬉しかったり、そういう好意的な感情の発露って、目で見なくたって伝わってくるものなんです」
「何なんですかね、それ。第六感ってやつ?」
「それもあります」
そして静香さんは笑みを向けてくる。やはり、あたしの声のする方角を察しているのだろう。おおよその検討をつけて微笑みかけてくるのだ。
「でも、もっと具体的な感情の音を耳にすることができます」
「具体的な、感情の音」
「そう。楽しかったり嬉しかったりすると、喉の奥や唇の端に、泡ぶくが立つんです。泡ぶくと言っても、『ぽこぽこ』なんて可愛らしい音じゃなくて、『くちゃくちゃ』、みたいな音です。体内の肉と肉とが、面白おかしく互いを叩き合うんです。人が前向きになる瞬間って、そういうものなんです」
余計抽象的になった気がするが、全く分からないこともない。人間はもとより楽しかったり嬉しかったりすると、大抵は騒がしくなるものだ。泡ぶくというのはよく分からない表現だがともかく、彼女たちにとっても、それらの感情は声や音として聞き取りやすいのだろう。
「じゃあ、ネガティブな音は聞き取りにくい?」
静香さんは深くうなずく。そうなのだ、と強く肯定するように。
「そのとおり。私たちは、少なくとも私は、悲しみや落胆を読みとるのがすごく苦手です。というか、沈黙が苦手なんです。声や音のない世界は、問答無用で盲目者を置き去りにします。悲しみや落胆についていけなければ、その分、私たちの対処は遅れます。やがて、取り返しのつかないことになってしまう」
「それは、どういうことですかね」
「悲しみ、落ち込んでいる人をそのまま放っておけば、どうなります?」
なんとなく分かってきた気がする。静香さんは続けて言う。
「いずれ耐えられなくなり、泣き出してしまうかもしれません。私が無関心であると勘違いし、その人は絶望し、悲しみが決壊してしまう。私が気づいてあげられないばっかりに」
「でもそれって、目の不自由な人たちが負う責任にはならないと思いますけど」
あたしはぽつりと反論してみた。返ってきたのは、沈黙だった。静香さんは何故か、そこで口を閉ざしてしまった。じっと、前方へと顔を向けている。あたしもつられてそちらを見る。
そこには、さきほど自転車であたしたちを追い越していった女子高生がいた。頭頂で結われた、果物のヘタのような奇抜な髪型が風に揺れていた。図書館での用事を終えたのだろう。これから帰るところらしい。自転車にまたがり、ペダルに足をかけている。あたしたちのそばで動きを止め、こちらに視線を送っていた。
彼女の顔に表情はなかった。無表情が自分の自然体なのだとでもいうように。しかし、そこに感情が無いわけではない。あたしはそう捉えた。目を見ればわかる。何かあたしに言葉をかけようと、迷っているように見えた。
表情がなければ、それは感情のないことと同義なのか。そんな疑問が頭をつく。たとえば、顔の筋肉や顔面神経が機能しなくなった人間がいるとする。当然彼らに自由な表情表現を行うことはできない。だが、彼らの持つ障害はそれだけで、なにも感情までが搾取されたわけではないんじゃないか。表情がなくとも、胸のうちに熱い感情を秘めているかもしれない。
目の前にいるあの女子高生に表情がないとしても、必ずしも彼女が冷めた人間だとは限らない。沈黙の中、あたしはむしろ彼女に好感さえ抱いていた。
「どうしたの?」と、声をかけてみる。
その女子高生は唇を開いた。小ぶりな口を、ぽかん、と開けた。やはり、あたしに何か伝えたいようだ。だけどなかなか言葉にはならない。しばらくして、「ねこ」と彼女は短く言う。
「猫?」
「ねこ、よだれ垂らしてます」
それを最後に、彼女はペダルに足をかけ、逃げるように図書館前広場を去っていった。
見下ろすと、あたしの制服のスカートは、臭い液体でぐしょぐしょになっていた。言うまでないことだが、タコヤキの涎だった。猫って、涎垂らすんだな。
長考した結果、あたしはタコヤキを許してやることにした。熟睡しているようだったので、ハンカチをそっと頭のした敷き、枕にしてあげた。
静香さんが声を発したのは、そんなときだった。
「無償の善意というのは、ああいう風に、時として表情を伴いません。あの子はきっと、本来の意味での善意を持っているのでしょう。表情なんて、詰まるところお飾りなんです」
タコヤキの頭を撫でながらあたしは押し黙る。
「人は欲深い生き物ですから、普通は、善行のあとには必ず見返りを求めます。好意が欲しいがために笑みを向ける。そんな欲深い相手と、それでも友好関係を結ばなければならないとします。とすれば好意を向けられた場合、こちらも同じものを返す必要があります。微笑みを受ければ、こちらも微笑みを返さえなければいけない。たとえ目が見えなくても、微笑まれたという実感が得られなくても」
あたしは首を振った。
「やっぱり、不平等だ」
「それでいいんですよ、日野さん。いくら私が強がってみせたって、持たざる者はそれだけで代償を払うものです。みんな、当たり前のことから目を逸らし過ぎます。障害者は、持たざる者なんです」
笑顔とはそういうものだっただろうか。損得勘定の笑みに、いったい何の意味があるんだろう。
「仕方がないんです。私の笑みはただの仮面でしかない。はっきり言って、人と話して心の底から楽しいと思えたことなんて、これまでで数えるほどしかありません。本当の私は、とてもいやらしく、卑屈で、すごく惨めな人間なんです」
唐突に、静香さんはセーターの袖をまくった。手首には無数のミミズ腫れが走っている。うっすらと赤みを帯び、皮膚の下に黒く凝固した血の塊を見る。あたしの印象に間違いがなければ、それは自傷の跡だった。
「私はあなたのような健常者を羨んでいます。妬んでいます。人の顔をじろじろと無遠慮に観察して、無遠慮な好意を投げかける。どれだけ私が苦労して、どれだけ苦しんで、この笑みを演じているのか知りもしない。そんなあなた方の配慮の無さを、身勝手ながら、恨んでさえいます」
さらによく見せようと、手首をこちらに差し出してくる。耐えられなくなって、あたしは彼女の手首をつかみ、押し戻した。
「もう、やめましょう。なんであたしなんかに、こんな話を……」
泣きたくなるのと同時に、おかしかった。無闇に静香さんの中に踏み込もうとした自分の口から、そんな無責任な台詞が出るなんて。
「聞いてください、日野さん。私が今から告げることを、あなただけに聞いてほしいんです。今日お話してみて私は、日野さんなら安心して話せると確信しました。あなたなら、いつかきっと分かってくれるはずです」
あたしは押し戻す手を止め、静香さんの顔を見返した。無感情とは、こういう表情のことを言うのだろうと思った。
「私は、もうすぐ殺されます」
そよぐように吹いていた風が止み、無音があたりを包んだ。それは彼女の言葉に呼応するかのような変化だった。無音はどこまでも空気を凍らせた。
「誰に?」
「彼に。彼女にです」
自分の心臓の音がよく聞こえる。彼に。彼女に。
「こんな私がこれまで生きてこれたのも、彼/彼女のおかげでした。彼/彼女は、具体的な部分で私と似通っています。とても具体的な部分で共通し、繋がっていた。そして、私たちはもっと深く繋がることを望みました。その方法を、ようやく思いついた」
あたしは何も言えなかった。
「考えなくてもいずれ分かります。彼/彼女は、さらに具体的な方法で私と繋がるつもりです。私は甘んじてそれを受けます。ただ、このことを誰かに知っておいてほしかった。できれば事の後、あなたにも理解してほしい。世界にたった一人でもいいから、彼/彼女を理解し、許してあげられる存在がほしかった。それだけなんです」
そして、静香さんはセーターの袖を戻した。すっぽりと隠れていく手首を見送りながら、あたしは頭を巡らせる。彼/彼女。具体的な繋がり。具体的な方法。どれ一つ取っても意味が汲み取れない。
それらは、考えなくてもいずれ分かるという。だが、それではいけないような気がした。今考えておかなければならないと思った。手遅れになる前に答えに辿り着かなければいけない。でなければたぶん、あたしは後悔する。
「帰りましょう」
静香さんは立ち上がり、両手を開いた。肘の関節部に紙袋がぶらさがる。彼女の仕草は、なにかを抱き抱えようとするようだった。あたしはひどく迷い、やがて、タコヤキを彼女に手渡した。
翌日の朝。
予告通り、静香さんはとあるラブホテル内の一室で、遺体となって発見される。