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六話

 ばちん、という気分を削がれるような音がして、髪留めのゴムが切れてしまった。

 早朝、HR直前の女子トイレ。洗面台の前、あたしは物凄く気だるい思いで、だらしなく垂れていく髪の毛先を眺めていた。人差し指と親指で、切れた茶色のゴムをぶら下げる。あーあ、どうすんのよこれ。

 普段から、こうして地味なゴムで髪を一束ねにし、サイドテール風に胸の前に流していた。なんといっても楽だし、目立たないからだ。ツインテールなんていかにもアホ丸出しって感じだし、そもそも目立たないという観点から却下される。かといっておさげは柄じゃない。似たような理由でポニーも除外。高校デビューとか、もう知らん。

 となるとサイドしかないわけだが、これがどうしたものか。替えのゴムがない。

 すると、あたしの手元に水色の派手なシュシュが差し出された。顔を上げると、真由が立っていた。

「これ使う? 咲子さん」

「あんた、いつの間に復活したんだね」

 シュシュを受け取りながら言うと、真由は屈託なく笑って両手を腰に当てた。

「マユ、もう落ち込むの止めた。これからは咲子さんみたいに前向きにタコヤキのこと捜す。捜査だよ、捜査」

「捜査って、また大袈裟な」

「だって、あのときの咲子さん、探偵とか刑事みたいだったよ。公園のときのあれ。サッてなって、シュバッ、みたいな」

 どうでもいいわ、と思いながら、しかし今渡されたシュシュは問題だった。目立たないを追求するあたしにとって、これはどうだろう。

「マユ、咲子さんの助手になる」

「また訳わかんないこと言う。ねえ、もっと地味なやつない?」

「それしかないよ。ねえいいでしょ? だって咲子さん頭いいし、絶対そのうちタコヤキ見つけてくれるよ。マユ、そのお手伝いしたい。それで、犯人見つけたらぶっとばしてやるんだ」

 と、真由は虚空に敵を作り、鈍いフットワークとのろすぎるパンチを披露した。まったく頼りにならなさそう。それは構わないが、真由が元気を取り戻してくれたようで良かった。

 あたしは思う。岡本さんか静香さんが犯人と仮定すれば、ミニモアイ広場で発見した動物の惨殺体は、たぶんタコヤキじゃない。縁日の日、静香さんの「彼も私もたこ焼きが大好きなんです」という発言と、バンダナ店員と吉村くんの「視覚障害の女性の膝にたこ焼きみたいな猫が乗っていた」という証言を踏まえてあたしは想像している。だが、これはあくまで想像の域を出ない。

「タコヤキ、そろそろ戻ってくると思うよ」

「ほんと?」

 あたしはうなずく。割と確信的に。

「そういう気がするってだけ」

 もう仕方ないと割り切り、髪をシュシュに通した。やっぱり派手だった。鏡を見ると、後ろで真由が感極まって目をうるうるさせ出したので、いよいよ面倒くさくなってきやがったなと思ったあたしは、「おら、HR始まるよ」と、一目散に女子トイレをあとにした。



 今日も部活をサボった。堤くんの恨み言を聞くのはもう散々だし、真由がついてくるとまたやりにくいので、今回は無断で堂々とサボる。

 小走りで教室を去っていくが、運良く真由は気づかなかった。あたしのこと手伝いたいとか言ってたから、ちょっと申し訳ないと思う。

 裏門を抜ける。そこから数分歩くと、そこには目印のコンビニ駐車場がある。岡本さんの車はそこで待っていた。

「早かったね。もしかして急がせた?」

 助手席のドアを開くと、岡本さんがそう言った。

「おもっきし部活ばっくれたんですけどね。でも気にしないでください」

「うん。一日くらいなら罰は当たらない」

 たしかに一日だけなら当たらなさそうだけど。フレッシュ過ぎるその笑顔をまともに見ることもできず、あたしは無愛想に助手席に座った。

「その髪留め、似合うね」

 また余計なお世辞を。



 岡本さんはあたしを『カワシマ・ギャラリー』へと案内すると、業務員室の扉を開けてどこかへ行ってしまった。通常通りシフトが入っているのだという。

 がらん、と古くさい鐘の音を立てながら店内に入る。数日前と違い、客がそこそこ入っていることに気づく。窓際にすらりと伸びるカウンターに等間隔で並び、それぞれがコーヒーや読書を嗜んでいる。その多くは老人や主婦、背広の似合う壮年の男性といった感じだった。カウンターを横切り、奥へと進む。壁側の棚に陳列された本の背文字を流し見ながら。

 最奥のソファには女性が一人、すでに座って待っていた。この前あたしと吉村くんが座った場所だった。

 彼女のテーブルには、ホットココアが湯気を立てながら整然と置かれている。口をつけた様子は見受けられない。膝の上には、白と茶色の毛皮の塊が丸まった状態で乗っていた。彼女は姿勢をただし、柔らかそうな毛皮の上に両手を添えている。ソファの端には、縮められた白杖が立てかけられている。

 あたしは視力に自信のある方じゃないが、その毛皮の塊はどう見ても猫だった。猫は機能性の悪いヘルメットでも被っているみたいな茶色い頭で、背中の一部も、同じような円型の茶毛に覆われている。それ以外は純白の毛並み。

 みんな口を揃えてあの猫のことを「たこ焼き」みたいだと言うが、あたしには今一つピンとこない。こじつけだ。下手くそなミステリーサークルにしか見えない。だが、あれが真由のタコヤキだということは間違いなさそう。記憶と照らし合わせて、彼女が静香さんだということもほぼ確定だった。

 ソファ席に近づく。静香さんは目を閉じたままだった。あたしの登場など気づきもしないように顔を前へと向けている。

 向かいのソファに腰を下ろす。

「んーにゃ」

 これはあたしじゃない。もちろん静香さんでもない。一番に挨拶をしたのはタコヤキだった。「よう日野咲子」みたいな、ふてぶてしい感じで。

「日野です。先日の縁日ではどうもお世話になりました」

 なんか営業マンみたいだなあたし。

「こちらこそ、あのときは助かりました」と、静香さんは軽く会釈をする。「日野さん、学生さんでしたよね。とても大人びています」

 あんたの落ち着きようには敵わないけどな、と思う。静香さんはホットココアを傾けた。テーブルの上にはミニバスケットが乗っていて、コーヒー牛乳飴が入っている。ひとつ手に取り、口に入れてみた。

 三分ほどで舐め尽くしてあたしは口を開く。

「実は今、学校でバリアフリーをテーマにレポートを作成しているんですけど、中々うまくいかなくて。そのおり偶然、吉村くんからとても親しみやすい女性だと紹介されまして、まぁそのつてで岡本さんと知り合ってですね。それで、あー、えっと……」

 なんか駄目だ。嘘ってのはどうしても文脈がばらついてしまう。あわてて継ぎ句を考え出したところで静香さんから助け船を受ける。

「大丈夫ですよ。お話は岡本さんから伺っています。私でよければ、何でも聞いてください」

 あたしはかなり恐縮しながら、「じゃあ失礼して」と鞄からメモ帳とペンを取り出した。これはあたしが悪いんだけど、こうまで品行方正な人を前にすれば緊張せずにはいられなかった。

 事前に用意しておいた彼女の受ける福祉に関した質問に、彼女は表情を崩さず、質問のネタが尽きるまで淀みなく答えてくれた。

 表情を崩さず、といっても常に笑みを保っていたわけではない。あたしの真摯を装った質問に対し真剣な顔を作ることもあれば、ときおり挟む冗談に愛想笑う。質問の意図が読み取れなければ首を傾げ、少し困ったようにする。そして最も奇妙なのが、あたしが何気なくふっと笑いかけてみせると、彼女も同じように微笑み返してくれるのだ。不思議に思う。果たして目の見えない人間に、このような視覚を用いたコミュニケーションが取れるだろうか。

「質問は以上でしょうか」

「ええ、大体こんな感じで」

 メモ帳とペンを鞄に仕舞う。

「ここからはかなり個人的な質問、というか相談になってしまうんですけど」

「どうぞ」

 慎重に言葉を選び、なるべく間接的な方法を取ることにする。

「あたし、笑顔ってやつが苦手で、兄貴からもよく無愛想で可愛くないって言われるんです。そのせいか分からないけど、会話もとことん下手くそで、吉村くんからもしょっちゅうからかわれるし。だからか、いっつも人を避けてしまうんです。でも不思議なのが、静香さんを前にすると、こんなあたしでも楽でいられるっていうか。静香さんの自然で飾らない笑顔がそうさせるのか何なのか、うまく説明できないんですけど」

 しばらくの沈黙のあと、タコヤキが「なーご」と鳴く。静香さんはタコヤキの頭を撫でて大人しくさせる。

「私の表情が自然であるかどうかは、この通り私自身には判断しかねるところですけど、日野さんがそうおっしゃるのなら私は表情作りに成功しているということですね」

 すると、静香さんは窓の方へと顔を向けた。照りつける西日が睫毛に落ちる。彼女の眉根は動かない。眩しさを感じないためか、それとも、そういう演技か。

「外は晴れていますか?」

 肯定を意味してうなずく。それだけでは伝わらないだろうかと一応の危惧をし、「晴れてますよ。雲ひとつない」と付け加えた。

「このお話は、お散歩しながらにしませんか。私、外の空気が吸いたいです」

 あたしはソファを立って静香さんのそばに近寄った。静香さんは折りたたみ式の白杖をショルダーバッグに入れ、すっと立ち上がり、タコヤキを片手にあたしの二の腕を掴んだ。その一連の動作は非常にシステマティックで、まるでこちらの立ち姿勢まで把握しているかのようだった。ますます分からない。

「猫、持ちますよ」

「そうしていただけると助かります」

 あたしはタコヤキを預かった。静香さんはあたしの腕をつかむことに専念する。

 彼女を斜め後ろにたずさえ、カウンター際を慎重に進んでいく。レジカウンターでは、岡本さんが戸棚やアンティークを拭くことに没頭していた。

「岡本さん。私たち、これからお外に出てきます」

「うん。あまり遅くならないようにね。もし僕の終業時間を過ぎるようだったら、そのときは携帯に連絡して」

「はい、なるだけ早く」

 あたしたちはカフェを出た。



 うるさくない場所がいいだろうと思い、人見川周辺を目指すことにした。住宅街を抜け、五分も歩くと人見川沿いの道に入る。海まで数キロほど伸びる遊歩道だ。途中には市立図書館や総合病院があり、逆の山側の終点にはゴミ廃棄場がある。あたしたちは海側を目指すことにした。

 日が落ち始めている。河原で野球に興じる少年たちを横切ると、環境音は川のせせらぎのみとなる。近所の学校の制服を着た女子高生が自転車であたしたちを追い越していった。奇妙なハーフアップの髪型をしたその後ろ姿を眺めていると、静香さんが口を開いた。

「日野さんは、鏡で表情の練習をしたりしますか?」

 思い返してみるが、そういった経験は一度たりともない。

「ないっすね」

「それがいいです。表情を培うには他者を交えてが一番だと思います。他者を介しない表情に意味はありませんから。対人としての表情は、相手にアクセスして初めて生まれるものです」

「アクセス?」

「そう、アクセス。相手と打ち解けたい、理解したいがための好意です。アクセスの第一歩は相手の顔を見ることじゃないでしょうか。さっき、日野さんも私にアクセスしてくれましたよね」

「そうですね。すみません、なんかまじまじと見ちゃったみたいで」

 皮肉に聞こえてしまっただろうか。だけど、それでもいいと思う。目の見えない人間が、『見られている』と感じることができるだろうか。常識的に考えれば違和感を拭えない。

「皆さん、私の顔をよく観察されていきます。心理学的なことは分かりませんが、たぶんみんな、見つめ返されないことに安心するんじゃないでしょうか。だから遠慮なく、私の顔の動きを観察できる。私は、絵の中の人間と同じようなものですから」

「なんかそういうのって、平等じゃないですね」

「でも私は、自分が盲目で得をしていると思っていますよ。人と話すの、結構好きなんです。大抵の方はそうだと思います。見えない分、私たちは声や音を娯楽とするしかありません。気軽にアクセスしてもらえることは、言い換えれば相手と仲良くなるチャンスです。私さえ愛想よくしていれば、すぐにお友達」

 それでも盲目者にとっては不平等だ、とあたしは思う。一方的というか、彼らばかりが常に受け身になってしまう。アクセスされやすいかもしれないが、彼らからはアクセスできない。彼女は「それでも」と続けた。

「それでも不平等があるとしたら、私には、『微笑み返される』というのが、生涯あり得ないということでしょうか」

 清閑な遊歩道では、声はよく透き通って聞こえる。

「もう、慣れちゃいましたけど」

 男の子が川に向かって石を投げている。子供といっても中学生くらいだろうか。あたしは横目にその様を見ていた。静香さんの顔を無遠慮に見ることも、今だけは気が引けた。

「失礼なことを訊くかもしれませんけど、」一端の間を置いてあたしは続ける。「目が見えなくなったのって、少なくとも、生まれつきじゃないんですよね」

 ちらりと見ると、彼女は小さく首を傾げていた。

「どうして、そう思われるのかしら」

「なんとなくです。鏡で表情の練習、顔を見ることで他者にアクセスする、絵の中の人間、微笑み返される。こういう発想って、視覚情報を実体験として知っていなければ出てこないんじゃないかなって。単に知識として語っているなら別ですけど」

「日野さんって、なんだかドラマに出てくる刑事さんみたいですね」

 今朝真由にも言われたな、そんなこと。

 タコヤキを胸に抱き直す。「ふぎゅ」と鳴く。さらに追求しようとするが、あたしは唾を飲んで押し黙った。静香さんが、薄く、両の瞼を開いていたからだった。

 白く濁った両眼。顔はこちらを向いているのに、瞳はあたしではなく、見当外れな方を向いている。あたしはその瞳から目が離せない。水晶体は澱んだように透明に淡く白み、お世辞にもきれいとは言えない。もっと酷い言い方をすれば、どこか人間らしくない、冷たい色合いだと思った。

「十五歳で、左目に白内障を患いました。診断されてすぐ、対処する間もなく左目の視力は完全に失われ、それから一年と時を置かず、同じようなことが右目にも起こりました。手術を受けながら学校に通い続けましたが、格好わるい分厚い眼鏡を掛けなければいけませんでした。右目が完全に見えなくなったのは、高校二年生の中期です。一番ショックだったのは目が見えなくなることじゃなく、普通の学校に通えなくなったことでしたね」

「あの、」口ごもる。何も言えない。

「日野さんほど勘のはたらく方からは、たまに訊かれることです。もっと踏み込んで訊かれる方もいます。後天性か先天性か以前に、本当は今でも見えているんじゃないか、って」

 胸を直接突き刺すような言葉だった。

「確かに私は、見ることでしか得られない視覚の世界に、未だ取り憑かれたままなのかもしれませんね」

 寂しくそう言うと、彼女はふたたび瞼を閉じた。

 市立図書館が見えてくる。あたしは、とても信じられない思いでいっぱいだった。この笑みに裏付けされた根拠が理解しきれない。『見られている』ことをつぶさに感じ取り、こちらが笑えば、彼女は繊細に作られた微笑みを返すことができる。たとえ物音や気配で察していたとしても、どうしてここまで精巧なコミュニケーションが取れる?

「髪、触っていいですか?」

 あたしは困惑しながらも、どうぞ、と小さく言う。静香さんの手があたしの髪に触れる。サイドに束ねた毛先をなぞるように上に持って行くと、やがて、真由にもらった水色のシュシュに到達する。静香さんは慈しむようにシュシュを撫で、手触りをよく確かめた。

「髪、やっぱり結われていたんですね」

「長いんで」

「可愛い髪留めです。日野さんの雰囲気だと落ち着いた色の髪留めを使っていそうですけど、どうでしょう。当たりですか?」

 あたしは無言で首を振った。今度こそ純粋に不親切だと思い、声にしてみた。

「外れです」

 市立図書館を通り過ぎようとしたところで、ふいに静香さんが足を止めた。あごを軽くあげ、図書館へと顔を向けた。それこそ目で確認するかのように。

「図書館ですよね、ここ」

「ええ」

「ちょっと寄っていきませんか。点字で打たれた本でもあれば、借りていきたいです」

 ポケットから牛乳寒天飴を出して口に放り込み、彼女を連れて図書館へと入った。

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