五話
翌日の水曜日。
話によれば、吉村くんがそのブックカフェで静香さんと知り合ったのは同じく水曜だったという。
そして翌週、翌々週の水曜日にも彼女はそのお店に居たそうだ。静香さんに会いたいなら、今日この日に行くのが可能性として妥当であろう、と吉村くんは教えてくれた。
ちょうど部活も休止日のため、学校帰りに吉村くんと駅前で待ち合わせをした。なぜ一緒に駅まで向かわないのかというと、吉村くんはHRを受けてないんじゃないかってくらい学校出るのが早いのが一つと、あとは昨日の堤くんよろしく、吉村くんとヨリを戻したんだと周りから思われるのが嫌なだけだった。あたしは周囲から突出することを良しとしない。
京王井の頭線で渋谷まで、それから東京メトロの路線を右や左と乗り換え、やっと目的の駅に到着した。
神保町とまではいかないが、その駅周辺は古本露店や学術書店が建ち並び、それなりに情緒溢れる本屋街だった。地下駅の東口から歩いて数分、そこにある商業ビルのペナント二階を吉村くんは示した。
『ブックカフェ・カワシマ・ギャラリー』
階段入り口、グリーンの立て看板にそう明記されていた。
「駅からすぐとはいえ、目立たない場所にあるだろ。僕がこのカフェを見つけられたことが奇跡なら、静香さんと出会えたことは運命とでも呼ぼうか」
「なに言ってんの、きもちわるい」
吉村くんはいささか傷ついたような顔をしたが、あたしは知らん顔でビルの外階段へと向かう。きもちわるいは、ちょっと言い過ぎたかもしれないけど。
いや、そもそも悪いのは吉村くんなのだ。場所さえ教えてくれればあたし一人でここまで来たものを、吉村くんは自分も着いていくと利かなかった。あたしと静香さんが吉村くんを取り合うとでも思っているのだろうか。うぬぼれめ。
二階にあがり、カワシマ・ギャラリーの扉を開く。からん、と幾分チープな音がした。
レジカウンターの台を布巾で磨いていた男性が、はたと顔をあげた。
「あぁ、いらっしゃい」
店員だろう。彼は意外そうな反応を見せるが、すぐに接客用の笑みを取り繕う。
制服の高校生二人組の入店がそんなに珍しいだろうか。訝しんであたしは店内を見回す。店内は長方形に奥まっており、照明が明るいせいか気持ち広く見える。予想に反して客は一人もいない。頭上で回るファンだけが、粛々と音を立てていた。
「悪いね。今日は、お店の事情でもうすぐ閉まっちゃうんだ」
「事情?」と吉村くん。
「うん。店長のお父さんが危篤で、いつもより二時間早い閉店だよ。あらかじめ一昨日からHPで告知してたんだけど、分かりにくかったよね。申し訳ない」
やけにフレンドリーで、なのに好感の持てる接客だった。あたしはそこで初めて、男性店員の顔をまともに見る。見覚えのある顔だった。店員もあたしを見て、あぁ、と得心したように言う。
「たこ焼きあげた子だ」
「岡本清」と彼は名乗った。オカモトセイと読むそうだ。
店内奥には、一人掛けのソファが対面するように四脚並べられている。あたしと吉村くんはそこに並んで座った。
やがて、岡本さんがトレイに乗せたカップ二つと、クッキーのようなお菓子を運んできた。「こんな物しか出せないけど」と、丁寧にテーブルに並べていく。
「あー、いえ。こっちこそ閉店なのにお邪魔して……」
無駄に照れるあたし。分かってる、照れてる場合じゃないのは。
岡本さんは、吉村くんの正面側のソファに腰掛ける。カップに入ったお菓子を一本手に取った。細長い、半月状のクッキーだ。
「これはイタリアのお菓子。ビスコッティ。そのままかじってもいいし、コーヒーに浸すとさらに美味しい」
彼の箴言どおり、あたしたちはビスコッティをまずそのままかじった。さくりというよりは、ばきりという固い食感。続いて残り半分をコーヒーに浸して食べる。少しだけ柔らかくなって食べやすい。吉村くんはうなずく。
「僕、初めて食べたよ。美味しいなあ」
「うん、美味しいね」
「二人とも、いい笑顔だね」
若干芝居がかった褒め言葉も、岡本さんが言うと様になる。どこか繊細な声色、耳心地の良いテノールボイスだった。それに合わせるかのように、彼の顔は精巧な造りをしていた。長めのまつ毛に優しい瞳、その上では弓形の眉がミリ単位で整えられている。エンジ色のエプロンの下には染み一つない真っ白なワイシャツ。彼は、テーブルの上にそっと、絡めた両手を置いた。
「それで君たちは、静香に何か用があって来たんだよね」
あたしは、彼の唇が形取るうっすらとした笑みを見た。これほど自然に笑える人がいるのか、と感心する。
この問いには、本来ならあたしが答えるべきだったのだろう。だが、彼の笑みに見とれてしまい、ぼんやりとして何も言えなくなっていた。
頭上から、木製ファンが回る音が聞こえる。しばらくして吉村くんが口を開いた。
「その前に、僕からあなたへ一つ訊きたいことが」
彼の声には、密かな闘志のようなものがたぎっていた。はっとしてあたしは吉村くんの横顔を見る。なんか知らんが、目がもう既に燃えていた。
「今、彼女を呼び捨てにしていましたが、静香さんとはどういったご関係で?」
「難しい質問だね。どうと言われると、少し悩む」
「悩む?」
「知り合いか、友達か、という意味でだね。僕は彼女の外面的なことなら詳しいつもりだけど、プライベートとか、心の中までとなると、ちょっとね」
そして岡本さんは苦笑する。あたしはスカートのポケットに手を入れた。ペンダントの感触を確かめながら、さらなる疑惑を抱く。
吉村くんは眉根に寄せ、少しあいだ考え込むが、やがて満面の笑みを浮かべた。
「そうですか。それならいいんです」
納得したらしい。その言葉さえ聞ければ良いんだという感じで、盲目的に。
吉村くんの隣、窓際には、腰ほどまでの高さしかない本棚がある。本棚にはいくつかの小説が収まっているだけで、その他の多くは解剖学系の学術書か、人相学に関する本ばかりだった。
吉村くんはその中の一冊を手に取る。『人と動物の感情表現』。ダーウィンだ。
「この棚は、やけにジャンルが偏っているみたいですね」ページをめくりながら吉村くんは言う。静香さんについては、一時うやむやになっていた。
岡本さんはにこりと笑って答えた。
「その辺は僕が持ち込んだ本。もとは旅行のお土産やアンティークを飾るための棚だったけれど、本が増えることはお店にとって何よりだからね。好きに蔵書させてもらっている」
「こういったことを勉強されているんですか。それとも趣味?」
「趣味というか、興味かな。大学も建築関係だし、人の顔に興味を持ったのもたまたまだよ」
ページをめくる音。あたしは直感的なものを抱いて、やや久しぶりに口を開いた。
「人の顔に興味を持つって、変わった着眼点ですね」
「よく言われる。でも、当たり前のことにふと疑いを持つのが、大抵の知識好奇心の始まりじゃないかな」
岡本さんは、「その本」と、吉村くんの手にあるダーウィンの本を指した。吉村くんは聞こえていないみたいに本に目を落とし続ける。岡本さんは言う。
「その本にはデュシェンヌの研究が図解されている。顔の筋肉に電気刺激を送り、文字通りの『つくり笑い』をさせてみせるという、表情の実験。僕はそういった顔の真意に興味がある。さっき言った当たり前のことというのは、つまり『人の表情』について。『表情』は、言語よりずっと原始的な表現だから」
「言語よりずっと原始的な表現?」
あたしには管轄外過ぎて、おうむ返しに訊くことしか出来ない。
「そう。原始的で、国際的で、ほぼ絶対不変の言語。『声』を用いた言語が百種類以上あるのに対して、『顔』は一種類の言語しか持たない。分かりやすいところで言うと、たとえば唇。各国共通で、喜びを表現したければ口角と上部顔面骨とをつなぐ笑筋を収縮させればいいし、悲しみの表現なら広頸筋で唇を引き下げればいい。そういう大凡のレパートリーから派生して、人は様々な表情表現を行う。人の顔に張り巡らされた神経とその使われ方については、現代の解剖学でも解明しきれないという話だよ。それだけ、複雑で豊かな表現が可能なんだ。言葉と同じように、表情も立派な人間的文化だ」
そして、沈黙が空気に落ちくぼむ。あたしは彼の語りをゆっくりと咀嚼する。
岡本さんの浮かべる、疑いがたいほど自然に繕われた笑みの由縁を知った気がした。
「すると岡本さんは、言葉の勉強をしているようなものですね」
「おもしろいことを言うね」彼は感心して目を細めた。「確かにそうかもしれない。言葉と、それに付随する文化的表現は他の動物には真似できないことだ。人は言葉で嘘を吐く。同じように、表情でも嘘を吐ける。先天的に、あるいは訓練次第でいくらでも」
吉村くんが本から顔をあげ、あたしの神妙な顔つきを可笑しそうにのぞき見た。
「そうなると咲子さんって、言葉も表情も表現不自由だよね」
「うっさいわね」
自分がひどく文化的に遅れた人間のような気がしてくる。英会話ならぬ顔会話スクールってあるのかしら。たぶん無いな。
人は表情でも嘘を吐く。
岡本さんはそう語る。ならば恐らく、彼は表情で嘘を吐くことを知っているのだろう。
「二点ほど、岡本さんに尋ねたいことがあります」
「どうぞ」
あたしはポケットから、『SHIZUKA』の刻印が入ったペンダントを取り出す。音もなく、テーブルに置いた。吉村くんは目を丸くしてそれに見入った。
「これ、岡本さんのですよね」
あたしは、彼の作る、ほぼ百点満点の喫驚を見つめた。この場では誤魔化し笑いではなく、驚きが正解であった。ペンダントを手に取り、裏の刻印を確認して深々とうなずいた。
「確かに僕のペンダントだ。どこで拾ったのかな」
「森林公園の、ミニモアイ広場です」
「そうか、なるほど。あそこは猫の広場みたいなものだ。道に落としただけなのに、どうして見つからないのかと困っていたけど、どうやら野良猫がくわえていったらしいね」
岡本さんは安堵の息を吐き、頬を弛緩させる。
「ありがとう。また何かお礼をしないとね」
真っ先にたこ焼きが頭に浮かぶ。あたしが発言しようとしたところで、吉村くんが静かな怒気を込めて口を挟んだ。
「そのペンダント、静香さんと深い関係はないと思ったんですけど。こちらの勘違いだったかな」
覚悟していたことだが、やはり邪魔な野郎である。一気に空気が悪くなるが、岡本さんは意に介さず、あくまでにこやかに対応した。
「もしかすると吉村くんは、僕と静香の交際関係を疑っているのかな」
「率直に言えばそうなりますね」
「さらに率直に言えば、静香に惚れている?」
吉村くんは一片の迷いもなくうなずく。無駄に一途なのが彼の長所であり、欠点だった。
「だったら安心してくれ。僕と静香は恋人同士じゃない。けれど、このペンダントについて説明するのは、すごく難しいな。買おうと言い出したのは彼女の方からだったけど、恋心とか、そういったものとはかけ離れている。それは確かだよ。彼女を口説きたいならいくらでも口説けばいい。こんな説明で理解してもらえるとは到底思えないけど、一応の弁解として」
飲み込みきれない顔で、吉村くんは黙り込んだ。あたしはせき払いを一つして、岡本さんの注意を向けさせる。
「もう一つの質問は、その静香さんについてなんですけど」
岡本さんはペンダントのチェーンを首に回しながら、無言の笑みで話を促す。
「彼女、本当は――」もしこれが間違っていたら、すごく失礼で、不謹慎な問いになってしまうのだろう。「目、見えているんじゃないですか?」
岡本さんの頬が、一瞬、ぴくりと緊張する。少しでも目を逸らしていれば気づかないほど、かなり小さな変化だった。
「日野さんは、まだ一度しか静香に会ってないよね」
「はい」あたしは努めて不遜に肯定する。
「今度彼女に会ってみるといい。セッティングは僕がしてあげる。その質問は、彼女と直接顔を合わせてからが適切じゃないかな」
あたしは首肯する。セッティングとは、多分あたしと静香さんの一対一でということだろう。
岡本さんはあたしの予定を確認する。あたしはなるべく近いうちに静香さんに会うつもりだった。
吉村くんはもう、あたしらの会話には割り込んでこない。むっつりした不満げ顔で、窓の外の暮れ始めた太陽に目を向けている。あたしは思い出したように、吉村くんに「ごめんね」と言ってみるのだが、やはり彼は何も言わなかった。
「あの岡本清って男、どうも気に食わないね」
ブックカフェ・カワシマ・ギャラリーを出たあと、吉村くんが漏らしたのは岡本さんへの不信感だった。吉村くんが口を利いたのは、ブックカフェを出てから実に二十分ぶりである。あたしをシカトし続ける彼をサーティワンに引っ張り込み、無理矢理アイスを奢ることで半強制的に口を開かせたのだ。
しかし、開口一番がこの愚痴である。あたしにも否があるとはいえ、いい加減うんざりだ。
「なんで? 吉村くんが勝手に対抗意識燃やしてるだけでしょうに」
「僕はそういうことを言いたいんじゃない」
彼は苛立たしげにアイスに噛みつく。ハロウィン期間限定のパンプキンソーダ味。
「咲子さんは徹頭徹尾、あの素敵笑顔に騙されていたみたいだけど。あんなの、どこまでいったって作り物さ」
「そんなもんかね」少なくともあたしはあんな風に笑えない。
「そうだよ。彼の言うデュシェンヌの実験と同じ。電気刺激か、脳からの命令か、それだけの違いだ。所詮は研究や訓練の域を出ないじゃないか。笑いたいときに笑う、それが純然たる人間らしい文化的表現ってもんだろう」
あたしが合いの手を入れる間もなく、吉村くんは「気に食わないといえば、咲子さんもそうだよ」と言う。
「何を考えてるのか知らないけど、いまさら、僕と咲子さんの間で隠し事なんてさあ……」
それ以上は口を噤み、彼はアイスを食べることに没頭した。ブックカフェでの吉村くんは、岡本さんと静香さんの関係に釈然としない様子だったが、それを言ってしまえば、あたしと吉村くんの仲だって言葉にし難いだろう。
いつだったかは忘れたが、吉村くんはある人に対して「僕にとって、咲子さんは痒いところに手が届くような存在」と紹介していた。なるほどとは思うが、それだって完全適切であるとは言えない。
あたしと吉村くんで隠し事なんて、本当にいまさらだ。今の吉村くんは思考停止に陥っている。そもそも『恋人』や『友達』などという、誰かが規定したような固定の枠組みで考えること自体が彼らしくなくて、いつもの吉村くんなら「人の数だけ思惑があり、それぞれの人間関係がある」なんて偉そうに言いそうなものなのに。
「ごめんってば、吉村くん」
まあ、振り回したあたしのせいなんだろうな。そっぽを向く吉村くんに、あたしはもう声をかけなかった。