二話
たこ焼きみたいな猫を見た、その情報を得たのは、猫失踪当日から勘定して三日目のことだった。
失踪の翌日、翌々日、あたしたちは近くのコンビニやスーパーを歩いて回った。里親探しのポスターをお店に貼らせてほしいと頼み込むためだ。結果は芳しくなかった。商業施設の壁面というものは基本的に広告の激戦区であり、お店側もそれだけで高額な広告代金を受け取れるらしい。バイトすらしていない、一文無し同然の高校生であるあたしたちとっては、とても不利な話だった。
そこで、町中至るところにある電柱に貼ろうかと画策してみたが、貼っては剥がされ、貼っては剥がされの繰り返しだった。
誰だ、いたいけな真由が作ったポスターを剥がして回る無粋な輩は、と純粋に腹を立てたが、剥がしていたのは町のお巡りさんだった。
「駄目だろう君たち。こういうのは公的な手段で、ちゃんとした許可を得て掲示しないと」
町のど真ん中で、初老のお巡りさんに叱られた。真由は泣きそうになっていた。あたしは静かに怒りを込めて反駁した。
「その公的な手段だってお金がいるんでしょ。事あるごとに金を出せ、やれ金を出せって。子供のうちらには生きにくい世の中だよ、まったく」
「君たちには保護者というものがいないのかい?」
お巡りさんはあたしを横目で見ながら鼻で笑った。最近の高校生は反抗的で困る、という意味を含めての嘲笑だった。
あたしも真由もまともな保護者なんていねーよ、と言いたくなったが、これ以上は無益な水掛け論だった。それに、そもそもの否はこっちにあるので、あたしらは黙ってうつむくことしか出来なかった。
学校の向かい、国道を挟んですぐのところにはクレープ屋がある。派手なバンダナを着けた馬鹿そうなアルバイターがいつも一人で立っている、寂れたワゴン車の屋台だ。
その日、ついに万策尽きたあたしと真由は、そのクレープ屋台のベンチに座り、テンションがた落ちでクレープを頬張っていた。真由は一度、ここの激辛クレープで腹を壊した経験があるので、今日は普通のバナナクレープを食べていた。
真由はスカートのポケットから折り畳んだポスターを取り出した。しわを伸ばしながら広げ、タコヤキのデジカメ写真を見て、ため息を吐く。
「タコヤキはたぶん、もう寿命が近かったんだよ。死ぬところをマユたちに見せないように、自らすすんで姿を消したんだ。だって、タコヤキが死んだら、マユもおじいちゃんもぜったい泣くもん。あぁ、なんて心優しい猫なのかしら」
真由は鼻をすすって、もう一度ため息を吐いた。鼻頭は真っ赤になっている。
あたしは真由を元気づける言葉を探した。まだ、完全に可能性がなくなったわけじゃないのだ。
「それなんだけどさ、タコヤキって本当に自分からいなくなったわけ? 実はあたし、もうひとつ納得できないところがあってさ」
真由の手からポスターを取りあげて、気になっていた一文を示した。猫がいなくなったときの状況についての記述だった。
『ちょっと目を離した隙に、タコヤキはいなくなりました。それまで普通に遊んでいただけなのに……』
「遊んでいたってのはつまり、何をして遊んでいたの?」
真由はクレープをかじりながら斜め上を見あげる。慎重に記憶を掘り起こしているようだった。
「えっとね、神社でね、おじいちゃんと縁日で買った水ヨーヨーで遊んでたの」
「なにそれ。遊んでたって、おじいちゃんとじゃん。そのあいだタコヤキはどうしてたの」
「タコヤキはね、男の人と遊んでた。かわいい猫ですね、触らせてください、って言ってきたから、はいどうぞって。男の人にタコヤキ触らせてるあいだ、暇だからマユ、終わるまでずっとおじいちゃんと遊んでたの。んでね、あぁ、水ヨーヨー楽しかったねっておじいちゃんと二人で、」
「ちょっと待て」
あたしは急な頭痛を覚えて話の腰を折る。男の人。ここに及んで、真由の口から初めて出た言葉だった。それから制止する手を降ろす。
「はい、続き」
「で、水ヨーヨー楽しかったねって、おじいちゃんと二人で帰ったの。その途中で、あれ、タコヤキどこだ、ってなって。神社に戻ったけどいなくて、おかしいなぁって探し回ってみたんだけど、やっぱり見つからなくて。そのうち、たこ焼き持った咲子さんに会ったんだよ。そしたら咲子さん、なんて言ったと思う?」
「赤点の解答用紙でも落としたの?」
「そう、信じらんないよね!」
「信じるもなにも……」
この女には、決定的な何かが抜けているらしかった。全てを突っ込むのは面倒なので、一番重要な部分から指摘してあげる。
「それ、失踪じゃなくて誘拐だよね。猫誘拐」
「なんで?」
ついにあたしの堪忍袋の緒はブチッときてしまった。今日こそそのアホ面をぶん殴ってやる、と拳を握る。すると、背後で「あー」とすっとんきょうな声があがった。
「それ、あれっすよね。猫みたいなあれ。なんつーか、たこ焼きみたいなあれ。自分、この前見たっすよ」
振り返ると、クレープ屋の兄ちゃんだった。あたしが手にした猫探しのポスター指さして、ぽりぽりとバンダナ頭を掻いた。
「自分、その猫見たっす。マジで」
「見た。どこで?」
あたしは睨み顔のまま問い返す。クレープ屋の兄ちゃんは終始バンダナをいじりながら話した。
「そこの、ほら、はんぱねぇマジでっけえ公園。カノジョと散歩してたんすけど、その猫、見たんすよ自分。ミニモアイがいる広場んとこ。ベンチで美人なネーチャンが座ってて、その膝に猫が乗っかっててさ。んで、ネーチャンも猫も眠ってた。あの猫、たこ焼きみたいだなーとか、つかあの女イケてんじゃんとか思ったんで、自分、よく覚えてるっす。まぁ、そのあと、女に見とれ過ぎてカノジョに引っ叩かれたっすけど」
勘弁っすわマジで、とバンダナ兄ちゃんは語る。およそまともな日本語とは言い難い説明だが、彼の言いたいことはよく伝わった。
あたしはクレープの包み紙をゴミ箱に放り、レモンキャンディーを口に入れて立ち上がる。真由も慌ててベンチを立つ。
「どこへ行くの?」
あたしは答えなかった。彼の話を聞いて理解できない時点で、真由に説明するのは骨が折れそうだと踏んだ。
言い忘れたことがあって、あたしは振り返る。バンダナ兄ちゃんに向かって、「ありがとー」と手を振った。
兄ちゃんは憎たらしい笑みで親指を立てた。
バンダナ兄ちゃんの言う、『はんぱねえマジでっけえ公園』とは、おそらく真白ヶ丘森林公園のことだろう。
真白ヶ丘森林公園とは、あたしたちの住む真白ヶ丘市、ひいてはこの県が誇る名物的観光地である。約二百ヘクタールの敷地は一日かけてやっと歩き回れるほどの広さで、ウォーキングコースも迷路のように入り組んでいて複雑だ。たしかにはんぱねえし、マジでっかい。
さらに彼は、ミニモアイのいる広場でたこ焼きみたいな猫を見た、と言った。美人な女と一緒に。
あたしはミニモアイ広場についての事前知識を思い起こす。たしかあそこは、野良猫のたまり場として有名な広場だ。広場周辺に木天寥、いわゆるマタタビの木が自然林立しているためだという。どっかのホームレスが植えたマタタビの苗がそのまま育ってしまったのだ。はた迷惑な話である。
それにしても迂闊だった。そんなあからさまな場所の存在を知っていながら搜索の手を伸ばし忘れていたとは。
タコヤキ誘拐の犯人は、どういう理由からかは知らないが、一時的にそこに留めておくためにタコヤキをミニモアイ広場へと運び出したのだろう。
それにしても不可解なのは、バンダナ兄ちゃんが猫と一緒に見たという女だった。彼女は一体何者だろう。ただ猫を愛でていただけの部外者ならいいのだが、もっと詳しく聞き出しておけばよかった。たとえば、その女の特徴とか、目撃時の日時とか。
「咲子さん、待って。早いってば」
考えごとをしながら歩いていたら、後ろから真由が小走りで追いかけてきた。彼女の顔を見ながら、あたしはもっと聞き出さなければいけないことがあったと気づく。
「真由さ、タコヤキは男の人と遊んでた、って言ったよね。その男って、どんなやつだったかな」
「どんなって……」真由は息を整えて答える。「格好いいひとだったよ。美青年系のイケメンみたいな。マユのタイプじゃないけどね。でも、変なオジサンとかだったら、マユ、ぜったいタコヤキのこと触らせなかったもん」
「分かるわその気持ち」
あたしは少しの間を置いてから訊く。
「そいつ、どんな格好だった? グレイの浴衣にシルバーのペンダント?」
真由は瞼をぱちぱちさせて、深くうなずいた。
「咲子さん、すっごぉい。そう、たしかにそんな感じだった。よく分かったね。すごい。なんで分かったの? エスパー咲子?」
無視して公園敷地に入った。
森林浴コースを通り、整備の行き届いていない獣道じみた林道を歩いていく。その頃にはあたりは真っ暗になっていた。池のほとりで鈴虫が鳴きはじめ、満月が水面に反射している。満月の光も、やがてマタタビの木々にさえぎられる。
ミニモアイ広場に到着する。広場一帯に、野良猫の夜鳴きがこだましていた。草むらの奥からいくつかの眼が光っていた。まるで和製ホラー映画のワンシーンのようだった。
「なんか、不気味なところだね……」
真由はそれっきり口を閉ざした。あたしの背中にぴったりとくっつき、恐怖から耐えていた。この物々しい光景は、どんな猫好きでも逃げ出したくなるほどの効果を有しているようだった。
はっとして、あたしは耳に意識を集中させる。ある異変を聞き取ったのだ。無数の鳴き声の中に、悲鳴のようなものが混じっている。獣のような悲痛な声だった。
風が吹き、木々と草むらが揺れる。悲鳴がかき消される。焦らないように、じっと凪を待つ。
風が止む。再び音を聞きつけ、あたしはそちらへと駆けた。真由があたしの名前を呼ぶ。構わず走る。ひどく暗かったので、モアイ型のベンチにつまづきかけた。体勢を持ち直し、音のした草むらへと入った。
草むらの奥で、懐中電灯が落下した。誰かが明かりを取り落とした瞬間だった。次の瞬間、あたしはその誰かと肩からぶつかる。おそらく人間だった。華奢で柔らかい、人の肌の感触。
尻餅をつきながら、ぶつかってきた者を目で追う。どうしても姿が確認できない。林で月明かりが隠されている。
立ち上がって、即座にそいつを追いかけたかった。でも、あたしはそうしなかった。
さきほど、懐中電灯が落下した方から、すえた臭いを嗅ぎつけたからだった。あまりの悪臭に顔をしかめながら、おそるおそるそちらへと顔を向ける。懐中電灯の明かりに照らされ、あたしは地面に赤いものを見た。
這うように地面を移動し、懐中電灯を手に取る。その場を照らした。
よく分からない肉の塊がそこにあった。それが第一印象。しかし、ただの肉塊と呼ぶにはあまりにも原型を留めすぎていた。それには顔のようなものがあり、足のようなものがあり、脊椎動物特有の骨格をありのままにしていた。地面に横たわったまま、弱々しい呼吸をしている。その回りには、赤く染まった毛皮の破片が散らばっている。
皮を剥がされたんだ、とあたしは直感する。
一分ほど眺めていたら、後ろから悲鳴があがった。真由だった。
「タコヤキっ……」
彼女は叫ぶ。ほんとうに、あれはタコヤキなのだろうか。いやそもそも、これは猫なのか? 特徴とされるたこ焼きのような毛並みは、文字通り身ぐるみ剥がされている。小型の犬か、狐やイタチということもあり得る。
真由は、皮剥ぎされた動物へと駆け寄ろうとする。あたしはその背中に抱きつき、引き留めた。
「離してよっ、タコヤキ、死んじゃうよっ……」
あれはタコヤキじゃない、そう言ってあげたかった。あたしは口を噤む。本当にタコヤキだったらどうする。何にしてもあたしは、あの死にかけの動物を見捨てようとしているのだ。たとえ善意だとしても、真由はきっと理解してくれない。
動物は、やがて息絶えた。
真由は地面にへたり込んですすり泣いている。異臭がまたひとつ増えていることを知る。真由は、地面へと嘔吐していた。泣きやむまで抱きしめてあげるつもりだったが、彼女はいつまで経っても泣き止まなかった。
無意識に真由の手を握る。そこで、あたしは彼女が手にしていたものに気づいた。握力のゆるんだ指から抜き取り、懐中電灯の明かりでそれを晒す。
ペンダントだった。シルバーで細長い、長方形型のペンダント。そこには美しい蛇が刻印されていた。息を整えてから、ゆっくりと裏返す。
裏には、アルファベットの文字が刻まれている。そうしてあたしは息を呑む。二度か三度か、ペンダントの裏を見返す。手掘りの刻印で、『SHIZUKA』と記されていることを確認する。
「静香」と、あたしは読み取る。