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十一話・彼/彼女の手紙(下)

 静香は盲学校を卒業すると、世田谷のとある団地の住居で一人暮らしを始めた。

 その翌年。静香の二十歳の誕生祝いをしようと提案し、僕らは町に出た。

 十二月二十日。

 冬も深まり、クリスマスの弛緩した空気が真白ヶ丘市にもささやかに入り込んでいた。

 僕たちは寄り添って歩いた。その日のことはよく覚えている。街道BGMに『ラスト・クリスマス』が流れていて、静香は淡い赤色のマフラーをしていた。体を押しつけるようにして僕の腕に抱きついていた。マフラーの先がちくちくと僕の手に触れる。彼女の頬は薄く紅潮し、瞼は幸せそうに閉じられている。

 周りからすれば、僕たちはカップルに見えただろう。

 おおむね正解であるものの、そうであるとは言い切れないのも事実だった。

 広辞苑を引くまでもないことだが、広義でのカップルは男女のふたり組を指す言葉だ。僕がいくら表だって男を名乗ったところで、戸籍が覆ることはない。

 ただ、表面だけならカップルを作ることができる。僕はそれだけでよかった。

 静香も僕と同じようなことを考えていたようだった。

「私たち、付き合ってるみたいですよね」

「例えば、もし僕が女でも?」

 冗談混じりに言ってみると、静香は湿っぽく笑ってこう言うのだった。

「だから、『みたい』なんですよ」

 一年以上も一緒にいて、僕の性別がばれていないわけがなかった。きっと静香はかなり早い段階で、たぶん僕が女に近い身体をしていた時から、もう気づいていたんだと思う。

 今まで僕たちは、口に出して男だ女だと話題にしたことはなかった。

 そういう部分ではひどく表面的で、よそよそしい仲だった。互いの傷には深く入り込まず、入り込ませず、軽々しい探り合いは決してしない。

 日本語は表現豊かだけど、果たして、僕たちの関係を一言で表せる言葉があるだろうか。出来ないだろうし、そもそも言葉になどされたくない。僕が一番嫌いなのは、他人から押しつけられる画一的な区分けだった。

 友達。親友。家族。恋人。生徒。先生。主人にペット、上司に部下。そして、障害者と健常者、男と女。

 それらの区分けは、人間が勝手に地図上に引いた国境のようなものだ。国境を越えるにはパスポートがいる。パスポートで簡単に入国できる国もあれば、厳しい身体検査を通された末、追い返されてしまうときもある。

 どうして赤の他人が、僕たちの行き先を阻む?

 僕は懊悩していた。いつまでも満たされない静香との関係を考えると、頭が痛かった。僕は自分が思っている以上に、静香に心を寄せていたのだ。今よりもっと彼女に近づきたいと願っていた。

 結果、僕は打ちのめされることになる。僕は真の意味で男になることはできないのだから。

 僕の悩みを知ってか、それとも純粋な好意からなのか、静香がプレゼントに欲しがったのはペアのペンダントだった。

 町角の小さなジュエリーショップで、そこでもやはりクリスマスソングが流れていた。気の良さそうな女性店員が話しかけてくれたが、彼女の話はどこか十代の乙女心を引きずったままだった。

 ペンダントの刻印を尋ねられたとき、静香は一片の迷いもなく、「アルファベットで、二つともシズカと掘ってください」と答えた。

 僕は恥ずかしい思いで、不思議そうな顔をする女性店員から目を逸らした。



 静香とたこ焼きを食べたあの日から、彼女の泣き顔を見ていない。それどころか落胆や憤怒など、相手を鬱屈させるような表情を静香は絶対にしない。

 僕は間抜け過ぎるくらい長い間そのことに気づけなかった。普段から人の顔を観察し、密かな趣味にさえしていた僕がだ。

 ちょうど大学が夏休みに入った。泊まりがけで観光にでも行こうと思い立ち、静香を電話で誘ってみた。返事はいつになく素っ気ないものだった。

「行きたくないです」

「どうして? たまには遠くへ出かけて息抜きでもしようよ」

「でも、遠くに行くのは恐いです」

 どちらかといえば活発な性格の静香からすれば、意外だった。

「東京は空気が悪いだろ。そうだ、避暑で北にでも行こう。北海道とか。行ったことある?」

「ないですけど」

「じゃあちょうどいい。僕、一度でいいから見てみたいんだ。札幌の風景とか、地平線の先まで続く車道とか。他にも絶景スポットを探しておくし……」

 静香は息を殺すように押し黙る。僕は遅まきに自分の失言に気付く。取り返せないほど沈黙は息苦しくなっていた。

「それより、北海道は食べ物が美味しいって聞く。例えば、なにがあったかな」

 戻ってこない返事に焦って、僕はぎゅっと受話器を握りしめた。

「嫌だったらいいんだ。君は君で忙しいだろうしね。でも一日や二日くらい時間を取って、せめてどこか近場に――」

「どうせ見えないんだから、どこ行ったって意味ないです」

 声が潤んでいた。自分でも動揺しているのに気づいたらしく、静香はあわてて咳をし、いつもの明るい声を出した。

「いえ、その。ぜんぜん意味ないってわけじゃくて、なんというか、疲れるんですよね。旅行するには少し。知らない土地に行くというのも、余計に辛いというか……」

 僕は知らぬ間に頭を掻きむしっていた。自己嫌悪に苛まれたときの癖だった。

「僕が悪かった。ずっと同じところで遊んでたから、感覚が麻痺していたんだよ。もし君を傷つけたなら、申し訳ない」

「傷ついてなんかないです。こちらこそ、自分勝手なこと言ってごめんなさい」

「勝手は僕の方だ。静香の気持ちも考えずに……」

「だから、やめてくださいってば」あくまで抑えるような口調だった。「気遣うくらいなら他の人と遊べばいいし、どうしてこう、私ばっかり誘うんでしょう。岡本さん、友達ならいっぱいいるじゃないですか」

 そのとき僕の中に芽生えたのは、とても小さな苛立ちだった。どうして私ばっかり誘う? 何故今さら、僕と静香でこんなやり取りをしなきゃならない。君はあの日、このペンダント欲しがったじゃないか。そんなこと口にしなければ分からないほど僕らの仲は浅いものだったのか。

 首から提げたペンダントを手に包む。ここで怒ったって、誰のためにもならない。返す言葉を考えているところで、受話口から自虐的なうなり声が聞こえた。

「私が言いたいのは、こんなことじゃなくって……」

 静香と同じように、僕も喉を詰まらせる。

「私、岡本さんを責めたいわけじゃないんです。悪いのはむしろ私の方で、決して岡本さんが悪いわけじゃなくて」

「分かるよ、君の言いたいことは。なんとなく」

「なんとなく?」また声色が変わる。だが、直後にはっとする音が聞こえた。

「ああぁ違うんです。私、そんなつもりじゃない」

「ねえ静香、ちょっと落ち着こう。僕はもう謝らないし、静香も自分を責めなくていい」

「そこが分かってないんです、ぜんぜん分かってない。せっかく岡本さんが誘ってくれたのに、私、ちっともあなたのこと考えてない。それどころか、あなたを傷つけるような酷いことばっかり言ってて」

「いいよ、分かってるから、そのことはもう」

「分かってないっ」

 そこで電話を切られた。すぐに掛け直す。いくら掛け直しても、静香は二度と出てくれなかった。



 車を飛ばし、静香の住む団地に到着する。部屋の扉を開けると、玄関先に電話機の置かれた台がある。

 視線を落とすと、廊下に点々と赤い血溜まりの跡があった。それはリビングから始まり、浴室へと続いているようだった。

 血痕を追って浴室の扉を開けると、静香の後ろ姿があった。ぺたんとタイルに座り込み、横顔を蒼白させている。鋏を手にして、刃で左手首を引いていた。

 僕は悲鳴じみた声を上げて彼女の右手を叩いた。血塗れた鋏はタイルの上を滑って壁に当たった。即座に左手を取る。手首に走った数本の赤い線を認めると、手で覆うようにして止血した。

「なんでこんなことを」

 と、僕は静香の呆然とした顔を見る。彼女は目を見開き、白く濁った両目をこちらに向けた。

「岡本さん?」

「ああ、僕だよ」

「もう深夜ですよ。明日バイトなのに、わざわざ来てくれたんですね。こんな時間に、どうもすみません」

 僕はかっとなって、謝るな、と怒鳴った。浴室内を何度も反響するような大声で。僕はいささか興奮していた。

 静香が返したのは、あの微笑みだった。僕が今しがた感じた怒りや悲愴感も、そんなもの全てが一瞬で浄化してしまうような、そんな幸福そうな笑みを浮かべる。

「来てくれて、うれしいです」

 何なんだこの女は、と僕は思う。

 血の感触の上から、手に汗がにじむのが分かった。驚愕すると同時に恐怖し、さらに僕は感心すらしていた。

 静香は自分の中に堅い掟のようなものを課している。恐らくそれは『笑みを絶やさないこと』であり、ひいては『相手を不快にさせないこと』なのだ。以前から、他人の落胆を読み取るのが苦手だ、と彼女は言っていた。だから、なるべく相手に不愉快な思いをさせまいと、静香は日々奮闘していたに違いない。

 どうして今まで気づけなかったのか?

 簡単だ。彼女の仮面が出来過ぎていたからだ。今日のような不備さえなければ、僕が気付くこともなかっただろう。

 僕がいつもするような、その場凌ぎの誤魔化し笑いとは全く別物だった。笑って誤魔化すのではなく、笑って騙す。実際、僕はこれに騙されてきた。

 魔性じみた笑みから顔を逸らす。手のひらを侵食する血液はぬめり、しだいに指先まで濡らした。

 絶対に剥がせない笑みを身につけた者は、知らず知らずのうちに相手の心を支配する。こうして、手遅れになるまで誰にも気づかせない。それはそうだろう。

 そうでないと、仮面の意味がないから。


 翌日、静香に食事を奢った。

 昨日のことなど話題にも挙げず、もはや記憶の彼方に吹き飛んでしまったかのように静香は笑っていた。長袖の裾から、テーピングをした痛々しい手首が覗く。適度に微笑み、僕の気持ちを沈ませないよう、あくまで自然に声をかけてくる。僕はある種の安堵と拭えない不安を残しながら、調子を合わせて相づちするしかなかった。



 そのようにして僕たちの日々は少しずつ、革新的にずれていく。

 昔どおりの平和な交流が続いていたかと思えば、ぽんと思いついたように、彼女は何の前触れもなく奇妙な言動を口走る。例えば顔の洪水、泡ぶくの音、体内の肉が笑い合う、沈黙の種類、汗と香水の匂い、吐息の形状など、どれも抽象的で理解に苦しむものばかりだったが、一様にして共通するのは、どれもが他人の視線や顔色を気にするような言葉ばかりだったことだ。

 そしてあるとき、これもまた思いつくように、彼女は限界を迎える。無自覚のままに自傷行為を始めるのだ。

 この繰り返しが一年以上続くと、静香はついに明確な自殺願望を持つようになった。

 僕が静香の部屋に遊びに行ったとき、「麦茶を入れてきます」と一言残して、中々戻ってこなかったことがある。変に思って部屋中を探し回ると、静香は寝室にいた。

 彼女は手にロープを持っていた。おぼろげな手つきでロープを輪っか状に結びつけようとしている。ロープの先はクローゼットの取っ手に繋がれていた。僕は速やかに、無言でこれに対処した。

 より恐ろしいと思ったのは、これまでの自傷の域を超え、自身の命まで断とうとしていたことだ。それでいて、本人はほとんど無自覚だった。

 そっとロープをほどいて奪い取ると、静香は恥ずかしそうに笑って顔をうつむかせた。まるで就寝中の寝言でも聞かれたかのように、頬を赤くして照れ笑う。

 この子はもう長くない。僕はそう思った。

 といって、彼女を精神科医に連れていくようなことはしなかった。

 なにより静香は、世間体や他人の目を気にしてしまう性分なのだ。

 その証拠に、静香の社会活動は年々活発になっている。録音タイピストなどの内職だけに留まらず、セミナーへの参加や小中学校の社会人講師など、積極的に社会に貢献しようとしていた。生活保護支給だけでもある程度生活していけるのに、彼女は怠慢を良しとしない。誰かから褒められたいという欲求もなかった。

 単純に『障害に甘えている』、『あいつは弱い存在だ』、と思われたくないだけだった。

 そんな静香を精神病患者扱いすればどうなるだろう。嘘や冗談じゃなく、彼女の死期を早めるだけだ。

 僕は確信する。

 静香が身につけてしまったこの笑みは、決して剥がせない仮面だ。仮面に束縛され、終わりの見えない強迫観念と体面作りに疲れ切っている。彼女はきっと、今この瞬間も解放されたがっているはずなのだ。



 初めて静香をこの手にかけようとしたのは、今年の夏のことだった。

 バイト先のブックカフェで、そのとき店内にいたのは、従業員として最後まで残っていた僕――お客さんは、窓際でぼうっとソファに座り込む静香一人だけ。

 窓から差す残照がテーブルの上を灰暗くしていた。背もたれ越しの静香の背中も、暗雲に吸い込まれてしまいそうに見える。

 閉店を告げるべく、僕はその背中に近づいた。彼女の横顔が目に入ってくる。肩に手を置こうとしたところで、動きを止める。

 よく見れば、静香の首は左に40度ほど傾いており、直毛のミディアムカットもそのぶん全体的に左へと流れていた。普段どおり目を閉じているが、瞼はいつもより重そうに見える。睫毛がときおり痙攣し、その際、間から白い瞳が見え隠れした。両の口角が微かに落ち、薄く開いた唇の端からは、小さな唾液の玉が光っていた。

 眠っていた。こんな寝顔は初めてかもしれない。過労の末に倒れ、そのまま死んでしまったような顔だ。疲れ果て、このまま生き続けるくらいなら死んでしまいたい。そう訴えかけているようだった。そんな寝顔をしている。

 もうたくさんだ、と思った。死に顔くらいは笑っていてほしいだなんて、そんな残酷なこと、僕には言えない。静香が死ぬときがくれば、きっとこんな感じだから。

 細い首に両手をかける。瞼がぴくりと動いた。

 手に力を込めていく。僕は、自分が恐くなるくらい冷静に、この行為を意識的に行っていた。このまま殺してしまった方がお互いのためになると思った。ところがそこで、僕の手は緩められる。

 拘束が弱まる。一気に息が吐き出された。やがて、静香の口が小さくうごめいた。

「私、岡本さんみたいになりたいって……ずっと思ってた」

 苦しげに言うと、口の端から細い涎が伝った。

「ずっと、岡本さんの笑顔、目指してた。世界で唯一、私に無償で微笑みかけてくれる岡本さんの……」

 ぱっと手を引き、半歩後ろにさがる。信じがたい気持ちでいっぱいになり、頭を振る。

「分からないな。だって君は見えないはずだ。どうして僕の顔なんかが……」

「自分でもよく分かりません。でも、見えるような気がするんです。抽象的に、かなり幻想的に、うまく言葉にできないけれど、私には見えるんです。あなたの顔」

 そこまで言うと、静香は引っかかるような咳をした。続く荒い呼吸。

「私、もっと岡本さんと繋がっていたい。あなたを手に入れて、それから死にたい」

 濁った両眼を僕に向ける。

「それじゃ、駄目ですか?」

 僕はその場に立ち尽くす。黙って彼女の目を見つめた。

 彼女の言う抽象を具体に変えるため、僕は考えを巡らせた。


 ◆


 後ろを振り返ると、そこには吉村くんが立っていた。あたしの手にした手紙を背後から覗き込んでいた。

「うわ、いつの間に」

「ずいぶん前からいたよ。咲子さん、やたら手紙に集中してるみたいだったけど」

「真由は? あんたら、ゲームしてたんじゃなかったっけ」

 吉村くんはあごで和室の方を指した。

「タコヤキと一緒に寝ちゃった。びっくりしたよ。気付いたら2P動かなくなってたんだもん。真由ちゃん、よっぽど疲れてたみたい」

 まあ仕方ないな。あたしは手紙をぺしっと弾く。

「これ、吉村くんにも宛てて書いてあるみたい」

「そうみたいだね。あとで僕にも読ませて」

「うん」

 吉村くんはコーヒーを煎れにキッチンへと下がっていった。外はもう暗みがかっているようだ。デスクチェアを立ってカーテンを開ける。夜空の先に三日月が上り始めていた。あたしはいちごみるく飴を舐めながら、しばらくそれを眺めていた。

 吉村くんがマグカップ二つを手に戻ってきて、慎重にテーブルの上に並べた。吉村くんと向かい合わせで座り、あたしは手紙の続きに読む。


 ◆


 十月一日の夏祭りの日。

 ピンクの浴衣を着た女の子が猫を抱いているのを見かけて、僕は軽く衝撃を受けた。

 ほとんど突発的に声をかけてみると、女の子は二つ返事で猫を預けてくれた。僕に猫を預ける間、女の子はお祖父さんと水ヨーヨーで遊んだり、仮面ライダーのお面でなりきりごっこをしていた。

 僕はたこ焼きそっくりな猫を撫でた。少し太った猫で、毛並みも室内猫らしく滑らかだった。女の子たちが気を逸らしているうちに猫を持ち去ると、急いで近くの森林公園に駆け込んだ。

 ――日野さんに出会ったのは、確かその日だったね。君の持つ雰囲気も不思議だったけれど、もっと不思議だったのは、妙に静香が楽しそうだったことだ。いくら社交的な静香でも、初対面であそこまで誰かと打ち解けていたのも、実は結構珍しいことなんだ。これは吉村くんのケースと同じ。

 僕は予兆のようなものを感じた。もうすぐ何かが起こるんだろうって。

 日野さんは、それから三日後の森林公園で、皮剥ぎされた猫の死体を見つけたそうだね。君は最初、皮剥ぎの犯人を静香だと疑っていたんだろう。

 残念だったね。ここ数日の僕の行動については、もはや多くを語る必要はないだろう。日野さんたちにとってはとても急で、考える暇さえ与えなかっただろうけれど、もう整理はついているだろうし。

 僕は、君たちの登場にかなり焦っていた。いや、違うか――嫉妬していた。

 君たちは、静香や僕に強く惹かれているように見えた。それもあろうことか、静香の仮面の裏に――僕が数年かかった場所だ――あまりにも短期間で近づき過ぎた。僕の考える『静香と繋がる具体的な方法』にも、君たちならすぐに辿りつくはずだった。だから僕は、君たちに追いつかれないよう、即日静香を連れて行動に移した。

 野良猫の命を使った練習はまだまだだったけど、今回は思ったより上手く仕上がった。マスコミは事件の異常性を全面に押し出していたが、これが僕らが最終的に落ち着いた結果なんだ。正直、異常だと言われるのはとても心外に思う。


 現在、僕はこの手紙を車の中で書いている。

 手紙を書きながら、僕はある人との合流時間を待っている。吉村くんが紹介してくれた人だ。吉村くん、詳細はあとで日野さんにも教えてあげてほしい。

 車内灯を点けながら一晩で書いたものだから、少しばかり字が汚くなってしまった。これまでの内容については、僕も出来る限り感情を抑えるよう気をつけたつもりだ。

 冒頭でも謝ってばかりだったけど、色々と不躾で申し訳ない。ごめんね。

 正直なところ、今はとても安らかな心持ちだ。何度かこういう気分になったことはあったが、これほどの満足感も滅多にあるものじゃない。 

 君たちにだって、こんな経験ってあっただろう。

 例えば――遊び疲れて、夕方の涼しい風を浴びながら歩く帰り道とか。

 家中の衣服を洗濯して、もう汚れたものは何一つないんだっていう達成感とか。

 期末試験を終えたあとの昼下がりに食べるお弁当とか。

 仕事後に自宅でやる一杯とか。

 遊園地に行ったあと、帰りの電車で居眠りする穏やかな時間とか。

 ぽん、と自然に出てくるんだよね。あぁ、このまま死んでしまいたいって。

 苦悶の峠に死があるとすれば、快楽の峠も死じゃないかな。そう考えると不思議だね。中途半端な立場に置かれるほど、人は自傷し、答えのない悩みに囚われる。死んだらどうなるんだろうと夢想し、それでいながら、本質的には自分には関係ない事象だと思いこむ。実はそうじゃなかったんだ。なにがあっても、この二つが隔絶されることなど決してない。

 生と死はとてもフラットに、地続きな関係にあったんだ。ある日、何気ない瞬間、ぽんと目の前に死が置かれる。とある機会さえ訪れれば、誰にだって簡単に死を手にすることができる。

 今さら、君たちにこんなことを語る必要もなかったね。だけど、こういう最期を迎えてしまうことをどうか理解してほしい。僕がこれから死ぬのは、こういった弾みで起きたものなんだということを。


 そろそろ約束の時間が近づいてきた。

 同封したペンダント、そしてこの手紙の処分は君たちの好きにしていい。燃やすなり、海へ投げ捨てるなり、引き出しの奥にしまっておくなり、なんなりとね。

 短い間だったけど、どうもありがとう。結果からして僕が最後の一歩を踏み出せたのも、日野さんと吉村くんのおかげだと思うから。これはやはり感謝しなければならない。

 これからは二人とも、もっと仲良くね。吉村くん、なんだかんだ言って浮気は良くない。日野さんは顔には出さないけど、結構ふくれてると思うから。最後の最後で余計なお世話だったかな。

 最後になるけど、二人ともどうかお元気で。

 さようなら。

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