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十話・彼/彼女の手紙(中)

 出会いといっても大層なものじゃない。

 ホルモン療法を始めて七ヶ月。『岡本清(おかもとせい)』という偽名を使い出して数ヶ月。まあ順調に、男性としての生活に慣れ始めた頃だった。

 しかし、偽名はしょせん偽名でしかない瞬間というものがあって、僕の場合その瞬間が初めに訪れたのが、歯科医への通院だった。受付のたびに保険証を提示するわけだからね。国の正当な医療を受けるとなると、こればっかりはどうしても誤魔化せるものじゃない。

 せめて大学やバイト先の知り合いには『女』を意識されたくないものだから、彼らに見つからないよう、遠くの歯科医へ通うことにした。電車で一時間近くのところにある都内の小さな医院だ。

 キャップを深く被り、なるべく中性的な格好をして(パーカーやジーンズなどといった無難でどっちつかずな服装だ)、そのときばっかりは他人の顔をこっそりと観察するような真似は控えておいた。

 受付を終え、待合いの長椅子に近づいたところで、おや、と僕は思った。少女が一人、膝に白く短い棒を乗せ、置き物みたい座っていた。視覚障害者用の伸縮杖だ。少女はそれを両手でしっかりと、大切なお守りみたいに握りしめていた。

 おや、と僕が思うのも無理はないだろう。白杖を持っていたから、というわけではない。彼女は当時、眼鏡と眼帯を着けていた。近くに寄ればすぐ分かるほど厚いレンズだった。左目は眼帯で隠されている。右目は瞼を伏せ、じっと下方へと向けていた。さらに、前髪はこれでもかってくらい長くて、ほとんど目元を覆い隠すほどだった。そのため、顔の上半分は非常に混雑した印象を受けてしまう。

 僕はひどく疑問に思ったものだ。つまり――どうして彼女は単独で、介護者や付き添いの一人もいないんだろうって。

 僕は少女の左隣のソファに座った。それなりに混んでいたけど、そこ以外空いていないということもなかった。したがって他の場所に座ることも出来たが、まあ、そこは下心ってやつだね。僕は、少女の表情をもう少し観察したいと思っていた。

 彼女の左隣を選んだ理由もそういうことだ。眼帯をしている方で、完全な死角だったから。

 携帯電話を操作する振りをして、ときおり少女の横顔を盗み見た。当然、眼帯を着けた左目の様子を推し量ることは不可能だが、もう一つのポイント、口元や頬を観察することはできる。少女の唇と頬は、固く緊張していた。少なくとも僕にはそういう風に見えた。

 意地悪な好奇心が働いて、ちょっと首を伸ばしてみる。あくまでそっと、彼女の顔を見てみることにした。伏せた右の瞼、その先に伸びる長い睫毛は小刻みに揺れていた。

 さらに眺めていて、そこで僕は、思わずぞっとする。

 瞼の間から覗く瞳の色に、いささかおののいてしまったからだった。一瞬、白のカラーコンタクトでも着けているのかと思ったが、障害を抱える人間がそのようなお洒落をする余裕などあるはずがなかった。

 彼女の右の瞳は、使い込んだチューブから出てくる白い絵の具のような、あるいは、純白の石像が日なが一日、酸性雨にでもやられたかのような、そんな退廃した色をしていた。

 僕はそれ以上の観察を止めた。彼女も幸い、僕の視線に気づいた様子はなかった。

 改めて考える。どうして少女は一人なんだろうと。顔の緊張、揺れる睫毛や濁った瞳、そこから読みとれるのは肉薄した怯えだった。

 僕に専門的な知識はないが、彼女の右目はほとんど見えていないのだろうと思った。左目同様、右目に残るわずかな光も、近いうちに途絶えてしまうのだろう、と。

 そんなときだった。「オカモトシズカさん」と、受付看護師が呼んだ。ソファを立ったのは、隣の少女だった。まるでお尻でも蹴られたみたいに、大きな音を立てて弾くように立ち上がった。僕はその勢いにひるんで、唖然として佇立する彼女を見上げた。

 案内係がやってきて、「ああ」と言って少女を見た。

「お待たせしてすみません。お先に、こちらのオカモトさんからご案内しますので」

 少女は混乱した様子だった。伸縮杖をぎゅっと握りしめ、顔を左右にやっている。こちらのオカモトさんって、どちらのオカモトさんだろう、という風に。

 見かねた僕は立ち上がり、なるべく少女の右目の視界に入るようにした。

「すみません、僕」慌てて言い直す。「私も、オカモトシズカって名前なんです」

 言い忘れていたけど、当時の僕の声はそれはもう酷いものだった。ホルモン療法特有の変声で、妙な高音で掠れていたんだ。『私』という一人称を使ったのもその高い声を利用したからで、またおかしな混乱を彼女に抱かせないためでもあった。オカモトシズカという、いかにも女性の名前の人間が『僕』というのもおかしいからね。

 少女はやっと納得して、些少の動揺を残しつつも長椅子に座りなおした。彼女はぶつぶつと何か呟いたけれど、僕には上手く聞き取れなかった。

 診察を終えて待合室に戻ると、彼女はもう居なかった。おそらく診察中なのだろう。別段気にせず僕は歯科医院を後にした。

 僕は、弱視者および視覚障害者というものの存在を知識として知っていたが、実際に目にしたのは初めてだった。見たところ少女は十七か十八といったところだろう。まだ若いのに、世の中には不憫な人もいるものだ。僕はその程度にしか考えていなかったし、学生寮に戻ったときにはもう、少女のことは記憶の片隅に追いやられていた。

 ――先程言った通り、僕らの出会いはこうした何気ないもので、決して大層なものじゃなかった。そのファーストコンタクトが彼女にとってどうだったかは知らない。だけど僕自身は、もう二度と彼女に会うことはないだろうくらいにしか思っていなかったから、やはりそれは『何気ない出会いだった』と表現するしかない。



 が、二度と会うこともないってのも安易な考えだった。

 歯の治療というものは、一度行けば終わりなんてことは滅多にない。大抵の患者は幾度かの通院を経て完治させるものだし、それは僕も彼女も同じだった。二度と会わないなんてことは、必ずしも言い切れるものではない。

 僕が二度目に少女を見たのは、あれから三週間ほどがしてからだった。

 前回と同じく、少女は先に受付を終え、既に長椅子に座っていた。少女を認めたとき、僕はひどく哀しい気分になったのを覚えている。

 少女はもう、眼鏡や眼帯を着けていなかったのだ。それが意味する所はひとつしかない。僕は、なにか世界の終わりを見たような心持ちで、少女のはす向かいの長椅子に座った。しかし実際に世界の終わりを見たのは、僕ではなく少女の方だろう。少しずつ途絶えていく光の残滓を僕は想像してみた。それはとても虚しく、多大な無力感のする光景だった。

 僕は斜め向かいから少女を見ていた。少女は両目を閉じていた。もう自分には使う必要のないものなのだというように、完全に閉じていた。前髪はやはり長く、瞼に半分かかっている。以前は何の感想も持たなかったが、もしかして彼女は、あの長い前髪でなるべく顔を隠そうとしているのだろうか。根拠もない憶測だったが、僕はそう思ってしまうのだった。

「オカモトシズカさん」と名前が呼ばれる。

 今度はどっちが先だろうと身構える。それに反して、少女は今回も瞬時に立ち上がる。だが、案内係の看護師が僕に視線を送っていたから今回も僕が先なのだと分かった。障害者が相手なのだ、診察にもそれなりの準備を必要とするのだろう。

 少女は挙動不審に杖をいじって、案内係を待っていた。僕は少女に近づき、彼女を驚かせないように、「今回も僕が先だよ」と小声で教えてあげた。

 少女は納得しかけて、小首を傾げた。しまったと僕は思った。というのも、僕の声は三週間前と比べてだいぶ落ち着いており、より男性に近づいた声となっていたからだ。そんな声が『今回も僕が』と言うのだから、彼女が困惑してしまうのも当たり前だ。

 気まずい思いで、それでも僕は「じゃあお先に」と残して診察室へと向かった。



 歯科医院から出ると、僕は医院の正面にあるコンビニで煙草を吸った。すぐには帰らなかった。今度こそ、あの少女のことが気になったからだ。

 やがて少女が医院から出てくる。やはり彼女の周りに付き添い人の姿は見られない。伸ばした白杖で地面を突っつきながら、たった一人で街道を歩いていく。失明して間もないからだろう、足取りはまるで慣れた風ではない。僕は煙草を消し、道路を渡って少女に近づいた。

 少女の隣に並んでゆっくりと歩く。僕が隣を歩いていることなど、気付いてもいないみたいだった。歩くこと一点に集中を向けているのか、もしくは目の見えない状態に慣れていないだけなのか。どちらにせよ見ているだけで危なっかしい。

「ねえ」と声をかけてみる。

 少女は靴底を踏みつけるように、その場に急停止した。そのせいで地面を突いていた白杖がしなり、嫌な音を立てて跳ね返った。折れたかと心配したが、白杖の先は軽く震えているだけで、損傷はないようだった。

「だれですか!」と少女はどなる。顔をあちこちに向けて、不安そうに眉根を寄せていた。

「ごめん、いきなり声かけて。怪しい者じゃないから安心して」

 通行人の目が集まる。それで僕はかなり焦ってしまい、このまま逃げだそうかとも考えた。やがて彼らは、見てはいけないものを見たように僕らから視線を逸らした。

 少女はあらぬ方向に顔を向け、何かを小声で呟いた。急いで耳を傾けたが、「名前を」としか聞き取れない。

 そうか、と思う。さっき大声を出したのは、彼女が身の危険を感じたからではない。ただ、相手との距離感が掴めなかっただけなのだ。

「僕は岡本静です。ほら、さっき歯医者さんで一緒だった」

 少女は二度うなずく。「私と、同じ名前の人」と付け足すように言った。

 ――余談だけど、彼女は最初、僕たちの名前を同姓同名だと思い込んでいたらしい。つまり、僕の名前も『丘本静香』と書くんだってね。彼女がこのことに気付いたのは、だいぶ後の話だけど。

 なるべく親しみやすい声色で、「一人? 付き添いの人はいないの」と尋ねてみた。

 少女は首を振った。「いません。一人です」ときっぱり答えた。身体障害者らしくないといえば失礼かもしれないけれど、それにしちゃ気の強い子なんだな、と僕は思った。

「家は近いの?」

「近いです。歩いて十分もかかりません」

「それは近いね。でも、もしよかったら手伝うよ。その方が安全だし、もっと早く帰れる」

「大丈夫です。私、一人で帰れます」

「いや、でも」

「いいったら、いいんです!」少女はまた声を張り上げた。

 再び周りの視線が集まってきて、僕の気力はそこで完全に喪失した。「ごめん」と言って、もう立ち去ることにした。僕は彼女の態度にひどく傷ついたし、少しだけ腹も立てていた。純粋な親切心を拒絶されることほど気分が沈むこともないだろう。

 数メートルほど歩いたところで、僕は少女の声を耳にした。

「あのう」

 届くか届かないか、その声量は微妙だった。僕は振り返り、少女を見返した。

「あのう、やっぱり……」と、彼女は顔を赤らめ、小さくうつむいた。



 道中、会話らしい会話はなかった。僕の腕を掴む少女は、恥ずかしそうに下を向いていた。僕としても話しかけづらい雰囲気だったのだ。

 自宅まで連れて行くと、玄関の前では少女の母親らしき人が立っていた。彼女はきょろきょろと辺りを見回していたが、僕らを見つけると一目散にこちらに駆けてきた。

 僕は安堵の笑みを浮かべて少女を示す。次には、駆け寄ってきた母親によって、少女は平手打ちで頬を叩かれた。

「まだ一人で出歩くなって、あれだけ言ったのにっ」

 そして彼女は僕を見た。その当時、大方の人間がそうであるように、彼女も僕の性別を計りかねているようだった。僕は逡巡し、自己紹介をした。歯科医で少女と知り合い、心配になってここまで送ってあげたのだと。

 少女の母親は、声質によって僕を男だと判断したようだ。怪訝に顔をしかめ、僕の言い訳じみた話を聞いていた。

「それはご親切にどうもありがとうございます。でもねあなた、いくらこの子の目が見えないからって、こんな知り合いでもない年頃の女の子に声をかけて、不審者だと思われても仕方ありませんよ。私は充分、感謝していますけど」

 とても感謝しているという風には聞こえなかった。またも親切心を無下にされ、傷ついたり腹が立ったりしたが、彼女の言うことも分からないではないので大人しく引くことにした。小さく頭を下げ、その場を後にした。



 男になることを不便に思ったのは、それが初めてだった。

 それでも歯科医院でたびたび会う少女を放っておけず、僕はその都度、彼女の帰宅の手伝いをした。もちろん、彼女の母親に見つからない場所までだけど。

 少女はいつも一人だった。あんなに叱られたにも関わらず、彼女は頑として一人で通院することをやめなかった。

 少女は僕のことを「岡本さん」と呼んだ。僕はずっと彼女を「君」と呼んでいたのだが、ある日の帰り、彼女は自分のことを名前で呼んでほしいと言った。

「私はあなたを上の名前で呼ぶので、あなたは私を下の名前で呼んでください。その方が、ややこしくないでしょう」

 さらに彼女は「さん」や「ちゃん」付けは嫌だと言った。仕方なく、静香と呼び捨てることにした。

 ――ねえ、信じられるかい二人とも。静香、昔はかなりわがままな子だったんだよ。静香が毎回母親の手を借りず歯科医へ通院していたのも、彼女は「早く一人で歩けるようになりたいから」と言っていたけれど、僕には、あのきつい母親に反抗したかっただけにしか思えなかったな。僕とは二つしか違わないのに、年齢差以上に静香は子供に見えたものだ。



 そうだ、大事なことを書き忘れていた。

 静香との一度目の出会い、そして二度目の出会いで、僕は女の顔と男の顔をちぐはぐに使い分け、静香を困らせてしまったと書いたね。彼女はしばらくあの件について追求してこなかったが、第一印象というものはやっぱり記憶に残るものだ。お互い治療も終わりが近づいてきた頃、彼女はやっとその件について尋ねてきた。

「岡本さんって、最初自分のこと『私』って言ってましたよね。あれ、なんだったんですか?」と、率直に。

 僕たちは近所のカフェでテーブルを挟み、互いに生温かいコーヒーを飲んでいた。暑い夏だったけど、歯の治療後だったから冷たいものは飲めなかった。

 一から説明するのも時間がかかるから、僕は嘘を吐いて誤魔化すことにした。

「あのときは風邪を引いていたからね。声がへんに高くなっていたんだ。ほら、僕って名前も女みたいだろう? 面倒だし、女ってことにしておこうかと思ってね」

 誤魔化し笑いでそう答える。静香からの返答は、すぐには来なかった。眉をひそめ、口を軽くとんがらせている。それは、人が不機嫌を現すときにする表情だった。

「私、岡本さんとはもっと長い付き合いになると思いますけど」そして彼女は悪戯っぽく笑うのだった。「今のうちからそんな嘘吐いて、大丈夫かなあ」

 僕は知らんぷりでコーヒーを啜った。彼女は一体どこまで見抜いているのだろう。気になるところだったが、自己防衛のため敢えて聞かないようにした。

 しばらくののち、静香が話題を変えた。

「ねえ、歯が治ったら、好きな物いっぱい食べたいですよね」

「そうだね。たしかにそうだ。静香は何が食べたい?」

「私、たこ焼きがいいです。昔から大好きなので」

 好きじゃなくて、大好きだと言い切るところがおかしくて、僕は思わず笑ってしまった。静香は素直な疑問を顔にしていた。

「たこ焼きが食べたいって、そんなに変ですか?」

「いや、別に」

「じゃあ岡本さんは何食べます?」

「たこ焼きかな。僕もたこ焼きが大好きだから」

 僕は相変わらず笑って言った。静香はむっとして、半ば押しつけるようにこう言った。

「食べたいものが同じなら、治ったら一緒に食べにいきましょう。たこ焼き」

 やはり僕は小馬鹿にするように「たらふく食べよう、たこ焼き」と答えた。

 ――いや、きっかけというものは案外強い魔力を持ってるね。このふとした会話のおかげで、最初は冗談だった静香も、結局最後は僕のことを、完全に「たこ焼き同志」だと思い込むようになったんだ。あまり大きい声じゃ言えないけれど、実は僕、いまだにたこ焼きなんて人並み程度にしか好きじゃないのにね。



 僕らは携帯で連絡を取り合って、電話で互いの治療経過を報告しあった。それで、お互い同時期に治療を終えるよう、予約を調整した。

 二人ほぼ同時に通院を終えると、その翌日、待ちかねたように僕たちは二人で出かけた。

 ショッピングデパート前の広場で、ほとんど毎日、たこ焼き屋台が出ていることを静香が教えてくれた。僕らはたこ焼きを二パック買い、その近くの公園でつまむことにした。

 僕はたこ焼き二パックをかかえ、静香を二の腕に掴ませて歩いた。静香は両手で僕の腕を強く握っていた。彼女がたこ焼きへ寄せていた期待が予想以上だったことを僕は知る。

 公園のベンチに並んで座って、パックを開く。片方を静香に渡し、爪楊枝を手に持たせた。僕は僕でもう一パックを開く。

 いただきます、と声をそろえて言った。我々は静かに、じっくりと味わうようにたこ焼きを食べた。

「おいしいです」と静香は言う。

 季節は秋だった。公園の敷地をいっぱいに枯れ葉が覆い、ひらひらと落ち葉が舞っていた。僕はたこ焼きを頬張りながら、静香のパックに落ち葉が落下してこないよう、細心の注意を払って見つめていた。静香は爪楊枝でたこ焼きを探るように刺し、そっと二個目を食べた。

「たこ焼きって、一石二鳥ですよね。一個で二度おいしい」

「なにそれ。どういうことかな」

 そして僕らは沈黙する。

 僕は静香の手元を見ていた。たこ焼きに落ちたのは枯れ葉ではなく、静香の涙だった。断言して言うけれど、静香の泣き顔を見たのは、これが最初で最後だった。

「だって、食べてもおいしいし、見た目だって、すごく可愛いじゃないですか」

 僕は何も言えない。ただ、彼女の閉じた瞼からこぼれる涙を、黙って見ていた。

「丸くて、ころころしていて、それがいっぱい並んでるんですよ。これに可愛いお口とか、ちっちゃいお目めとか付いてたら、そんなの私、可愛すぎて、絶対食べられません」

 そして静香は僕へと顔を向けた。たこ焼きのパックを差し出して、僕によく見せた。

「ねえ岡本さん。たこ焼き、丸いですか?」

「丸いよ」

「可愛いですか?」

「可愛いよ。すごく」

 彼女の手は震えていた。今にもたこ焼きのパックを取り落としそうで、僕はその手からパックを受け取り、ふたを閉じた。二つのパックを重ねて、二人の間に置いた。

「じゃあ、岡本さんはどんな顔をしていますか」

「僕は……」

 静香の手は、僕の顔へと伸びていた。いつまで経っても僕に届かないから、彼女の手を取り、頬に触らせた。静香の手はゆっくりと僕の頬を撫で、薄いひげの生えたあごを触り、唇を通って、鼻をなぞった。やがて、目元に触れる。

「泣かないでください」

 僕は首を振った。静香の手のひらは少しずつ濡れていく。彼女の手を取り、離させた。

「僕の顔は見えた?」

「ぜんぜん、見えませんでした」顔をうつむかせる。「でも、頭の中には、いっつも流れ込んでくるんです」

「流れ込んでくる」

「人の顔、風景が、いつまでも消えてくれないんです。半年前まで私が見てきた、みんなの顔。目を閉じても開いていても、電車の中でも、歯の治療中も、何かを食べていても、お風呂に入っていても、顔と風景の洪水が消えない。私の世界は半年前で止まったまま。忘れたくても忘れられない。どうしよう岡本さん。私、そのうち頭おかしくなっちゃう」

 静香はベンチを立ち、僕の胸に顔をうずめた。その拍子にたこ焼きが転がり、枯れ葉の地面に落ちていく。彼女はぎゅっと目をつむり、僕の胸へと顔を押しつけた。頭の中を浸食する洪水を押し殺そうとするように、強く押しつけていた。

 まだ乳房の縮みきっていない、僕の胸に。

「景色の中に、岡本さんがいない……」

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