嘘の声を聴くのは、もう疲れました
一度だけ、私は目を閉じた。
――薔薇の棘を、指で静かに落とす音を、聴いた朝のこと。
風にも、鐘にも、その指の音にも、嘘はなかった。
けれどそれはもう少し先の話で。今はまだ、婚約解消の場面から、始めなければならない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「お前の歪な耳は、もう要らない」
皇宮の春の茶会。午後の光が白布の上で跳ねる刻限に、婚約者は私にそう告げた。
ああ、やっと、終わる。
それが、最初に湧いた気持ちだった。悲しみではなく、怒りでもなく、ただ、3年間肩に載せていた荷物が、1つ、下ろせる。そんな種類の、静かな安堵。
彼の声には、3つの嘘が混じっていた。「歪な」のところで1つ、「もう」のところで1つ、「要らない」に至っては半分以上が震えていた。嘘をついている自覚すらあるのに、つい口にしてしまう人なのだ。3年間お付き合いして、それだけはよくわかった。
「かしこまりました、エルメント様」
私は答えた。自分の声にも偽りがないか、内心でもう一度確認してから。
「では、婚約解消の書面は、明日までに侯爵家へお届けいたします」
怒鳴りもせず、涙も見せない。ただ微かに頭を下げた。エルメント様は拍子抜けしたように口を開けて、それから白布の上の紅茶を手に取り直した。その手も嘘をついている。指が震えていたから。
茶会の客人たちがこちらを盗み見ている。皆の声が薄い波のように流れてくる。同情が3、嘲笑が2、安堵が1、興奮が1。7名分の感情が一度に流れ込み、私は一瞬、手摺りを探すように指を持ち上げかけた。人ひとり分の感情を、せめて1人分ずつで済ませてほしい。私の耳は、そんなに器用にできていない。
目眩を覚えかけた、そのときだった。
「ファルダン子爵令嬢」
奥の席から、1つだけ静かな声がした。
皇太子ライネス・アルデバラン殿下。金茶色の髪に、深い水色の瞳。24歳であらせられるその方は、穏やかにティーカップを置かれた。
「体調が優れぬようにお見受けします。薔薇園の方は風が通りますので、よろしければ」
その声は、波紋を立てなかった。水面に羽が落ちたような――と言えば近いかもしれない。いや、違う。落ちる音すらしない、そんな静けさだった。嘘も、悪意も、同情の過剰も、何も混ざらない。
私は、一瞬だけ、耳を傾ける癖を忘れた。忘れられたのは、20年で、初めてだった。
「……恐れ入ります。薔薇園にて少しだけ、風に当たらせていただきます」
答えながら、不思議でならなかった。こんな声が世の中にあることを、私は知らなかった。
エルメント様が、こちらを見ていた。その視線の中にも、嘘の揺らぎはあった。「面倒なことになった」「しかし済んだ話だ」。2つの声が、1つの視線に折り重なっていた。――もう1つ、薄く沈んでいるものがあった。「侯爵父上に、何と言い訳したものか」。これが、彼の本当の恐怖だった。3年間、ずっと、底に沈んでいたもの。
私は一礼して、茶会の席を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
子爵家の馬車の中で、私は目を閉じていた。
閉じた瞼の裏にも声は届くが、せめて目の奥くらいは静けさを欲しい。ファルダン家の紋章入りのクッションに背を預けて、私は3年分の疲弊の重さを量っていた。
――嘘の声を聴くのは、もう、疲れた。
その一言が、心の底から、ゆっくりと浮かび上がってきた。声に出したわけではない。けれど、生まれて初めて、自分の疲弊の名前を、はっきりと知った気がした。
正確に言えば、私は、怒らないと決めていたのだ。
怒る自分の声にも、嘘が混じるのが嫌だった。エルメント様への怒りは、本当はあった。ただ、その怒りを声に出した瞬間、私自身の声の下に、薄い嘘の膜が張るのがわかる。「許さない」と言っても、その下には、「許せる日も来るかもしれない」が沈んでいる。「憎い」と言っても、その下には、「3年の情はあった」が沈んでいる。私は、自分の声にまで嘘を混ぜたくなかった。だから、怒らなかった。怒らなかったことで、怒りは20年分、体の奥に溜まっていた。
――そして、エルメント様のことを、少しだけ、冷静に思い出した。
彼は、ロクサーヌ侯爵家の、血縁のない養子だった。傍系の遠い親類から、器量の良さだけで選ばれて、10歳で侯爵家に入った。侯爵家に残るためには、常に何か、役立つものを示し続けなければならなかったのだろう。3年前、彼が私の体質を知ったとき、真っ先に湧いたのは、「これは使える」という焦燥だったのかもしれない。――彼もまた、疲れていたのだ。使われる側と、使う側の、違う種類の疲労で。
だからといって、許せるかといえば、許せない。許さないまま、理解はする。この2つは、両立する。
私――サヴェット・ファルダンには、「声聴」と呼ばれる体質がある。
人の声の微細な揺らぎから、嘘と感情を聴き分けてしまう。便利な能力だと思われがちだが、冗談ではない。世の中の会話の半分以上は嘘で、残りの半分もどこかしら見栄か飾りである。要するに、社交界に出るということは、嘘の洪水に素手で飛び込むということだ。しかも、泳ぎ方を教えてくれる者は誰もいない。
物心ついた頃からこの体質はあった。3歳のとき、乳母の「大好きよ」が3種類に聞こえて、寝台の下で震えた記憶が最初のものだ。本当の大好きと、義務の大好きと、今日の給金を確保するための大好き。子どもにとって、それは世界が3つに裂ける感覚だった。
母は早くに亡くなり、父は社交が不得手で領地に籠もりがちだった。
祖父だけが、私の体質を理解してくださった方だ。
「サヴェットの耳は、人より真っ直ぐなものが聞こえるんだ。だから疲れるのだよ。真っ直ぐなものは、曲がったものより、ずっと重いからな」
そう仰って、祖父は私の頭をゆっくり撫でた。祖父の手は、大きいわりに、重くなかった。祖父の声には嘘がなかったから、重さが全部、優しさの方に逃げていたのだろう。
祖父もまた、同じ耳を持っておられたのかもしれない。若い頃、祖父は宮廷で重用されかけたが、自ら辞して領地に籠もられたと聞いていた。社交の場で「人の心が聞こえすぎる」と仰って、晩年は庭ばかり歩いておられた。――今にして思えば、祖父もまた、声聴であったのだろう。私の耳は、呪いではなく、血で繋がった贈り物だったのかもしれない。
亡くなる日の朝、祖父は私の手を握って「おまえは大丈夫だ」と仰った。その声にも、嘘はなかった。最後まで、祖父は、一度も嘘をつかないままだった。
私が18の年に、その祖父が逝った。以来、この耳が正しく機能してよかったと思える日は、1日もない。
この体質に気づいたエルメント様は、最初は私を珍奇な玩具のように扱った。次に、使用人の裏切りを嗅ぎ分けさせた。それから、商取引の相手の嘘を聴かせた。そしてついには、自分の浮気相手との会話まで判定させようとした。「お前の耳は、私の役に立つために存在する」と、彼は3年の間に繰り返し私に言った。その言葉の裏側には、常に薄い嘘の震えがあった。本当は、役に立つ以前に、私のことを一度も見ていなかったのだろう。
ふと、ライネス殿下の声が思い出された。
波紋の、立たない声。
あれは、何だったのだろう。
「お嬢様」
侍女のイルゼが向かいの席から声をかけてきた。20代後半の彼女は、方言交じりの敬体で話す。家付きの侍女で、私より3年ほど長くファルダン家にいる。
「お嬢様、わたくしが余計なこと申すようじゃございますが、あの殿下、まあ、お声がようございましたですね」
「……イルゼ」
「いやもう、見抜く目をば持たぬわたくしでも、ありゃ良い声じゃと思いましたですよ。ついでに申せば、エルメント様のお声は蠅でございました。ぶんぶん、耳元で、嘘でございます嘘でございますと。3年も耳元で蠅を飼ってらしたお嬢様、本当にお疲れさまでございました」
私は、つい笑ってしまった。声を出して笑ったのは、3年ぶりかもしれない。
「イルゼ、蠅は飼っておりません。勝手に寄ってきただけでございます」
イルゼは、少しだけ、声を落とした。
「お嬢様。わたくし、声聴はございませんですが、主人のお声の厚みくらいは、3年ありゃ、覚えますですよ。お嬢様のお声は、3年の間に、1年ごとに1段ずつ、薄くなっていかれました。わたくしは、それを、ずっと、聴いておりましたです」
馬車の車輪が、敷石の継ぎ目を越える音がした。嘘のない音だった。当たり前のことに、私は少しだけ、安堵した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
婚約解消から7日後。
皇帝陛下主催の、隣国ルクセイア王国使節団の歓迎茶会が皇宮で催された。
私は出席していない。ファルダン子爵家は婚約解消のあおりで社交界から一時的に身を引いていた。父はむしろ喜んで籠もっておられた。――社交が嫌いな方なので、理由ができて安堵しておられるようですらあった。
だからその日、皇宮で何が起きたのかを、私は翌朝の新聞と、その夜のイルゼの報告で知ることになった。
イルゼは、皇妃様付きのシェリール嬢という旧い侍女仲間から、文を通じて一部始終を聞き出してきた。茶を淹れながら、彼女は語った。
「それが、お嬢様。まさか、のようなお話でございましたです」
「まさか」
「はい。ルクセイアの使節団はですね、冒頭からたいそう愛想がよろしかったそうで。けれどですね、乾杯の後、使節団長が胸元から取り出された条約案、あれが、くせ者でございました」
イルゼの語り口を聴きながら、私は目を閉じた。耳を澄ますのではなく、むしろ、音だけに集中するために。
大広間の空気。白布の長卓。羽根ペンの軽い音。使節団長の低い声。――私がその場にいたならば、最初の一言で、彼の声の裏を聴き取っていたろう。
「文面はごく穏やかなもの。東部の通商を促進する、友好を深める、という類。けれど、23条のうち、第7条、11条、18条の3箇所に、言質の取り方が仕込まれておったそうで。3年後に『既に合意済み』と主張できる文言が、静かに紛れておったのでございますよ」
「……3条」
「東部の村、3つぶん。もし気づかれぬまま署名されておりましたなら、3年後、紙の上では他国のものになっておったのでございます」
私は、茶碗を握る手を止めた。
「陛下の側近様方は、どなたも気づかれなかった。使節団長の『これは皆さま方のためでもある』という一言、そこに滑り込まされた嘘の揺らぎ、それを聴ける者がその場におられなかったのでございます」
「……」
「陛下の側近の1人が、羽根ペンをインクに浸されましたそうで。羽の先がインクの黒に沈む音、それが大広間の端まで聞こえたと、シェリール様は書いてこられました。その瞬間、殿下が立ち上がられた」
イルゼは、茶を注ぎ足してくれた。
「『留保を申し入れる』と、殿下は静かに仰った。『我が宮廷には、もともと、声の揺らぎから真偽を見抜く顧問職が設けられている。しかし目下不在のため、数日の猶予を賜りたい』と」
「……顧問職」
「はい、お嬢様。陛下は微笑まれた。そして、使節団長が、小さく一度、咳払いをなさった。ごほん、と、たった一音。お嬢様がその場におられましたなら、即座に嘘の前触れと聴き分けられた音でございましょう」
「……咳払いは、喉の奥で言葉が最初に嘘を組み立てる音です。聴き慣れた者にはわかります」
「その、聴き慣れた者が、この国に、お1人しかおられませんのですよ。――退出の際、控えの間で、使節団長のご子息が『これほど簡単にいくとは』と小声で漏らされたそうで。アルデバラン語ではなかったから、翻訳官以外は咎めなかった」
私は、茶をゆっくり飲んだ。熱かった。
「条約は、翌日、翻訳官総出で再検討されました。2日かけて、ようやく東部租借の仕掛けを見つけ出されたそうで。翌朝、陛下が直々に殿下へお礼を述べられた。『そなたの留保がなくば、我が国は1つの大失敗を記録に残すところであった』と」
「イルゼ」
「はい、お嬢様」
「宮廷の嘘判定役、というお話、あなたはお聞きになったことがおありですか」
「ございませんですね。シェリール様も『そんな職、聞いたことがない』と、わざわざ書き添えてこられました」
「つまりは、殿下が、あの場で」
即興で、でっち上げた。
私の不在を埋めるために。
頭の中で、何かが、かちりと鳴った気がした。――殿下は、私を、必要としてくださった。単なる観察者ではなく、私の不在を、国家の前で、即興でまで埋めようとしてくださった。この事実の重さが、ゆっくりと体に落ちていった。
「イルゼ」
「はい、お嬢様」
「私は、殿下のあのお声を、もう一度だけ、近くで聴いてみたいのです」
イルゼは、少しだけ目を細めた。それから小さく頷いた。
「存じておりますですよ、お嬢様」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の午後、皇宮から正式な招状が届いた。
差出人は皇太子殿下。要件は「声聴の顧問職について、ファルダン子爵令嬢と面談の機会を賜りたい」。
謁見、ではなく、面談。その一語の選び方に、殿下の気遣いが沈んでいた。
面談の日取りは、3日後。場所は、皇宮の東庭――薔薇園。
私は招状の文字を3度読み返した。嘘の揺らぎは、文字からは聞こえない。だから余計に、この招状の意味を測りかねた。しかしイルゼは、もう旅支度を始めていた。
「お嬢様、本日は髪を結わせていただきますです。お嬢様が3年間ろくに装われなかったツケを、3日で返さねばなりませんですからね」
「……3年間、ろくに装わなかったツケ」
「エルメント様がお嬢様に宝石をねだらせなかったことだけは、あの方の唯一のお手柄でございましたですね。お手柄というよりは、単なる吝嗇でございましたかもしれませんが」
「イルゼ、訂正が入るのが早うございます」
「なにぶん真実は、口から自ずと出てまいりますもので」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
3日後。
皇宮の薔薇園は、ちょうど開花の端境期だった。蕾がほどけかかり、まだ香りは薄い。石畳の小径を、私は一歩ずつ歩いた。耳を澄まさないように、歩幅を数えることで意識を保ちながら。
17、18、19――
小径の先、石段のある開けた場所に、ライネス殿下は立っておられた。
近衛の姿はない。侍従もいない。ただ殿下お1人が、春風の中で薔薇を見ておられた。人のいない庭を好まれる方だ、と私は不意に思った。それから、その意味の重さに、少しだけ胸が痛んだ。
「殿下」
私は一礼した。
「ファルダン子爵令嬢、お越しいただき感謝する」
殿下の声が、また、波紋を立てずに届いた。
「本日は、声聴の顧問職について、貴女の意向を伺いたく呼び立てた。が、その前に、1つだけ確かめたいことがある」
「はい」
「3年前の春、ちょうど今日と同じ頃合いに、貴女はこの薔薇園の西側の石段に座っていた。覚えておられるか」
私の心臓が、一度だけ跳ねた。
「……祖父の、葬儀の帰りでございました」
「そうだ」
殿下は、一歩だけ近づかれた。
「貴女はあの日、石段に座って、一度だけ、声を出して泣かれた。誰もいないと思っていたのだろう。だが、そこに私がいた」
「……」
「私は、当時この庭の手入れを口実に、よく1人で過ごしていた。人の多い場所にいると、体調を崩すたちでな。貴女の泣き声は、近くの生垣の向こうから聞こえた」
殿下は、薔薇を1本折り取られた。棘を指でそっと落とす、かすかな音がした。
「私の体質について、少し話しておこう。私は、他人の悪意のある声を聴くと、体が共鳴して微熱を出す。子供の頃からの持病のようなものだ。母上の声にすら、時々反応した。寝台から出られない日が、月に数日あった。社交の場に出るようになってからは、柱のそばに身を寄せる癖がついた」
殿下は、少しだけ、視線を落とされた。
「もう1つ、厄介なことがある。――悪意の声を聴いた日の記憶は、薄れるのだ。体が熱を出して、その熱が引く頃には、何を聴いたか、細部が思い出せなくなる。――だから、私は、書き留めるしかない。貴女を見ていた3年間の記録は、愛情というより、私自身の記憶を守るための、防衛だった。――そのことだけは、先に申し上げておきたかった」
私は、息を止めた。――殿下の「観察」が、愛ではなく、生き延びるための営みだったことを、初めて知った。
「そして、最後に、もう1つ」
殿下は、私を見られた。
「――貴女の『声聴』と、私の『共鳴』は、おそらく、同じ体質の、2つの顕れ方だ」
「……」
「貴女は、他人の声の揺らぎを聴き取る。私は、他人の声の揺らぎに体が反応する。受け取る側か、響いてしまう側か、の違いでしかない。――これは、古い文献に、僅かに記録が残っている。『声の網』と呼ばれていたそうだ。世界に数人しか持たないと言われる、稀な系統だ」
殿下は、薔薇を1本、私の指に沿わせられた。
「だから、貴女の泣き声は、私の体に、波紋を立てなかった。――同族の声は、共鳴を起こさないのだ。以来、私は、貴女を見ていた。貴女が、私が20年間、一度も会えなかった、ただ1人の同族だったから」
風が、薔薇園を通り抜けた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
殿下は、懐から薄い冊子を取り出された。革表紙の、手帳ほどの大きさのものだった。折り目のついた頁の端が、3年分の時間の重なりを示していた。
殿下は、最初のページを、指で軽く撫でられた。
「最初の一行は、こう書いてある。『西の薔薇園、生垣の向こう、泣き声』。それ以上は、何も書いていない。3年前の、あの日の分だ」
私は、息を詰めた。
「読み上げてもよいか」
「はい」
殿下は、次のページを開かれた。
「社交界デビューの夜。貴女の挨拶の声は、3度裏返った。最初の一度は、西翼の階段で。マリンデル伯爵夫人が『可愛らしいお嬢さん』と仰った直後だった。伯爵夫人は、その朝、侍女に『地味な子爵令嬢が出てくるらしい』と囁いておられたそうだ」
私は、石畳に視線を落とした。あの夜の階段の手摺りの冷たさが、指先に蘇った気がした。
「2度目は、大広間の入り口。青年貴族の1人が『まさにご令嬢の噂通り』と申したときだ。彼は貴女のことをなにひとつ知らずに、ただ列に並んでいただけだった」
薔薇の茎を、私は握り直した。
「3度目は、陛下への御目通りを終えて扉を出た直後。廊下で、どなたかが貴女を『次期侯爵夫人』と囁いた。貴女はまだ、婚約内定もなかった頃合いだ」
私は、呼吸を浅くした。
殿下は、次のページを開かれた。
「昨秋の、東宮主催の晩餐会。貴女はクレソンのスープのときは目を開けておられたが、次の魚料理――ハーブをふんだんに使った包み焼きが出た瞬間、わずかに目を伏せられた。香りの強い料理は、耳の感度を和らげる。貴女にとって、食事は、ひそかな休息の時間だった」
殿下は、少しだけ眉を下げられた。
「食事の間だけ、少しだけ、息が吐けるのだな、と、私は気づいた。気づいてから、毎晩の献立表を取り寄せるようになった。貴女のお席の前後に、香辛料の強い料理が続くよう、料理長に頼んだことも、一度だけある」
私は、目を上げた。殿下は、少しだけ、目を逸らされた。照れておられた。
「先月の舞踏会。貴女はエルメント卿の腕に手を預けられた。『春の水車小屋』のワルツ、ちょうど中間の部分。貴女の手は、3度震えた。1度目は、彼が『愛している』と囁いた直後。2度目は、彼が『お前ほどの令嬢はほかにいない』と言ったとき。3度目は、彼が別の令嬢の方を見ながら『今夜は早めに帰ろう』と申したときだ」
曲名まで覚えておられる、と、私は声を失った。
「私は、柱のそばで、それを見ていた。ただ、見ていることしか、できなかった」
殿下の指が、冊子の縁を一度だけ撫でた。そして、ふと、手を止められた。
「貴女に、告白しなければならないことが、もう1つある」
「はい」
「私は、3年間、貴女を見ていたのに、助けに入らなかった。貴女の婚約者を断罪することができなかった。私の体質は、人の多い場所で、微熱を出す。社交の場に長くいると、動けなくなる。それは本当のことだ。けれど、それだけが理由ではなかったようにも思う」
殿下は、視線を少し落とされた。
「私が声をかければ、貴女と皇家の距離が社交界で注目される。その注目が、貴女の疲弊をさらに深めるかもしれない、そう思って、私は3年間、柱のそばに留まっていた。だが、それは、結局のところ、私自身が恐れていたのだと思う。貴女の耳が、私の声もまた嘘として聴くかもしれない、と」
「……殿下」
「貴女を3年間、疲弊させ続けたことには、私の臆病の責任が、確かにある。だから、この告白は、半分は懺悔だ」
殿下は、それから、最後のページを開かれた。
「先々月の、御祖父様の追悼式。『祖父の声は、いつも重くありませんでした』という一節。あの声の震えだけが、この1年で、私が聴いた中で唯一、嘘ではない震えだった」
私の胸の奥で、祖父の手の感触が、かすかに動いた気がした。
「そして、先週の、婚約解消の場。『かしこまりました』。あの、たった7文字の声。私は、柱の陰で、それを聴いていた。罵倒でも、嘆きでもない。貴女は、疲れていた。ただ、ひどく疲れておられた」
「……殿下」
「貴女を、もう一度、疲れさせたくないのだ」
殿下は、最後のページを指で撫でて、それから、ゆっくり、冊子を閉じられた。
「――これで、記録は、おしまいだ」
私の、喉の奥が、一度だけ詰まった。
誰も、見ていないと思っていた。誰にも、聞こえていないと思っていた。嘘の洪水の中で、自分の真の声だけは、自分ひとりのものだと思っていた。
違った。1人だけ、いた。同族だった。しかも、その1人は、自分が臆病だったことまで、正直に認めている。
「殿下」
「なんだ」
「実は、私からも、1つ、申し上げたいことがございました」
「聞こう」
「先日の茶会で、殿下のお声を聴いた瞬間、私は、耳を傾ける癖を忘れました。20年で、初めてでございます。あのお声は、嘘以前に、波紋そのものが、ございませんでした。殿下のお声は、私の耳にとって、初めての、静けさでした」
殿下は、しばらく、何も仰らなかった。
「……そうか」
それだけを、仰った。けれど、声の底に、わずかな湿りがあった。嘘ではなかった。喜びの湿りだった。
私は、もう一歩、踏み込んだ。――生まれて初めて、誰かに、甘えようとしていた。
「殿下。お尋ねしても、よろしいでしょうか」
「何なりと」
「――お疲れになったとき、私は、どうしたらよろしいでしょうか」
殿下は、目を見開かれた。それから、ゆっくりと、仰った。
「……隣に、いてくれればよい。声を出さずとも。――共鳴を起こさない声の主が、傍にいてくれれば、私の熱は、下がる」
その答えは、私にだけ、意味のある答えだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「差し出がましいお願いを、申し上げます」
私は、静かに続けた。
「聞こう」
私は、一度、深く息を吸った。そして、生まれて初めて、この言葉を、声に出した。
「――嘘の声を聴くのは、もう、疲れました」
「……」
「少しだけ、目を閉じさせてくださいませ」
殿下は、何も仰らなかった。冊子をそっと胸の内に戻されて、一歩、距離を取られた。
私は目を閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
春の風が、頬を撫でた。風には、嘘がない。風はただ、吹く。
遠くで鐘が鳴った。鐘には、嘘がない。鐘はただ、鳴る。
殿下の衣擦れの音が、近くで、静かに動いた。衣擦れには、嘘がない。布はただ、擦れる。
私の呼吸の音が、自分の耳に戻ってきた。私自身の呼吸にも、嘘がない。呼吸はただ、続く。
耳が、ようやく、休める。
3年間、いや、生まれてから20年、休む間もなく嘘を聴き続けてきた耳が、この庭で、初めて、静かになっていた。嘘のない音というものが、これほど、まろやかで、丸く、温かいものだとは、私は、生まれて初めて知った。
肩の力が、ゆっくり抜けた。首の後ろの筋が、1つずつ、緩んだ。指の先まで、冷たかった血が、じわりと温かくなった。私は、自分が20年ずっと、肩を上げたまま生きていたことに、このとき初めて気づいた。
そして、祖父の手の感触が、戻ってきた。
大きいわりに、重くなかった、あの手。「おまえは大丈夫だ」と、嘘なく仰った、最後の朝の声。祖父の記憶は、亡くなってからの2年間、ずっと、他人の嘘の声に上書きされて、少しずつ薄れていた。けれど今、嘘のない世界の中で、祖父の手が、祖父の声が、ようやく、元の重さを取り戻して、私の元に帰ってきた。
祖父も、この庭に立ったことがあるのかもしれない。祖父の耳もまた、静けさを探して、宮廷を去ったのだろう。――そうだとしたら、この耳は、祖父から私への、手紙のようなものだ。
そして、もう1つ、発見したことがあった。
嘘のない音は、美しい。これまで、私にとって聴覚は、ただ消耗する器官だった。けれど、嘘のない世界の中では、耳は、喜びを運んでくる器官なのだった。風の音、鐘の音、衣擦れ、呼吸、薔薇の蕾がほどける、耳に聞こえぬほどの、微かな音までも。
頬に、何かが一筋、流れた。
涙が流れたのだと気づいたのは、しばらく経ってからだった。
――3年前、同じ庭で、私は祖父を失って泣いた。あの涙は、喪失の涙だった。今、同じ庭で流れているのは、祖父が帰ってきた涙。――人は、同じ場所で、2度、別の質の涙を流すことができるのだと、私はこのとき、知った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ファルダン子爵令嬢」
殿下の声は、やはり波紋を立てずに届いた。
私は目を開いた。殿下が、棘を落とした薔薇の1本を、私の手に渡そうとしておられた。茎の断面は、まだ、わずかに湿っていた。
「顧問職の話は、忘れてくれてよい」
殿下は、一度だけ、視線を逸らされた。その仕草にも、嘘の揺らぎは1つもなかった。
「私の隣で、声を聴く必要のない場所に、いていただきたい」
「……」
「貴女の耳は、歪んでいるのではない。世の中が、貴女に合わせて静かになるべきだった。それができぬまま20年、貴女を疲弊させてきた。その責任の、せめて一部を、私に負わせてもらえないだろうか」
「殿下」
私は、薔薇を受け取った。
「これは、私にしか、おっしゃれないお言葉でございましょう」
殿下は、微かに笑われた。
「ああ。私はこれまで、誰にこの言葉を告げようとしても、相手の心に届かなかった。『共鳴』の体質のことも、人のいない庭を好む理由も、誰に話しても『ご病弱でらっしゃるのですね』の1語で片付けられた。貴女以外の全ての人間は、私の声の波紋を、自分の波紋で、すぐに上書きしてしまう」
殿下は、薔薇をゆっくり、私の指に沿わせられた。
「貴女だけが、私の言葉を、言葉のまま、受け取れる。だから、これは、私から貴女へしか、言えない言葉なのだ」
殿下は、少しだけ、息を吸われた。
「これからは、貴女の耳は、美しい音だけを聴けばいい。嘘の声は、これから、私が受け持とう。私には、共鳴がある。嘘を聴くと、熱を出す。――それは、貴女の耳の代わりに、私の体が、少しだけ果たしてくれる仕事だ。貴女が20年独りで背負ってきた仕事を、これからは、私が引き受ける」
そして、殿下は、一歩、踏み出された。――3年間、柱のそばで動かなかった方が、このとき、初めて、動かれた。そのまま、私の空いている手を、静かに、取られた。殿下の手は、少しだけ、熱かった。
共鳴で、微かに熱を出しておられるのだと思った。――私の手を取るという、それだけのことに、殿下の体は、24年分の緊張で、応えておられた。
私は、薔薇を胸元に抱いたまま、殿下の手を、握り返した。
「……殿下」
声が、もう一度、詰まった。
「私は、今日から、嘘の声を聴くのを、辞めてもよろしいのでしょうか」
殿下は、頷かれた。
「役目として、ではなく」
一拍。
「――私の隣で」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
エルメント・ロクサーヌ卿の処遇は、その翌週に決着した。
声聴顧問職の正式任命式――とはいえ、実質は私とライネス殿下の婚約内定の発表の場でもあった――において、彼は招かれざる客として皇宮に押しかけてきた。
「サヴェットの婚約解消は誤解だった」と、彼は皇太子殿下の御前で主張した。「お互いに感情の行き違いがあっただけで、本来あの場で解消を申し出たのは私ではない」「サヴェットは私をこそ頼りにしてきた」「私は3年間、彼女を深く愛してきた」
その主張の、4つすべてに、嘘の震えがあった。――けれど、このとき、私は、意識して、耳を閉じた。いや、正確には、閉じたのではない。聴こえていても、受け取らない、と決めたのだ。これが、私が、人生で初めて、自分の意志で「聴かない」と選んだ瞬間だった。
――エルメント様の声の底には、3年前と同じ「侯爵家で使える者だと示さねばならない」という焦燥が、今も沈んでいた。彼は、3年前と何一つ変わっていない。彼は、変われないまま、詰まれたのだろう。それも、私の仕事ではなくなった。
代わりに、殿下が、静かに仰った。
「ロクサーヌ卿。貴殿の声には、先ほどから4度、共鳴が生じている」
「は――」
「私の体質のことは、ご存じあるまい。貴殿の言葉は、半分以上が嘘だ。嘘をつく者の声は、私の体に微熱を生む」
殿下は、微笑まれた。その微笑みには、嘘はなかった。むしろ、どこか、愉快そうですらあった。
「私が今、微熱を出している。これは、皇家の医師が証言できる。医師殿、いかがか」
脇に控えていた皇家医師が、恭しく頷いた。懐から検温のための銀の棒を取り出し、記録簿を広げた。
「殿下のお体温は、卿が入室されてから2度、上昇しております。時刻はこちらに記録してございます。最初の上昇は『解消は誤解だった』の一言、2度目の上昇は『頼りにしてきた』の一言と、正確に一致いたしておりまする」
エルメント様は、絶句された。襟元を掴もうとした指が、空を掻いた。
侯爵家の名誉規定により、皇家の前で虚偽を陳述した者は、即座に養子縁組を解消される。皇家医師の記録はそのまま証拠書類として採用された。彼は侯爵家から除籍され、翌春の貴族人名録から、ロクサーヌの姓は消えた。子爵家であるファルダン家には、婚約解消に関する正式な慰謝料が皇家の名において支払われた。
全て、私は立ち会ったが、一言も発しなかった。そして、一度も、聴かなかった。
イルゼは後日、私にこう申した。
「お嬢様、蠅は殿下の御前で自ら網に飛び込んだのでございますね」
「イルゼ、もう蠅の話はやめましょう」
「畏まりました。今後は、春のそよ風でも吹いたように振る舞いますです」
「……それは訂正になっておりませんですよ」
「なにぶん真実は、口から自ずと出てまいりますもので」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
皇宮の東の庭、薔薇が満開になった頃。
私は、ライネス様の肩にもたれて、目を閉じていた。長椅子に並んで座り、膝の上に、棘を落とした薔薇を1本置いて。
「お嬢様、そろそろお茶の時間でございますですよ」
遠くから、イルゼの声が飛んできた。私は、ゆっくりと目を開けた。
イルゼが、銀のトレイを手に、小径を歩いてこられるのが見えた。彼女は、私の顔をじっと見て、それから、少しだけ、微笑んだ。
「――お嬢様のお声が、ようやく、元の厚みに戻ってまいりましたですね」
私は、答えなかった。答えなくて、よかった。イルゼは、3年間、ずっと聴いてきた人だから。
イルゼは、何事もなかったように、お茶の支度を始めた。ティーカップがソーサーに触れる音。湯気の立つ音。――嘘のない音ばかりだった。
隣で、ライネス様が、静かに私を見ておられた。
「ライネス様」
私は、2度目に、その名前を呼んだ。1度目より、少しだけ、柔らかく呼べた。
「なんだ」
「あなたのお声は、風に似ていますね」
「それは、褒め言葉と受け取ってよいものか」
「最上の、褒め言葉でございます。風には、嘘がございませんから」
ライネス様の笑い声にも、やはり、嘘の揺らぎは1つもなかった。
ライネス様が、私の頭に、そっと手を乗せられた。大きいわりに、重くなかった。祖父の手と、同じ重さだった。祖父の手の上に、ライネス様の手が、静かに重なったような気がした。
私は、もう一度、目を閉じた。
ライネス様の肩は、温かかった。薔薇の香りが、風に乗って運ばれてきた。イルゼのお茶を注ぐ音が、遠くで静かに聞こえていた。ティーカップがソーサーに触れる音。湯気の立つ音。薔薇の蕾が、遠くで、ほどけていく微かな音まで、この耳には、聞こえた。
遠くの鐘の音が、1つずつ、春の庭を、通り抜けていった。
嘘のない音だけを選んで、聴いていく。
――私は、初めて、自分の呼吸の音を、最後まで、静かに、聴き届けた。
私の耳は、もう、疲れていなかった。
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