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凡人枠シリーズ

悪役令嬢、断罪されたけど問題児はいません ~前世がスクールカウンセラーなので、王子も聖女も「問題を抱えた子ども」に見えます~

掲載日:2026/03/13

一 断罪イベント発生


 王立アルカディーネ学園、卒業記念舞踏会。


 広間は華やかだ。シャンデリア。オーケストラ。正装の貴族たち。テーブルに並ぶ料理。——あのチーズのグラタン、美味しそうだ。前世の中学校の給食で出たチーズグラタンは、チーズが薄くて悲しかった。あれに比べたら異世界の宮廷料理は天国である。転生して一番良かったことは、給食がなくなったことだ。


 私は果実水のグラスを傾けながら、広間の端で人間観察をしていた。


 スクールカウンセラー(SC)の職業病だ。大勢の人がいると、つい一人一人の表情を読んでしまう。あの令嬢は笑っているが目が笑っていない——家庭に問題がある子の笑い方だ。あの令息は友人グループの端にいるが、会話に入れていない——排除の兆候がある。あの教師は酒を飲みすぎている——業務ストレスだ。年度末はSCの仕事も溜まるからね。


 ——いかん。ここは異世界の舞踏会だ。教職員の歓送迎会ではない。


 さて。


 そろそろだ。


 乙女ゲームのシナリオ通りなら、今日、この場所で「断罪イベント」が発生する。


 第二王子ユリウス・クリストフ・アルカディーネが立ち上がった。


 金色の髪。青い目。背が高い。顔がいい。——前世の高校で、こういう顔の男子生徒がいた。部活のキャプテンで、成績もそこそこで、女子にモテていたが、実は家庭が複雑で、カウンセリング室に時々来ていた。イケメンだから悩みがないわけではない。むしろ、イケメンだからこそ「弱さを見せられない」プレッシャーがある。


 ——いかん。王子を分析するのは後にしよう。


「アンネリーゼ・フォン・ヴェルトハイム!」


 来た。


「お前の罪を、この場で明らかにする!」


(——来ましたね、殿下)


 私の名前はアンネリーゼ・フォン・ヴェルトハイム。十八歳。ヴェルトハイム侯爵家の令嬢。


 前世の名前は川島多恵子。四十八歳で亡くなった。公立中学校・高等学校のスクールカウンセラー。勤続二十三年。相談件数は通算一万件を超える。


 交通事故だった。学校からの帰り道、横断歩道で。最後に見たのは信号の色ではなく、明日の面談予定が入っているスケジュール帳だった。——ああ、あの子の面談、誰か引き継いでくれたかな。


 次に目を開けた時、目の前にいたのは、転生管理局の窓口担当ツクヨの申し訳なさそうな笑顔だった。


 真っ白な空間。安っぽいカウンター。とんがり帽子の青年。——前世の中学のカウンセリングルームより殺風景だった。あっちはまだ観葉植物があった。予算がなくて造花だったが。


「川島多恵子さん。四十八歳没。死因は交通事故。転生先は乙女ゲーム世界、配役は悪役令嬢です」


「乙女ゲーム……?」


「えーと、女性向けの恋愛ゲームで——」


「ああ、知ってます。前世の中学生がよくやってました。推しがどうとか。——それで、私の役は」


「悪役令嬢。ヒロインの聖女ミサキをいじめる嫌な先輩です。卒業パーティで王子に断罪されて終了、というのが原作のシナリオです」


「なるほど。——で、お約束のチートは?」


「ありません」


「ですよね」


「えーと、強いて言えば『共感力』と『観察力』が人類平均の……二・八倍です」


「それ、私のものでしょう?スクールカウンセラーを二十三年やれば誰でもそのくらいになりますよ」


「でしょうね……」


「ツクヨさん」


「はい」


「この世界の登場人物のケースファイルはありますか。王子、聖女、その他の主要人物の家庭環境、生育歴、対人関係のパターン。——面談の前に資料が欲しいんです」


「……ケースファイル?」


「カウンセリングの基本です。相手の背景を知らないまま面談に臨むのは素人のやることです」


「えっと……乙女ゲームの攻略情報でよければ……」


「それでいいです。ください」


 ツクヨがおろおろしながら渡してくれた資料は、乙女ゲームの攻略Wikiを印刷したものだった。印刷がかすれている。トナー節約モードで印刷したな。——前世の中学で、担任から引き継いだ生徒の個人票より情報量が少なかった。でも、ないよりはましだ。


「あ、それと——川島さんは『凡人枠』——チートなしの転生者です。過去に先輩もいますよ。クレーム対応のプロの松田さんとか、弁護士の橋本さんとか」


「凡人枠の先輩。——心強いですね」


 そして転生した先で待っていたのが——侯爵家の豪邸と、「悪役令嬢」という役割だった。目を覚ましたのは、「断罪イベント」の半年前。元のアンネリーゼが過ごしてきた十八年分の記憶が一気に流れ込んできた。彼女の記憶も、彼女の言動も、今では自分のものだ。


 半年かけて状況を把握した。王子もミサキも、元のアンネリーゼが作ってしまった溝が深く、面談すら拒否された。だから私は、彼らの感情が爆発し、公の場で向こうから接触してくる「この日」を待っていた。


 チートはない。当たり前だ。スクールカウンセラーにチートがあったら苦労しない。前世で何度思ったか。「この子の心の傷を一瞬で治す魔法があれば」と。でも、そんなものはない。前世にも、異世界にも。


 ——それに、この世界には魔法がある。前世の心理学の常識が、そのまま通用するとは限らない。半年かけて観察した結果、人の心の仕組み自体は前世と変わらないと分かったが——油断はできない。


 持っているのは、「人の背景を見る技術」だけ。


 乙女ゲームの悪役令嬢の武器としては、歴代最弱だろう。でも、スクールカウンセラーの武器としては——これしかないし、これだけで十分だ。




二 ケースの見立て


 クレーム対応のプロは「初動三十秒」が勝負だと聞いたことがある。凡人枠の先輩・松田さんだったか。


 スクールカウンセラーは違う。初動は「観察」だ。


 まず、この場にいる全員を見る。誰が何を感じているか。表情、姿勢、視線の方向、手の動き。


 王子ユリウス——怒りの表情だが、拳が震えている。怒りの裏に不安がある。「本当にこれでいいのか」と迷っている。自分の判断に自信がない人の手の震え方だ。前世の生徒指導主事がいじめ加害者を叱る時に、同じ震え方をしていた。あの先生も、本当は叱りたくなかったのだ。


 聖女ミサキ——王子の隣に立っている。王子のエスコートで特別に出席している下級生だ。栗色の髪。大きな瞳。控えめな白いドレス。目が潤んでいる。——だが、涙の出方が不自然だ。本当に悲しい人の涙は、こぼれ落ちる。演技の涙は、目に溜まったまま光る。前世で何百人もの中学生を見てきた目は、その違いを見逃さない。


 ただし——。


 ここが大事なところだ。


(涙が演技だからといって、この子が「悪い子」とは限らない)


 スクールカウンセラーは、行動だけで人を判断しない。行動の裏にある「ニーズ」を見る。


 嘘泣きをする子には、嘘泣きをしなければならない理由がある。


 いじめっ子には、いじめなければならない理由がある。


 ——問題児の背景を見る。それが、スクールカウンセラーの仕事だ。


「殿下。お話を伺います」


 声を落ち着けて言った。前世のカウンセリングルームで使う声だ。「あなたの敵ではありません」と伝わるトーン。スクールカウンセラー養成の授業で一年かけて身につけた声。先輩の松田さんは「お客様対応ボイス」と呼んでいたらしいけど、カウンセラーはもう少し柔らかい。「あなたの味方です」が、カウンセリングボイスの本質だ。


「お前の罪は——」


「殿下」


 穏やかに遮る。遮り方も技術だ。相手の話を止めるのではなく、一拍の間を作る。


「一つお願いがあります。——お座りになって、お話しいただけますか?」


「……座る?」


「はい。立ったままだと、お互いに緊張が高まります。座ったほうが、落ち着いてお話しできます」


(カウンセリングの基本。立位での対話は対立を生みやすい。座位での対話は協調を生みやすい。物理的な目線の高さが揃うことで、心理的な対等性が生まれる。——前世の恩師「鉄のおばあちゃん」宮田教授が口酸っぱく言っていた。「川島さん、カウンセリングは座ってやりなさい。立ってやるのは喧嘩です」)


 王子が、一瞬迷った。そして——壁際の休憩用の長椅子に、座った。

 私も静かに、真正面を避けて少し斜めの位置に腰を下ろした。目線の高さを揃える。——ミサキだけが立ったまま、座った二人を見下ろす形になった。


 広間がざわめいた。断罪イベントで、王子が座った。前例がない。

 後方で令嬢たちがささやき合っている。「座った……?」「断罪で座るの初めて見た」「というか、あの令嬢、何をしたの?」「何もしてない。『座ってください』って言っただけ」「それだけで王子が座ったの?」。

 ——それだけだ。でも、「それだけ」ができるかどうかが、プロとアマチュアの差だ。


(よし。——座った時点で、この場は「裁判」から「面談」に変わった)




三 傾聴と観察


 王子が告発を始めた。


「第一に、お前はミサキをいじめた。花園で場違いだと言い——」


「はい」


 私は頷いた。否定しない。最初は聞く。——事実を認めたのではない。殿下が「そう主張していること」を受容したのだ。公の場でも、この原則は変わらない。


 最初の五分は口を挟まない。相手が話し終わるまで聞く。途中で反論すると、相手は「聞いてもらえなかった」と感じ、怒りが倍になる。ただ聞く。頷く。相槌を打つ。——カウンセリングの鉄則その一だ。


「第二に、婚約者なのに俺に冷たかった——」


「はい」


(——これは事実だ。前世の四十八歳のおばさんが、十代の王子に恋愛感情を持つのは無理がある。ただし、冷たかったという指摘自体は受け止める。「冷たい」と感じさせたのは、私の対応の問題だ)


「第三に、お前は傲慢で——」


「はい」


 王子はそれから数分間、溜め込んでいた鬱憤を吐き出し続けた。私は一切反論せず、ただ頷き、受容し続けた。


 全部聞いた。前世の面談記録を脳内で整理するように、三つの告発を分類する。


 ただし、ここでスクールカウンセラーが行うのは「反論」ではない。


 「見立て」だ。


(スクールカウンセラーの「見立て」とは何か。——目の前の問題を、生物学的・心理学的・社会的な三つの軸で俯瞰すること。BPSモデルと呼ばれる。Bio(身体)、Psycho(心理)、Social(社会環境)。問題行動だけを見てはいけない。その裏にある背景を見る)


 王子ユリウスの「見立て」。


 Bio:十八歳。思春期後期。ホルモンバランスが不安定。衝動性が高い。——要するに、血気盛んなお年頃だ。前世の脳科学の知見では、判断力や感情制御を司る前頭前皮質が成熟するのは二十五歳前後。十八歳は体は大人でも、脳はまだ発達途中だ。しかも、この世界の貴族の子弟は幼い頃から周囲に守られ、挫折経験が少ない。精神的な成熟は実年齢よりさらに遅い。——前世の高校でも同じだった。恵まれた家庭の子ほど、初めての壁にぶつかった時に脆い。


 Psycho:婚約者に「愛されていない」と感じている。自己肯定感が低い。王位後継者としてのプレッシャー。兄王子が病弱なため、実質的な後継者として育てられたストレス。——前世の高校で見た「期待されすぎる長男」と同じパターンだ。あの子も、病気の兄の分まで「お前がしっかりしろ」と背負わされて、心が壊れていた。


 Social:聖女ミサキの影響。ミサキは王子の「承認欲求」を巧みに満たしている。「あなたは正しい」「あなたは素敵」。——前世の中学で、「先生、あの子は悪い子です」と訴えてくる生徒がいた。その子は悪い子を作ることで、自分の立場を確保していた。


(王子は——「問題児」ではない。「問題を抱えた子ども」だ)


(そして、ミサキも——)


 聖女ミサキの「見立て」。


 平民出身。家庭環境は不明だが、推測はできる。貴族社会に入った平民の少女は、常に「場違い」の不安を抱えている。その不安を解消するために、自分の「味方」と「敵」を作る必要がある。味方は王子。敵は悪役令嬢。——これは「適応戦略」だ。悪意ではなく、生存のための本能。


(スクールカウンセラーは、加害者にも共感する。嫌がらせをする子にも、嫌がらせをする理由がある。それを理解した上で、行動を変えるよう促す。——理解と肯定は違う。行動は否定しても、人格は否定しない)


「殿下。お話、全て伺いました」


 私は穏やかに言った。


「一つだけ確認してもいいですか」


「……何だ」


「殿下が本当にお怒りなのは——わたくしに対してですか?」


 王子の目が揺れた。


「それとも、わたくしに愛されなかったことに対してですか?」


 広間が、しん、と静まった。


(カウンセリングでは、これを「感情の言語化」と呼ぶ。相手が自分でも気づいていない感情を、言葉にしてあげる。「あなたは怒っているんじゃなくて、悲しいんですよね」。この一言で、相手の態度が変わることがある。——いつもではない。でも、変わる時がある)


 王子が黙った。


 十秒。二十秒。三十秒。


 スクールカウンセラーは、沈黙を恐れない。沈黙は、相手が自分の心と向き合っている時間だ。


(前世の恩師「鉄のおばあちゃん」宮田教授が言っていた。「沈黙は金よ、川島さん。相手が黙ったら、あなたも黙りなさい。先に口を開いた方が負ける——じゃなくて、先に口を開いた方が、相手の思考を邪魔するの。待ちなさい。人は、待ってもらえると、自分で答えを見つけるの」)


 王子が、小さな声で言った。


「……分からない」


(——来た。「分からない」。これが、カウンセリングの始まりだ)


 「分からない」は弱さではない。自分の感情を正直に見つめ始めた証拠だ。


 広間が揺れた。断罪イベントで王子が「分からない」と言った。前例がない。貴族たちが顔を見合わせている。怒りの断罪が始まるはずだった——なのに、王子が迷っている。


 ミサキが一歩前に出た。「殿下、この女は——」


「待ってくれ」


 王子がミサキを制した。——これも、前例がない。王子が聖女の言葉を遮った。


 ミサキの顔がこわばった。涙が——止まった。演技の涙は、台本が崩れると続かない。


 広間の空気が変わった。さっきまで「断罪を見る観客」だった大勢の観衆が、「何が起きているのかを見る目撃者」に変わっている。


 私は静かに言った。


「殿下。今日は、ここまでにしませんか」


「……ここまで?」


「殿下はいま、ご自分の気持ちに向き合い始めたところです。——結論を急ぐ必要はありません。大切なことほど、時間をかけていい」


 一回のセッションで結論を出さない。感情が動いた直後は、判断力が落ちている。冷静になる時間が必要だ。——カウンセリングの鉄則その二。


 王子が長い沈黙の後、頷いた。


「……そうだな。——今日は、ここまでにする」


 広間がざわめいた。だが、反対する者はいなかった。王子自身が「やめる」と言ったのだ。断罪を止めたのは、私ではない。王子自身だ。——そう見えるように、持っていった。




四 家庭訪問


 断罪イベントは、結果的に「中断」された。


 王子が「分からない」と言い、自ら「今日はここまでにする」と宣言した時点で、広間の空気は完全に変わっていた。怒りが困惑に変わり、告発が対話に変わった。私の見立てでは二時間はかかると思っていた断罪イベントは——四十五分のカウンセリングセッションになっていた。


 広間の隅で、年配の伯爵夫人がつぶやいているのが聞こえた。「あの令嬢、王子を座らせて、黙らせて、自分で考えさせた。——宮廷に来て五十年、あんな対応は見たことがないわ」。


(前世の後輩に教えていたことだ。「最初の面談で全部解決しようとしないで。今日は、関係を作るだけでいい」)


 結論は出なかった。でも、結論を出さないことが正解だ。


 婚約の進退は後日、両家の協議で決めることになった。王子は「もう少し考える」と言った。考える時間を与えるのも、カウンセラーの仕事だ。


 問題はここからだ。


 翌日、私はミサキの下宿を訪ねた。住所は学園の学生課で台帳を確認してある。侯爵令嬢の身分で少し圧をかけたら見せてくれた。


 前世並みのプライバシー感覚だったら難しいが、この世界は少しおおらかなようだ。権力を仕事の段取りに使うのは本意ではないが、家庭訪問には事前情報が要る。

 そして、事前の段取りは、SCの基本だ。


 少し急いだのは自分でも分かっている。本来ならクールダウン期間を置くべきだ。でも、昨夜のあの子の目を見た。「次はどうなるの」という不安の目。あれを放置してはいけない。


 青ざめる護衛の騎士に猛反対されたが、相手を威圧しないために無理を言って一人で行くことにした。馬車は大通りに待たせた。


 ——家庭訪問だ。


 スクールカウンセラーにとって、カウンセリングルームでの面談は仕事の半分にすぎない。もう半分は、家庭訪問だ。問題を抱えた子どもの家を訪ね、家庭環境を見る。部屋の様子、親の態度、食事の内容、近隣との関係。——面談室では見えない「本当の背景」が、家で見えることがある。


 ミサキの下宿は王都の外れにあった。


 古い木造の建物。壁に染みがある。窓が小さい。隣に洗濯物がぶら下がっている。——学園の華やかな聖女の住まいとしては、あまりにも質素だ。


(聖女候補なら学園の寮に住んでいたはずだ。この下宿にいるということは——貴族の候補生たちとの軋轢で、寮にいられなくなったか。王子は彼女を「聖女」として庇護しながらも、実際の生活環境までは見ていなかったのだろう。——前世でもよくあった。「友達はたくさんいます」と言う子の家が、こういう状態だったことが)


 扉を叩いた。


「……誰?」


 ミサキが出てきた。宮廷の白いドレスではなく、くたびれた普段着。化粧もしていない。目の下にくまがある。——寝ていなかったのだろう。昨夜の断罪イベントが中断されたことで、「次はどうなるか」と不安だったはずだ。


「アンネリーゼ、様……? なぜ——」


「家庭訪問です」


「……は?」


「あなたに会いに来ました。——中に入ってもいいですか?」


 ミサキの目が泳いだ。警戒している。当然だ。断罪の標的にした相手が、翌日に家を訪ねてきたのだ。


「何しに来たの。復讐?」


「いいえ」


「じゃあ何」


「お話がしたいんです。——昨日、話せなかったことを」


 ミサキは私を長い間見つめた。目の奥に、恐怖と、罪悪感と、そして——ほんの少しの好奇心が混ざっていた。それから小さくため息をついて、扉を開けた。


 部屋に入った。一間きり。ベッドと机と、小さな暖炉。本が数冊。食べかけのパン。


(——食事が偏っている。暖炉の火が弱い。窓の鍵が壊れている。家具が少ない。生活の質が低い。前世で不登校の生徒の家を訪問した時と同じ空気だ)


 ——ただ、一つ目の違和感。机の上の本。この世界の文字の並び順で分類され、背表紙には小さく番号が振ってあった。それ自体はおかしくないが——これは、「図書館で本を管理したことがある人」の並べ方だ。平民の、十三歳から学園に入った少女が自然に身につける種類の整理術ではない。


(——気のせいか。今は、気にしないでおこう)


「お茶の葉がないの。白湯でいい?」


「ありがとうございます。白湯で」


 ミサキが白湯を二杯注いだ。粗末な器がちょっと欠けていた。


(器を見れば、生活が分かる。前世の恩師「鉄のおばあちゃん」宮田教授の教え。「家庭訪問で最初に見るのは、台所と食器よ。そこにその家の全部が出るの」)


 小さなテーブルを挟んで座った。低い椅子。目線の高さが揃う。——いい。面談の基本だ。


「ミサキさん」


「……何」


「昨日のこと、怖かったでしょう」


 ミサキの顔がこわばった。


「怖い? なんで私が怖いのよ。断罪されたのはあなたでしょう」


「ええ。でも——あなたも怖かったはずです。計画通りに進まなかった。わたくしが泣かなかった。王子が『分からない』と言った。——シナリオが崩れた時、一番怖いのは、シナリオを書いた人です」


 ミサキの手が震えた。白湯がこぼれそうになった。——「シナリオ」という言葉に、必要以上に反応している。普通なら、自分の人生を「シナリオ」と呼ばれても、単なる比喩だと思うだけだ。でもミサキは震えた。——「シナリオ」の裏にある意味——物語の強制力を、知っている人間の反応だ。


(——二つ目の違和感。でも今は、追わない)


(——的中。やはり、断罪のシナリオを書いたのはこの子だ)


 でも、責めない。


 スクールカウンセラーは、犯人探しをしない。


「ミサキさん。少しだけ、あなたの話を聞かせてもらえますか?」


「私の話?」


「はい。あなたの育ち。あなたの家族。あなたがこの学園に来るまでのこと。——あなたが『聖女』になるまでのこと」


 ミサキが私を見た。目に涙が溜まっていた。——今度の涙は、光っているだけではなかった。こぼれていた。


(本物の涙だ)


「……誰にも聞かれたことない」


「知ってます。だから、聞きに来たんです」


 ミサキが話し始めた。


 平民の家に生まれた。父はいない。母は洗濯女で、朝から晩まで働いていた。貧しかった。食事は一日一回。服はいつもお下がり。同じ年頃の子供たちに「臭い」「汚い」と言われた。


 十歳で光の魔法が発現した。教会に引き取られた。「聖女候補」として育てられた。教会での生活は悪くなかったが、周りの候補者たちは全員貴族の出だった。「平民の聖女」は馬鹿にされた。


 十三歳でアルカディーネ学園に入学した。奨学生。周りは侯爵令嬢や伯爵令嬢ばかり。みんなが自然にやっている礼儀作法を知らなかった。ドレスの着方が分からなかった。フォークとナイフの使い方を笑われた。


(——前世で見た。何度も見た。転校生が新しい環境に適応しようとして、必死になる姿を。——そして、「花園で場違いだと言った」と王子には伝わっていたが、実際は規則を告げただけだった。伝言ゲームの齟齬。——学校ではよくあることだ)


「ヴェルトハイムさまに——アンネリーゼさまに『花園の利用時間は決まっています』って言われたの、覚えてる?」


「覚えています」


「あの時ね、本当は分かってたの。規則を教えてくれただけだって。でも——あなたの言い方が、怖かった」


「……ごめんなさい」


「え?」


「わたくしの言い方が怖かったなら、それはわたくしの至らなさです。——元のわたくしは不器用だったの。貴族としての正しさを守るために鎧を着て、キツい言い方になってしまっていた」


 ミサキの目が潤んだ。——今度の涙は、演技じゃない。


「……変な人。断罪された側が謝るの?」


「わたくしは、立場じゃなくて関係性を見るの。——あなたが怖いと感じたなら、わたくしに責任がある。それは変わりません」


 白湯をすすった。冷めていた。でもいい。前世の中学のカウンセリングルームで出していた白湯も、たいてい冷めていた。予算がなくて茶葉が買えなかった。養護教諭が時々自腹でほうじ茶を差し入れてくれた。ありがたかった。


「ミサキさん」


「……何」


「あなたが欲しかったのは——『敵』じゃないですよね」


 ミサキが目を見開いた。


「わたくしを『悪役』にすれば、あなたは『被害者』になれた。被害者は守られる。王子が守ってくれる。貴族たちが同情してくれる。居場所ができる。——でも、本当に欲しかったのは、『怖い先輩がいない安全な学校』じゃなくて、『自分を丸ごと受け入れてくれる人』だったんじゃないですか」


(問題行動の裏にあるニーズ。スクールカウンセラーはこう考える。「この子が問題を起こす理由は何か」ではなく、「この子が本当に求めているものは何か」。ミサキが嘘泣きをして、断罪のシナリオを書いて、悪役令嬢を作り上げた理由——それは「居場所」が欲しかったからだ)


 ミサキが泣いた。声を上げて泣いた。舞踏会の涙とは全く違う泣き方だった。


「……誰も、聞いてくれなかった」


「うん」


「貴族の人たちは、みんな自分のことしか考えてないの。王子様だって——私を『聖女』として見てるだけ。私のことなんか見てない」


「知ってます」


「あなたのことが怖かった。あなたは完璧すぎて。礼儀も学問も完璧で。私は何もできないのに」


(——少し、カマをかけてみよう。侯爵令嬢としてはあり得ない貧乏話と、この世界にはない言葉を混ぜて、反応を見る)


「完璧じゃないですよ。昔はもっとひどかったわ。毎日カップ麺ばかり食べてたの。お金を節約して、勉強道具を買ってたから」


「……カップ麺?」


 一瞬、ミサキの目が動いた。

 ほんの一瞬。まばたき。でも、スクールカウンセラーはその「まばたき」を見逃さない。

 「カップ麺」という言葉を聞いた時の反応が二つあった。最初の反応は「分かる」。その直後に「分からないふりをする」。——「知らないものを聞いた」反応とは、明らかに違う。


(——三つ目の違和感。この子は、カップ麺を知っている。そして「カップ麺」という言葉を聞いた時、一瞬だけ「この人も?」という目をしていた。お互いに、見えないカードを見せ合っている。——でも、追及しない。その子が自分から話す気になった時を待つ)


「お湯を入れて三分で食べられる食べ物よ。安くて早くてそこそこの味。——わたくしの故郷にあったの」


 ミサキが泣きながら笑った。泣き笑いの顔は可愛かった。「聖女」の仮面を被っている時より、素の方がずっといい顔をする。


「ミサキさん。一つだけお願いしてもいい? 今日話してくれたこと、殿下にも伝えていいかしら。彼も事情を知るべきだと思うの」


 ミサキが少し迷って、それから、小さく頷いた。


(——守秘義務と情報共有のバランス。本人の同意なく他者に伝えるのは、カウンセラー失格だ。同意を得ること。常に)




五 ケース会議


 ミサキの家庭訪問から三日後。


 私は王宮を訪れ、王子ユリウスに面談を申し入れた。


「面談?」


「はい。先日の件について、少しお話がしたくて」


 王子は複雑な顔をしていた。当然だ。断罪された側から「面談」を申し込まれる経験は、人生初だろう。——政治的にはかなり危うい橋だったが、断罪イベントでの一幕が王子の中に何かを残したらしい。ところが、側近から意外にも「殿下がお会いになる」という返事が来た。


 執務室で向かい合った。座って。目線を揃えて。


「殿下。先日の件について、少し見えてきたことがあります」


「見えてきた?」


「ミサキさんの家庭環境を、確認してきました。——彼女から、殿下にお伝えする許可はいただいています」


「家庭環境? なぜ——」


「わたくしの癖です。問題が起きた時、その人の背景を見ないと、正しい対応ができませんから」


 ミサキの家庭環境を話した。個人情報に配慮しながら、でも必要なことは伝える。——前世のケース会議と同じだ。担任・生徒指導主事・管理職と情報を共有し、チームで対応を考える。


 王子の表情が変わっていった。


「……そんな環境だったのか。あいつ、何も言わなかった」


「言えなかったんです。殿下の前では『聖女』でいなければならなかったから」


「俺は——利用されていたのか」


「利用という言い方はしません。ミサキさんは、殿下に守ってもらう方法をそれしか知らなかったんです。『助けて』を言葉にできなかった。泣くしか、敵を作るしか、方法がなかった。——殿下が怒るべきは、ミサキさんにではなく、その方法しか教えなかった環境にあると思います」


(カウンセリングの鉄則。「人を責めるな、構造を責めろ」。前世の恩師「鉄のおばあちゃん」宮田教授がケース会議で百回は言った言葉だ。「いじめた子を叱っても、いじめはなくならないわ。いじめが起きる構造を変えなさい」)


 王子が長い沈黙の後、言った。


「……すまなかった」


 短い言葉だった。でも、誠意がこもっている。


「俺は——何も見えていなかった。お前にも、ミサキにも、ひどいことをした」


(——謝れる人だ。この人は。それだけで、見込みがある)


「殿下。その言葉は、いつかミサキさんにも直接伝えてあげてください」


「……ああ。——俺は、どうすればいい」


(——また「分からない」。でも今度は、「教えてください」のニュアンスがある。相談者が「助けてほしい」と言えるようになった時、カウンセリングは第二段階に入る)


「三つ、提案があります」


(提案は三つに整理して伝える。混乱している時ほど、やるべきことを具体的に三つ示された方が人は安心する。——凡人枠の先輩がそうしていたと聞いた。クレーム対応のプロの流儀だそうだ)


「第一に、婚約の解消は、双方合意の形で進めましょう。殿下もわたくしも傷つかない形で」


「……ああ」


「第二に、ミサキさんへの支援体制を作ってください。教育係、生活支援、信頼できる相談相手。——彼女に必要なのは『王子の恋人』という立場ではなく、『安心して暮らせる環境』です」


 王子の眉が動いた。何か思い当たることがあるようだった。


「第三に——これは殿下ご自身のことですが」


「俺の?」


「殿下も、誰かに話を聞いてもらったほうがいい。王位後継者としてのプレッシャー。兄上との関係。婚約者との距離感。——全部、一人で抱えてきたでしょう」


 王子が黙った。


「殿下。人に頼ることは弱さではありません。——わたくしが大切にしている言葉です。殿下にも伝えさせてください」


 王子の耳が赤くなった。


「……お前、何者なんだ」


「人の話を聞くのが好きなだけの、ただの侯爵令嬢ですよ」


「……それだけで、ここまでのことができるのか」


「できますよ。——長くやってきましたから」




六 再発防止と継続支援


 断罪イベントから一ヶ月後。


 婚約は円満に解消された。「双方の合意に基づく」という形式で、どちらの名誉も傷つかない。前世の学校で言えば「問題は解決し、双方の保護者にも説明済み。生徒指導記録を残して終了」。


 ミサキには、王宮付きの教育係がついた。貴族の高度な教養、礼儀作法、基本的な社交。加えて、月一回の「面談」を私が担当することになった。


 最初の面談で、ミサキが言った。「アンネリーゼさま」と呼ぶ声の硬さ——あのよそよそしさが、いつの間にか取れていた。


「面談って何するの?」


「お茶を飲みながら、話すだけです」


 お茶請けのケーキを出した。ミサキがフォークに手を伸ばして、迷った。——三年前に笑われた記憶だ。さりげなく自分のフォークを持ち上げて、ゆっくり見せた。笑わないで教える。それだけでいい。


「……それだけ?」


「それだけ。でも、『それだけ』がないと、人は壊れるんです」


(カウンセリングの本質。「話すことが目的ではない。聞いてもらえる場所があることが目的」。前世の中学で、カウンセリングルームに来る生徒の半分は「別に何も相談がない」と言いながら来ていた。来ること自体に意味がある。「ここにいていい」と感じられる場所があること——それが、心の安全基地だ)


 ミサキとの面談の帰り道、侍女に手紙を渡された。ミサキから。


『アンネリーゼさまへ。今日のお茶、美味しかったです。あと、フォークの持ち方、教えてくれてありがとう。三年前に笑われた時から、ずっと怖かったの。笑わないで教えてくれたのは、あなたが初めてです。——ミサキ


 追伸 カップ麺、いつか食べてみたいです。本当に三分で食べられるの?』


 手紙を読んで、少し泣きそうになった。


 ——そして、ちょっとだけ引っかかった。


 手紙の文体。異世界の平民の少女が書いたにしては、文章の区切り方や段落の取り方が妙に整っている。書き出しの字下げが一マス空いていて、文末に「。」がきちんと打ってある。まるで——前世で「作文の書き方」を習った人間の、癖のような。


(——四つ目の違和感。カップ麺を知っている子が、「食べてみたい」と書く。「三分で食べられるの?」と聞く。——知っているくせに。でも、今は追わない。この子が自分から話してくれる日を、待つ)


 本の並べ方。「シナリオ」への過剰反応。カップ麺を知っていること。そして、手紙の書式。——四つ揃えば、見立ては完成する。この子はおそらく、現代日本からの転生者だ。それも、学校や社会でうまくいかなかった子。——同郷の迷子だ。でも、それを暴く必要はない。待つ。それが、カウンセラーの仕事だ。


 前世で不登校の生徒が、三ヶ月ぶりに教室に入った日のメールを思い出した。『川島先生、今日学校行けました。先生が待っててくれたから』。——あの日も泣きそうになった。


 前世で、カウンセリングの仕事は「裏方」だった。給料は安いし、常勤ですらないし、学校の先生たちに「何してるか分からない」と言われることもあった。生徒が立ち直っても、評価されるのは担任の先生。カウンセラーの名前は記録に残らない。


 でも——手紙が来る。


 「先生のおかげです」って。


 それだけで、二十三年やれた。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、夢を見た。


 真っ白な空間。安っぽいカウンター。


「お疲れ様です、川島さん。——いえ、アンネリーゼ『様』」


 ツクヨがカウンターの向こうに座っていた。今日はなぜかカーディガンを着ている。スクールカウンセラーの服装を意識しているのだろうか。似合っている。——いや、とんがり帽子とカーディガンの組み合わせはおかしいが、雰囲気は悪くない。


「定期フォローです。断罪イベント対応、お見事でした。映像記録を見た上層部から、『あれ、本当にチートなしなの?』と確認がありました」


「何回ですか」


「二回です。松田さんの時は三回でしたが」


「松田さん。クレーム対応の先輩ですね」


「はい。彼女は断罪イベントを『クレーム対応』として処理しました。川島さんは『カウンセリング』として処理しました。同じ断罪イベントなのに、対応が全く違う」


「当然ですよ。クレーム対応のプロは場を治めることが目的。カウンセラーは人を理解することが目的。目的が違えば、やり方も変わります」


「なるほど。——ちなみに、A級チートの方はどうなったか聞きますか」


「聞きましょう」


「ある世界で、A級チートの悪役令嬢が聖女を返り討ちにしまして。光魔法で聖女を圧倒した後、『ざまぁ、これがわたくしの真の力よ!』と決め台詞を——」


「それ、いじめですよね」


「……え?」


「いじめた相手をいじめ返すのは、いじめの連鎖です。前世のスクールカウンセラーが聞いたら全員そう言いますよ。——しかも、大勢の観衆の前で。公開処刑じゃないですか」


「…………」


「聖女を倒して、それで何が解決したんですか。聖女が嘘をついた背景は? 聖女の家庭環境は? 聖女を聖女にした構造は? ——何も見ていない。表面だけ潰して、根っこは放置。再発防止策もなし。前世の学校でこんな対応をしたら、SNSで炎上しちゃいます」


「厳しいですね……」


「当然です。スクールカウンセラーは、『問題を起こした子』も支援対象なんです。加害者支援をしないカウンセラーは二流です。——もっと言えば、チートの力で相手を黙らせるのは、校長先生が怒鳴って生徒を黙らせるのと同じです。黙ったのは解決じゃない。怖くて声が出なくなっただけです」


 ツクヨが真面目な顔で記録を取っていた。


「えーと、報告書に書きます。『凡人枠・川島多恵子。断罪イベントをカウンセリングセッションに変換。告発者・被告発者双方のケースワークを実施。再発防止として月一回の継続面談制度を設計。——チート枠・凡人枠を問わず、加害者ケアまで行った転生者は過去に例がなく、上層部は引き続き混乱中』」


「予算はつきますか」


「えっ」


「カウンセリングには予算が必要です。面談室の維持費、茶葉代、記録用紙。前世では予算がなくて苦労しました」


「あ、えーと……凡人枠の予算は、マント代しか計上されていませんので……」


「マント代を削ってカウンセリング予算に回してください」


「マントは制服ですので……削れません……」


「では上層部に予算増額を申請してください」


「善処します……」


「ツクヨさん」


「はい?」


「カーディガン、似合ってます。次回もそれでいいですよ」


「本当ですか? 中村さんには『自然体でいい』と言われ、松田さんには『とんがり帽子のままで』と言われ、橋本さんには『スーツを着ろ、ただしマントは脱げ』と言われ、皆さんバラバラで——」


「全員に合わせようとしないでいいんですよ。自分のスタイルを大事にしてください。——それも、カウンセラーの助言です」


 ツクヨが、ちょっと嬉しそうに笑った。


 夢が薄れていく。最後に聞こえたのは、「次の凡人枠の候補者がいるんですが……川島さんに引き継ぎ資料を作ってもらっていいですか」というツクヨの声だった。


 ◇ ◇ ◇


 ——さらに一ヶ月後。


 朝。


 ヴェルトハイム邸の書斎で紅茶を飲んでいた。——この世界の紅茶は美味しい。前世の中学のカウンセリングルームで飲んでいた無印のティーバッグとは次元が違う。でも、あのティーバッグの味が懐かしいこともある。安くて、薄くて、でも温かかった。生徒と二人で飲む白湯やほうじ茶は、高級紅茶より美味しかった——と言ったら嘘になるが、価値は同じだった。


 侍女が手紙を持ってきた。


「お嬢様、王宮から」


 封を開けた。


『アンネリーゼ・フォン・ヴェルトハイム殿


 先日の件を踏まえ、王立アルカディーネ学園に「相談室」の設置を検討している。

 つきましては、設立にあたりご助力を賜りたく——


 学園長 タカハシ・マコト』


(——タカハシ・マコト。在学中は雲の上の名誉職だと思って気にも留めていなかったが、改めて文字で見ると——ずいぶんと前世の香りがする名前だ。しかも、この手紙の書式——「先日の件を踏まえ」「つきましては」。日本の公文書のフォーマットそのものだ。この人もツクヨさんが担当した「凡人枠」の先輩だろうか。……まあ、今はいい)


 相談室。


 スクールカウンセラーの席だ。


 また仕事だ。


 手帳を開き、今日の予定を書き直す。


 午前:ミサキさんとの月例面談(第二回)。テーマ:「社交場面での不安について」。

 午後:王子ユリウスの定期面談(隔週)。テーマ:「王子としてのストレスマネジメント」。

 夕方:学園相談室の設置計画書の作成。人員、設備、運営予算。

 夜:「異世界版スクールカウンセリング・マニュアル」の執筆。第一章:問題行動の裏にあるニーズについて。


 忙しい。前世より忙しい。しかも非常勤の給与は出ない。侯爵家の私財から出せば済む話だが、公的な支援の場にはきちんと公的な予算をつけるべきだ。属人的な支援は長続きしない。——予算の使い方は前世で嫌というほど学んだ。


 でもまあ、前世でも非常勤だった。週三日勤務、月額十五万円。ボーナスなし。交通費は出る。それでも二十三年やれたのは、「先生のおかげです」の一言が、給料より価値があったからだ。


 地味な一日だ。


 断罪も、反撃も、魔法も、ざまぁもない。


 あるのは——面談予定表と、ケース記録と、茶葉の発注伝票と、「相談室設置計画書」だ。


 でも——それでいい。


 問題児はいない。問題を抱えた子どもがいるだけだ。


 悪役令嬢もいない。悪役にされた令嬢がいるだけだ。


 前世で二十三年。今世でも、続ける。


 一人ずつ。一人ずつ。


 目の前の子の話を、聞く。


 凡人は、凡人の仕事をする。


 地味に。静かに。でも——確実に。




(完)

お読みいただきありがとうございます!

「問題児はいない。問題を抱えた子どもがいるだけだ」——そんなお話を書いてみました。


スクールカウンセラーの仕事は、実はとてもシンプルです。

「話を聞く。背景を見る。一緒に考える」。

でもそのシンプルなことを、予算も人手も足りない現場で毎日やり続けるのは、途方もなく難しい。


全国のスクールカウンセラー・教育相談員・養護教諭の皆様に、心からの敬意を込めて。


本作の執筆にあたっては、ある方に協力をお願いし、カウンセリング等の実務について助言をいただきました。この場を借りて、感謝申し上げます。


☆評価・ブックマーク・感想——どれか一つでも、ものすごく励みになります。


***


凡人枠シリーズ初の長編連載、毎日更新中です。


排水溝を直し、台帳を作り、十三歳の少女領主に予算の組み方を教える——チートなしの元地方公務員が、ぶっ壊された領地を「普通の行政」で立て直す全三十九話。 短編版を読んでくださった方にも、初めての方にも楽しんでいただける構成にしています。


→【連載版】チートで荒らされた領地に赴任したら、前世が地方公務員だったので普通の行政で立て直すことにした


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同じ世界観(転生神ツクヨ × 凡人枠)の短編もあります:

→ 悪役令嬢、断罪されたので謝罪します ~前世が百貨店クレーム対応部長(勤続25年)なので、プロの謝罪で全員黙らせてもいいですか?~

→ 悪役令嬢、断罪されたので反対尋問します ~前世が弁護士チートなしなので、法的思考で王子に和解を呑ませてもいいですか?~

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 女性が凡人枠で転生するとどうしても乙女ゲーの悪役令嬢枠になるのは仕方ない事ですがちょっと残念でもありますね。 「家庭訪問で最初に見るのは、台所と食器よ。そこにその家の全部が出るの」>今のお家はLDK…
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