実験
「芳子は腹を痛めたわけではないが、自分の子供だという自覚はあっただろう」
「あまりに急すぎて飲み込めない……しかしそのことと生命ラボ誕生とがどう関わってくるんですか?」
「そのときアメリカの医療チームとの橋渡しをしてくれたのが、生命ラボの田所なんだ」
肇は写真でしか見たことがない生命ラボの田所所長の顔をおぼろげに思い出した。
「田所は当時、生殖医療の最先端を行っていたはずだが、生命倫理に反する行為を何件か起こし、十五年後に連絡があったときはもうマッドサイエンティストだった。それでも私には、田所に吟を助けてもらった恩義がある。それで生命ラボが設立された」
肇が思わずつぶやいた。
「腐れ縁……」
正憲は苦笑いしながら言った。
「たしかに腐れ縁だな。生命ラボ設立のときには、田所はデュープ構想を語っていた。人間の複製を作るんだって。話半分どころかほら話だとばかり思っていた。それでも後継者を考えたとき、吟かお前かのどちらかに継ぎたい。だから最初のデュープには吟とお前の細胞からデュープを作るのを許可した」
肇は素朴な疑問を口にした。
「細胞を採取された記憶はありません」
「毎年、健康診断を受けているだろう。あのときに細胞を採取しているはずだ。帝都病院ならそんなことはたやすい」
たしかに不思議に思った出来事があった。
「そう言えば、何年か前に、口腔から細胞を採ったときがありました。健康診断なのになぜ? と思ったけど」
「たぶんそのときだろう。そのころは、まだまだなにが実現するかもわからない実験だった。田所はそうじゃなかったんだろうが、私はまだ半信半疑だった。ところが今度はこちらの事情が変わってきた。まずは吟の事故だ。このとき初めてデュープ技術の重要性を痛感した。デュープを用意しておかないと突発的な出来事に対処することができない」
肇は兄吟が帝都銀行本店ビルから転落したと聞いたときの夜の出来事を思い出していた。
「兄さんは助けられなかったんじゃ……」
「ああ。吟の場合、デュープはそれなりに成長していたんだが、本人の脳の損傷が激しくて移植することができなかった」
「あのとき、兄さんの葬儀で火葬したのは……」
「失敗したデュープだ」
正憲の言い方に思わず反発した。
「失敗した……デュープだって人間でしょう?」
「人間から派生したことはたしかだが、人間と言えるのか……外見こそそっくりだが、中身は……赤ん坊だ。火葬したのは赤ん坊でもない、ただの遺体だ……その遺体を生命ラボからヘリで運び、手術室で入れ替えさせた」
肇は外を見ながら何気なく聞いた。
「では私の事故のときも……」
「お前は危篤状態から植物人間状態にまでなってしまっていた。すでにデュープも完成に近かったため、デュープを生命ラボからヘリで運び」
肇は思わず正憲を見て聞いた。
「え? 私を生命ラボに運んだんじゃ……」
「いや、手術室などの設備やスタッフを考えると生命ラボでの脳移植手術はむずかしい。だからデュープを生命ラボから運んで帝都病院で手術させた」
肇は少し混乱した。そんな肇にかまわず正憲は続けた。
「救世主ベビーの件と言い、デュープと言い、お前の意見も聞かずワシが勝手にやっている……すまない」
ドアがノックされて鈴木秘書が入ってきた。
「あ、肇さん」
「ああ、鈴木さん。父をお借りしています」
「ああ、どうぞ。もうまもなく出ないといけませんが」
「そう言えば、鈴木さん、お尋ねしたいことがあります。私が事故を起こした車ですが、引き取った山本自動車整備工場に保管しておくようにおっしゃっていただいたようですね」
鈴木が何事かを思い出したかのように答えた。
「ああ、あの車ですか……大破していましたが、ステアリング周りに火薬の匂いのような不自然な匂いがしたので、何かあるんじゃないかと……後で調べるつもりでした」
「私のほうで調べたところでは、やはり発火装置らしきものが備え付けられていたようです」
「発火……点火は? 車じゃ移動速度が速いのでリモコンというわけにもいきそうもありませんが……」
「スマホからの高音の音をキャッチする仕組みになっていたんじゃないかと思っています」
「いったいだれが?」
「わかりません」
鈴木は正憲に向き直して言った。
「社長、そろそろ出ないと……」
「わかった。河口湖の別荘までどれくらいかかる?」
肇は初めて聞く話に驚いた。
「河口湖? 別荘? うちにそんなもんあったんですか?」
「ああ、一年ほど前に建てた。肇、お前たち家族もそのうち遊びに来い」
何一つ問題はないと言いたげに正憲は言った。鈴木が入ってきたこともあって、肇はそれ以上正憲に聞くことはできなくなった。




