予感
翌日の日曜日、肇はいつもどおりに起き、いつもどおりに過ごした。そしてその翌日の月曜日もいつもどおりに起き、帝都HD本社に行き、いつもどおりに自分の執務室に入った。肇の懸案の一つは高木への謝礼だった。当初の約束の支払いは済ませたが、それ以降の調査にも報いなければならない。そこで肇は秘書の中田に相談することにした。中田に執務室に来てもらい、率直に言った。
「中田さん、調査にお金が必要なんですが、なんとかなりますか?」
「先日の取締役会で承認された調査ですよね?」
勘のいい中田はすぐに察してくれた。たしかに取締役会で承認された調査だった。
「まあ、そうなんですが……それ以外も少しは……」
生命ラボに関する調査だけでなく、兄吟の事故に関しても調べたりして、いくぶんとりとめもなくなっていた。
「なんとかなると思います。領収書があるんですよね?」
「そうだよね……自分の懐からじゃもうまかなえなくて……取締役になったので給料が大幅に上がったけど、それでも足りない。妻には言えないし……」
「取締役には、給料以外にさまざまな名目で使える予算も認められています。それも加えればだいじょうぶじゃないですか?」
「え、そうなんですか? そりゃ、ありがたい」
中田がいうには、新規事業に関して調査するなら調査費の名目もたつが、自社グループの事業を調査する費用ではおかしなことになるので、なにか別の科目で扱うことになるだろうとのことだった。なんの名目でもいいので、経費として落とせれば、肇としてはありがたい。肇が少し安堵していたとき、デスクの上の電話が鳴った。中田が受話器をとって応答した。
「御手洗肇の執務室です。はい。え、そうなんですか……」
受話器を手でふさいで中田が肇に言った。
「専務が肇さんにあいたいそうです」
「え、そうですか……」
肇はあわてて上着をはおってでかけようとした。
「いえ、向こうからいらっしゃるようです」
「こっちに?」
そう答えたときにはドアが開き、綿貫栄一郎が入ってきた。
「やあ、突然、申し訳ない」
相変わらず活発に行動しているらしく、栄一郎はシャツを腕まくりし、上着を抱えていた。
「こちらこそすみません。報告しないといけないのに……」
そう答える肇にかまわず、栄一郎は応接セットに座ってから尋ねた。
「なにかわかりましたか?」
肇が中田に目配せすると中田は察してくれて会釈をしてから執務室を出て行ってくれた。肇はデスクから応接ソファに移動し、栄一郎に向かい合った。
「プロジェクトDに関してはかなりわかりました。Dはデュープの意味ですが、クローン技術を使って……」
肇はこれまでに知り得たことを栄一郎に説明した。たった一つのことを除いて。
「ふーん、なるほど。正憲社長はどの程度関係しているんですか?」
あらかたの説明を聞いて栄一郎が尋ねた。
「予算規模から言っても役員程度の人間が関わらないでは実現しないでしょう。所長の田所との関係から察するに父が深く関係しているとしか思えません」
「君はそれでいいんですか?」
「……父を告発するような格好になるのは心苦しいです。しかし今回の件は……生命の根源に、人間の根本に関わる出来事ですので……」
栄一郎は深いため息をついてから言った。
「そうですね。事が大きすぎる……帝都グループがどうのというようなものじゃないですね。でもそうだからこそ、かえって動きにくいような気がする。いったいこれは犯罪なんですか? デュープを作ることは何罪にあたるんですか?」
肇は答えに窮した。医療法違反とか臓器移植法違反という言葉が浮かんだが、素人にわかるわけもない。
「……わかりません……」
「弁護士に調べさせましょう。しかし今の段階でも、取締役会の承認を経ないで巨費を注ぎ込んでいることは批判できるでしょう。まずはそこからですね。君にはむずかしいでしょうから、その役目は私がやりましょう。緊急の取締役を開くようにします」
肇はうなずいてから言った。
「私は父を問い詰めてみます。なぜこんなことをしたのか?」
息子として最低限のことはしておこう、そう思っていた。そのとき肇の鼻から血が垂れてきた。栄一郎が気づき、「鼻血が……」と言った。肇が指を鼻に持ってゆき鼻血に気づき、近くにあったティッシュペーパーをとり、拭いた。
「無理しなくていい。取締役会の準備をしておく」
栄一郎はそう言うと立ち上がって執務室を出ていった。栄一郎はたんに肇の体を気づかっただけだろうが、鼻血のついたティッシュペーパーを見つめ、肇は恐ろしい予感に襲われていた。




