記憶
親族控室近くの廊下で、正憲と鈴木が顔を寄せてヒソヒソと話し合っていた。
「包帯がか……」
「はい。元に戻しておきましたが、だれかが気がついた可能性が……そう言えば私がホールに戻ったときすれ違った男がいました」
「だれだ?」
「あの顔は見覚えがあります。たしか肇さんといっしょにいたんじゃなかったか……」
「肇がか……Dとか?」
「いえ、事故前のほんものです。ひげを生やしていたので覚えています」
ひげと聞いて正憲は思い当ったことがあった。
「そう言えば研究所に忍び込んだものがいた。その男もひげづらだった」
「肇さん一家は蓮さんのことは?」
「気がついていないようだ」
「心ちゃんは?」
「『お兄ちゃんじゃない』『蓮じゃない』と言っていたが、もう大人しくなった。どう思っているかはわからないが……可哀想だが、もう火葬して忘れさせるしかないだろう」
正憲の言葉に鈴木は黙ってうなずいた。
※ ※ ※
翌日、肇は病院に戻り、その次の日は三月初めの温かい日だった。病室のベッドで肇は起き上がってパソコンを操作していた。妻の恵子は、見舞いの花が活けてある花瓶の水を変えたり、身の回りを片付けていた。肇がメールソフトの「送受信」ボタンをクリックすると何通かメールが届いていた。肇はメールを順に開いていった。
「うん?」
「どうかしました? 鈴木さんがパソコンなんか持ってくるものだから……あなたもまだ入院中の身なんですから、仕事なんてしないでくださいね」
恵子の注意にもかまわず、肇はメールの文面を見ていた。タイトルは「おかげんはいかがでしょうか?」と普通だが、文面は謎めいていた。
「事故のことを知って驚きました。噂では意識を回復されたとのこと、喜ばしいことです。例の件はいかがしましょうか? おあいできるのなら、調査したものを報告書にまとめます。私たちの予想以上に進展していることがわかりました。返信お待ちしています。」
「どなたから?」
メールの送信者を肇がたしかめると、送信者欄には「高木」とあった。しかし肇にはその名前に覚えがなく首をかしげた。
「うーん。覚えがない。なにか調査を依頼していたようで、報告書にまとめるとか……」
自分がなにを調べていたのか、この高木という人物はなにものなのか、記憶がなかった。意識を取り戻してから、記憶もじょじょに戻りつつあったが、事故を起こした日の数か月前から事故当日までの記憶はまだかなりあいまいのままだった。直近の記憶がないというのは不安で仕方なかった。
※ ※ ※
中国の北京首都国際空港から羽田空港までは四時間程度で着く。成田ではなく都心に近い羽田を起点にできるようになって楽になったと趙敏は思った。京浜急行の第三ターミナル駅で乗って品川駅まで行けば、高輪台の領事部の人間とすぐに会える。大使館領事部に足を踏み入れることはほとんどないが、大使館以外の場所であっても、会って話すことは今の時代でも重要だ。
北京にいたときに受けた連絡では、日本の製薬会社の研究所で人間のクローンに関する研究が進んでいるとのことだった。人間のクローンの研究はむろん中国でも進んでいるが、日本の研究では成長を促進する技術が目覚ましいと言う。その情報は海外のサーバーを経由して届いた匿名のメールからだったが、匿名のそういった類の情報は、諜報機関を混乱させるだけのいわばフェイクニュースがほとんどだが、大使館付きの調査官の調べではそこそこ信憑性があるらしい。そこで趙が北京から派遣されたわけだ。
ここ一週間ほどでリークされた情報の信憑性を探り、場合によっては本国から支援を受けて、なんらかの対処をする必要があるかもしれなかった。品川駅にほど近いホテルのバーで待っていると顔見知りの領事館の職員がやってきた。無言のまま鞄を差し出したので、趙は黙って受け取った。職員がいなくなってから鞄の中から書類を取り出しぱらぱらとめくった。周囲にはもちろんだれもいない。
その書類は帝都製薬の生命ラボに関するもので、内容のほとんどを趙はすでに知っていたが、何枚かの写真に目が止まった。二枚はまだ若い研究者のものだったが、一枚の中年の男の写真が気になった。田所という名前の所長の写真だったが、その男が見せる卑しい野心のようなものが趙には手がかりになりそうだった。




