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シャーロキアンのホームズⅣ〜虚構探偵ホームズの物語〜  作者: 語り部ファウスト


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1/10

第一幕:二年後

1910年のロンドン。

かつて“世界の心臓”と呼ばれた街は、霧と煤の匂いの中で、人口だけが肥大していた。

1900年に約500万だった住民は、この十年で700万に膨れ上がった。

仕事は足りず、食卓は痩せ、犯罪は太った。

路地裏に横たわる者は、明日を選べない。

生きるために誰かを傷つけるか、傷つけられながら朽ちるか。

その二択しかない街だった。


ここはハンウェル精神病院。

いや、正式にはミドルセックス・カントリーの精神病院。

だが関係者の間では、古い呼び名のほうがしっくり来る。

今は、その院長室だ。空気は妙に暖かく、外よりもずっと病んでいる。


「却下だと!? 馬鹿な、許可はもらっている!」

怒声が室内の天井を震わせた。

怒鳴り散らしているのは、グレグソン警部補。色々と“損をしやすい名前を持つ男”だ。


向かいのデスクでは、白衣の男が指を組み、まるで子供の癇癪を観察する学者のように警部補を見つめていた。

「……治安判事からの許可? ええ、ええ。だが彼は医者ではない。医療側がノーと言えば、ノーなのです。お引き取りを、グレグソン警部補。」


男はニヤニヤ笑いつつも、目元だけは鋭かった。

茶髪をきちんと整え、口髭と顎髭を揃えた五十がらみ。

眼鏡の奥の眼差しは、書類ではなく警部補そのものを読んでいた。


アーサー・ヒル・トレバー。

院の責任者。

ただし患者には“エドワード・ハントリー”と名乗る。


院長の背後には、無表情で巨大な看護師が二人。

警部補をじっと見張るように立っている。

まるで「この場で急に暴れたら、すぐに潰す」という意思表示だ。


「吾輩を……バカにしているのか?」

警部補は声を震わせた。怒りか、不安か、その両方か。


「まさか。あなたが“あのホームズ”を欲しがっているのは理解していますとも。

ですがね、警部補……」

院長は書類を指先で弾き、机に落とした。乾いた音がした。

「あなたの“名前”が、あなたを特殊な状況へ追い込むのですよ。ええ、とても、特殊な。」


まるで呪いの診断書を渡すような声だった。


「心配無用! 吾輩の正気は診断せんでいい! 問題は、ホームズをいつ解放するかだ!」


「それに関しては患者次第です。ええ、彼は……普通ではありませんからね。」

院長は、ここでわざとらしく大あくびをした。

「失礼。論文で忙しくてね。あなたもお暇ではないでしょう。

では、今日はお引き取りを。」


デスクの脇のランプが揺れ、警部補の影が壁に伸びた。

その影は、怒りに震えながらも、どうしようもなく小さく見えた。


ハンウェル精神病院。

ここでは警官も紳士も、等しく“迷い込んだ人間”になる。


1908年の火災で、看護師ダグラス・ハーヴェイが酒部屋で焼け死んだ。

当初は事故扱いだったが、グレグソン警部補の推理によって、犯人はダグラスの同僚とされた。

ーーだが、そいつは逮捕の直前に逃走した。


事件の真相は闇に沈み、成果を奪われたグレグソンは、結局“警部”にはなれなかった。


そして今ーー院長室から遠く離れた薄暗い病室で、二人の男が向かい合っていた。


一人は黒髪短髪のやせぎすの男。灰色の目は鋭く、ワシ鼻で、顎は刃物のように角ばっている。

身長は180センチほど。わずかに前屈みになって立っている。

彼は、自分の名前をシャーロック・ホームズと名乗った。


もう一人は、灰色の髪に口ヒゲを蓄えた中肉中背の男。がっしりしていながら、指先だけは微かに震えている。

彼はジョン・F・ワトソンと名乗った。

ーー“ヘイミッシュ?” 関係ないさ。


ワトソンは震える手を押さえ込み、絞り出すように言った。


「ホームズ……酒が足りない。どうにかしてくれ。もう、何日も飲んでないんだ……」


ホームズは長い息を吐き、薄く笑った。


「ワトソン、酒よりもこっちの“クスリ”を味わおうぜ。外じゃ金が要るが、ここではタダだ。悪くないだろ?」


「ホームズ……君の“味わう”って表現やめてくれない?

それに、君がラリってる間、ボクは退屈なんだよ……」


ホームズは肩をすくめ、天井を見上げた。


そしてーー名探偵を名乗る哀れな魂は、まだ鉄格子の中だった。


(こうして、第一幕は虚構探偵で幕を閉じる。)

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