第一幕:二年後
1910年のロンドン。
かつて“世界の心臓”と呼ばれた街は、霧と煤の匂いの中で、人口だけが肥大していた。
1900年に約500万だった住民は、この十年で700万に膨れ上がった。
仕事は足りず、食卓は痩せ、犯罪は太った。
路地裏に横たわる者は、明日を選べない。
生きるために誰かを傷つけるか、傷つけられながら朽ちるか。
その二択しかない街だった。
ここはハンウェル精神病院。
いや、正式にはミドルセックス・カントリーの精神病院。
だが関係者の間では、古い呼び名のほうがしっくり来る。
今は、その院長室だ。空気は妙に暖かく、外よりもずっと病んでいる。
「却下だと!? 馬鹿な、許可はもらっている!」
怒声が室内の天井を震わせた。
怒鳴り散らしているのは、グレグソン警部補。色々と“損をしやすい名前を持つ男”だ。
向かいのデスクでは、白衣の男が指を組み、まるで子供の癇癪を観察する学者のように警部補を見つめていた。
「……治安判事からの許可? ええ、ええ。だが彼は医者ではない。医療側がノーと言えば、ノーなのです。お引き取りを、グレグソン警部補。」
男はニヤニヤ笑いつつも、目元だけは鋭かった。
茶髪をきちんと整え、口髭と顎髭を揃えた五十がらみ。
眼鏡の奥の眼差しは、書類ではなく警部補そのものを読んでいた。
アーサー・ヒル・トレバー。
院の責任者。
ただし患者には“エドワード・ハントリー”と名乗る。
院長の背後には、無表情で巨大な看護師が二人。
警部補をじっと見張るように立っている。
まるで「この場で急に暴れたら、すぐに潰す」という意思表示だ。
「吾輩を……バカにしているのか?」
警部補は声を震わせた。怒りか、不安か、その両方か。
「まさか。あなたが“あのホームズ”を欲しがっているのは理解していますとも。
ですがね、警部補……」
院長は書類を指先で弾き、机に落とした。乾いた音がした。
「あなたの“名前”が、あなたを特殊な状況へ追い込むのですよ。ええ、とても、特殊な。」
まるで呪いの診断書を渡すような声だった。
「心配無用! 吾輩の正気は診断せんでいい! 問題は、ホームズをいつ解放するかだ!」
「それに関しては患者次第です。ええ、彼は……普通ではありませんからね。」
院長は、ここでわざとらしく大あくびをした。
「失礼。論文で忙しくてね。あなたもお暇ではないでしょう。
では、今日はお引き取りを。」
デスクの脇のランプが揺れ、警部補の影が壁に伸びた。
その影は、怒りに震えながらも、どうしようもなく小さく見えた。
ハンウェル精神病院。
ここでは警官も紳士も、等しく“迷い込んだ人間”になる。
1908年の火災で、看護師ダグラス・ハーヴェイが酒部屋で焼け死んだ。
当初は事故扱いだったが、グレグソン警部補の推理によって、犯人はダグラスの同僚とされた。
ーーだが、そいつは逮捕の直前に逃走した。
事件の真相は闇に沈み、成果を奪われたグレグソンは、結局“警部”にはなれなかった。
そして今ーー院長室から遠く離れた薄暗い病室で、二人の男が向かい合っていた。
一人は黒髪短髪のやせぎすの男。灰色の目は鋭く、ワシ鼻で、顎は刃物のように角ばっている。
身長は180センチほど。わずかに前屈みになって立っている。
彼は、自分の名前をシャーロック・ホームズと名乗った。
もう一人は、灰色の髪に口ヒゲを蓄えた中肉中背の男。がっしりしていながら、指先だけは微かに震えている。
彼はジョン・F・ワトソンと名乗った。
ーー“ヘイミッシュ?” 関係ないさ。
ワトソンは震える手を押さえ込み、絞り出すように言った。
「ホームズ……酒が足りない。どうにかしてくれ。もう、何日も飲んでないんだ……」
ホームズは長い息を吐き、薄く笑った。
「ワトソン、酒よりもこっちの“クスリ”を味わおうぜ。外じゃ金が要るが、ここではタダだ。悪くないだろ?」
「ホームズ……君の“味わう”って表現やめてくれない?
それに、君がラリってる間、ボクは退屈なんだよ……」
ホームズは肩をすくめ、天井を見上げた。
そしてーー名探偵を名乗る哀れな魂は、まだ鉄格子の中だった。
(こうして、第一幕は虚構探偵で幕を閉じる。)




