69作目 聖女
カトレアはゆっくりと深呼吸して、店員から渡された紅茶を一口啜った。何回も擦ったマッチはようやく火がつき、大きく吸い込んで紫煙を吐き出した。
「例えば…そう例えば、目の前に強大な魔物が現れたらバルはどうする?どう抗っても勝てず、近くには大切な人がいるとしたら?」
「確実に逃げられるなら逃亡を選択する。少しでも大切な人とやらが逃げられない可能性があるならば、俺は戦う」
「そう…あたしは勝てない可能性があるなら逃亡を選ぶ。例えどちらかしか生き残れないとしても、あたしは逃げる」
カトレアの答えに失望はしなかった。それもひとつの正解であるし、何も間違ったことなど言っていない。
「あたしの命はもう安くない、そう易々と投げ捨てることなどできないよ」
「そうか、ならそういう場面が来たならばカトレアは逃げろ。俺がその場にいるならそのくらいの時間は稼ぐ」
「バルの命も安くはないよ、あたしのためとか考えなくていいから逃げなよ」
確かに俺の命は安くなどない、姉さんに救われ紡がれたこの命は決して投げ捨てることなどできない。ただそれでも仲間のために、助けるために死んでしまったとしたら俺は胸を張って姉さんに伝えることが出来る。
ティーカップ一杯分の紅茶をあっという間に飲み干し、カトレアは話を続けた。
「本題に入ろう。あそこにいたのは聖女、リエル・インフィア・ミストレア。代々受け継がれてきた"聖女"の役割を、僅か齢五歳からこなしている化け物だ」
受け継がれてきた、という言葉に引っ掛かりはしなかった。"聖女"は度々現れる、それは周期的なものではなく、魔物の進化個体のように突如にして現れる。
そして決まって聖女は、人外のような力を有しているものだった。ミストレアが他国に比べて王国と双肩に並べるのは、宗教によるものでもあるが聖女の存在が大きい。
この世界において武力はそれだけ比重が重たい。
「先代聖女が病床に伏す直前に指名したのが現在の八代目聖女、リエルだ」
「例のバリアを付与している存在だよな?俺も少しだけだが把握している」
「この国と聖女の関係は密接だ、その存在は広く知られているが細部までは一部を除いて把握されていない」
カトレアは声を潜め、俺との物理的距離を縮めて更に深く踏み込んで話をする。
「聖女の偉業は数多くある。ただその成り立ち上、聖女という存在は極めて異質だ。そして彼女は歴代聖女の中でも、群を抜いてイカれている」
「というと?」
「…ここでは話せない、人が多いからね。家に帰ったら詳しく話すよ」
彼女は俺から距離を離し、背もたれに寄りかかって天井を見た。10分ほどそうしていただろうか、俺の紅茶がなくなったタイミングで俺たちは店を出た。
帰路に着く最中、カトレアから再び例え話を出された。
「例えば…人間の動きや言葉、その全てを完璧に模倣する存在がいたとして、それは果たして模倣元の人間と同じと言えるだろうか」
「言えないな、それはあくまでよく出来た別の存在に過ぎない」
「そうだね、じゃあその模倣元の人間…仮にAとしよう、そのAの身体の四肢や内蔵、その全てに至るまでを模倣先であるBに変えていったらどうだろうか」
「Aの身体をBに置き換えていくということか?」
「そう、それは果たして同じ人間かな?」
難しい話だ、きっと答えなんてないんだろう。
ただ俺がこの例え話に答えを結論づけるとするならば、それは別の人間といえると考えた。俺のこの身体は、死んだ後に黒い男に引き渡すという契約だ。そのとき、俺は別の人間だ。身体は同じでも中身が違う。
「違うだろうな」
「そう、バルはそう考えるんだ。でもこの国の上層部は違うみたいだよ」
「どういうことだ?」
「さぁ、どういうことだろうね。ほら、もう家に辿り着いた。詳しくはこの先で話すよ」
木製の扉を開け、蝶番が不気味に音を立てた。陽の光が刺す部屋の中は相変わらず静かで、中央にあるソファにカトレアは座った。俺もその隣に座り、話の続きを待った。
「話の続きだ、さっきの話は聖女のことだよ。かつて昔にいた、初代聖女の力を代々別の人間に置き換えることで保っている」
「そんなこと、可能なのか?」
「基本的には出来ない、血液型や魔力型が合っていても身体パーツの移植は不可能。移植された人は死んでしまう禁忌とされている」
「じゃあどうやって?」
「さぁね、ただそうして適応した人間を聖女に指名されたとして、次の聖女に仕立て上げる。そういうやり方を取っているんだよ、この国は」
狂っていると思った。
聖女という力を持ち続けるために、別の人間の体を移植する…考えただけでゾッとした。ただ、それと似たようなことを俺もしてしまっているのではないか?と疑問に思った。
俺の左腕は黒い男とリンクしている気がするのだ、俺の失った左腕が唐突に生えたのは異能の力によるものも大きいだろうがその後彼に付けられていた枷は外れていた。
嫌な汗が、背筋を伝った。
「そうした歴代聖女の中でも、彼女は飛び抜けているんだ。生まれ持った才能と資質、受け継がれる能力と魔法。ある程度の指向性を持った自立した暴力そのものなんだ」
受け継がれる能力と魔法…遺物とそれによって与えられる異能とよく似ている。ただそんな狂気の手段をあのエースが取るとは思えない。よく似た別の何かであると考える方が自然だ。
気味が悪いことに変わりはない、ただエースに対する信用や信頼はそんなものでは揺らがないと確信する。
「聖女は…具体的にどこがイカれているんだ?」
聖女がイカれているというのは初出の情報ではない。アラクネやアストラが過去に言っていたことだ。ではなぜそこまでみなが一様に「イカれている」と表現するのだろうか。
カトレアは天井を仰ぎ見て、目を細めた。
「彼女に取って愛情は肉体的痛みを伴うものだ。誰かに好意を示すとき、そして誰かを罰するとき、その両極端の双方は等しく痛みを伴って表現する」
「つまりどういうことだ?」
「誰かを愛するとき、誰かを罰するときに彼女は拷問をする。爪を剥がし、腹を裂き、頭蓋を砕く」
彼女は人差し指で自分の爪を、腹を、頭を突いた。彼女の言ってることは理解できなかったが容易に想像することが出来てしまった。
「なぜそんなことを?」
「聖女の引き継ぎは苦痛を伴う。想像もできないような痛みと苦しみを持ってして、その力は受け継がれる。それが人格形成も、精神育成もされていない僅か五歳にして行われてしまったとしたら、歪んでしまうのも無理はない」
「…そうか」
「彼女を責めることなど出来ない、ただ現状リエルは化け物だ。出来る限り触れず、刺激しない方がいい」
「なんでそんなことを知っているんだ?聖女の成り立ちや詳しい詳細まで…普通の人は知らないんだろ?」
「あたしも、普通じゃないってことだよ。知ることは痛みと喪失を伴うものだからね」




