66作目 バルバトスの矜恃
家に帰ると薄い明かりが部屋を照らしていた。すごく静かで、少しだけ広く感じるリビングの食卓には手をつけられていないパスタが置いてあった。カトレアが片付けようとするのを止め、フォークで巻き取って一気に口に運んだ。
冷めきったパスタを咀嚼している間、頭に浮かぶのはアストラのことではなく学園生活をどう乗り切るかだけだった。やることは変わらない、ただひとりで潜入する以上本格的に失敗は許されないし、正確に情報を積み上げねばならない。学園で俺の稚拙なミスをカバーしてくれる仲間はいない、カトレアにも迷惑はかけられない。
Aクラスは一限から六限まで授業が詰め込まれている。一限辺りの時間は一時間で、休み時間は昼のみ。チャンスは昼の休み時間と実技の授業で一緒になるときのみだ。
空になった皿をカトレアに返し、風呂に入って浴槽に浸かった。アストラは熱い湯が好きなせいで俺たちは常に高温の湯船に浸からざるを得なくなっていた、この日のお湯も高温だった。柔らかい針に包まれるような刺激が身体に走ったあと、指先から徐々に熱が伝わり、全身がじんわりと熱を帯びていく感覚になる。大きく息を吐き、顔にお湯をかける。
やるべきことは明白で、迷いは無い。覚悟は決まっているし、あとは前に進むだけだ。ただ少しだけ、ほんの少し心にトゲが刺さってしまった。喉の奥につっかえた小骨のように、靴の中に入り込む小石のように煩わしい俺の弱い部分が、微かに邪魔をする。
高温の湯を纏いながら浴室を上がり、脱衣所で頭を拭いた。乾いたタオルが徐々に柔らかくなっていき、次第に濡れて冷たくなった。リビングに向かうと洗い物を済ませたカトレアが目を細めながら天井を向いていた。口に咥えた煙草は微塵も動かず、ただ紫煙を高く立ち上らせていた。
「なぁカトレア、一本もらえるか?」
「病気のリスク、呼吸器や循環器の重大な疾患、寿命が減る。それでも吸う?」
「もらえるか?」
「一本だけね、これを最後にしてよ」
口に咥えた煙草を灰皿の上に置き、白衣のポケットからシワだらけの箱を取り出し何度か上側を叩いて1本俺に差し出してくる。見様見真似で口に咥え、マッチによって灯された途端に一気に吸い込む。
重たい煙が口の中に広がり、喉が痛む。数度咳き込んだ後、もう一度吸い込む。快楽なんてものは一切なく、ただただ不快な気持ちになるだけのこの煙の一体どこがいいのか分からなかった。
「けほっ…けほっ…」
「はは、大丈夫?」
「あぁ…大丈夫だ…カトレアはよく吸えるな」
「そうだね、こんなもののどこがいいんだろうね」
顔を横に向け、耳にかかっていた赤く長い髪が頬に垂れた。顔には光が当たらず陰りが見え、うまく顔が見えなかった。長い沈黙の中、何度目かの煙を飲み込んだ。煙草が燃ゆる音がして、間抜けな音がなった。
「そろそろ寝る、煙草ありがとう」
「気にしなくていいよ、誰だって一度は吸いたくなるものだからね。それと明日制服を仕立てに行くから昼までには起きておいて」
「分かった、おやすみ」
「あぁ、おやすみ」
吸殻が山盛りになった灰皿に煙草を押し付け、俺は自室に戻った。ベッドの上に転がり込み、両手足を広げて天井を見た。涙はとうに出し切った、心にぽっかりと空いた喪失感はあれど一時的なものだと思えたことでどうにか耐えれてはいる。
夜は少し冷える、冷たい空気を肺に入れ毛布に顔を埋めた。ゆっくりと目蓋を閉じて完全な暗闇で視界を塞いだ。脳内で反芻するように何度もアストラとの会話を噛み締めた、
初めて出会ったときは生意気そうなやつという印象だったが素直なやつだとすぐに分かった。訓練を共にして、夢を語った。俺を奮い立たせ、前を向かせてくれた。
隣に立とうと努力をした、立てる気がした。その度に彼は離れていき、とうとう遠くまで行ってしまった。彼は仲間思いで、優しくありながらも復讐人であり、類を見ない天才で俺の友だ。
夜は、相変わらず少し冷える。それは孤独さを際立たせ、輪郭を帯びて明確に俺を襲う。それは孤独であろうがなかろうが、万人に牙を剥く。
アストラは、朝によく似ている。一日の始まりであり基準点、万物の明確な指標であり行動する上での指針になり得る。温かな光は万人を安心させ、活力を持たせて前に進ませる。
長い夜だ、けれど仲間と焚き火を囲う夜というのは案外悪くない。朝が来るまで、彼が帰ってくるまで待とう、長い夜の中で。
それが俺の意地であり、譲れない矜恃というものだ。




