65作目 バルバトスの怒り
俺はアストラが居ないことをひしひしと実感しつつあった。叫んでも、名前を呼んでも、決して返事が返ってこない。頭の中に浮かぶのはアストラの笑顔や、怒った顔、悲しんだ顔や、また優しく笑う顔が俺の脳裏に反響した。
森の入口の前で頭を垂れて這いつくばり、地面を力いっぱいに握りしめた。嗚咽にも似た声が喉から勝手に溢れ出る。彼はもう仲間ではなくなってしまった、次にいつか会ったとしてもそれはアストラではない別の何かで、きっと名前を呼んでも振り返ってはくれない。そういう道を彼は選んだ、辛く苦しい道のりだろう、茨まみれの道程は傷つくだろう。それでも傷付く道を彼は…
「俺は…俺はッ!!!まだ何も伝えれてないッ!!」
後悔が、怒りが、そして喪失感が胸の内側を支配する。いつだって彼は隣にいて、姉さんを失った俺の半身にも近しくなっていた。話したいことなんか決めなくても、自然と他愛もない会話ができるのは心地よかった。けれどそのせいで俺はいつだって大事な言葉を吐けずにいた、俺は…アストラが大事だ。
俺の夢を聞いただろ、俺の夢を勝手に作っただろ。
俺が作る小麦畑を、お前は見てくれるんだろう。
いなくなってどうする、消えてどうする。
「こんなふざけた世界…壊れちまえよ…」
残酷な世界の崩壊を願う俺のちっぽけな声は闇夜に吸い込まれて消えてしまう。土と草を握りしめた手の甲に水滴が滴り落ちた。
黒い左腕は俺の涙すらも黒く染め、残るものは頬を伝う痕だけだった。背後から土を踏む音がして、振り返ると月夜の下でカトレアの顔だけが煙草の火で光っていた。
「帰るよ」
「どこに?」
「家に決まってるでしょ、いつか分からないけどきっとアストラは帰ってくる。それまで待とう」
「いつだよ、いつになったらアストラは帰ってくる?」
カトレアに当たり散らかしてもなんの意味もないことは分かってた。けどこの喉の奥から出る言葉は留まることなくカトレアを殴った。
「さぁね、けど必ず帰ってくるよ」
「どこにその確証がある、アストラを取り巻く問題はそんなに簡単に取り除けるものではない」
「それでもだ、あの子が仲間である限り嘘はつけないし取り決めた約束は守られる」
その言葉を聞いた途端、頭の中に浮かんだのはかつてエースにあの館で教えてもらった"墓標"の掟だった。第一項、墓標に誓って約束は必ず守らなければならない。第三項、誓って嘘をついてはならない。
心の中で熱く煮え滾る感情が、水をかけられたように静まり返った。
「ただ、あいつは"墓標"を抜けるようなことを…」
「エースが認めるわけないよ、抜けるなんてことね。それにあの子がどう思っていようが、あたしたちは仲間だと思えばいい」
無茶苦茶な理論だ、彼本人が仲間でないと思ってるならそれは掟に適用されないんじゃないか?と思った。けれどそれでも、それでいい気がした。俺たちが仲間だと思えば仲間、掟の曲解もいいところだ。だがそれでいいんだ、その馬鹿げた曲解は信じる理由に事足りる。
どれほど長く生きられるか分からないが、勇者を殺したあとの嘘みたいに平和な、安寧の訪れた世界で彼を待とう。
そうと決まればやるべきことは明白だ、アストラはアストラのやるべきことをやればいい。俺は俺のやるべきことをやればいいんだ。ひとまずは任務の継続と成功を目標に頑張ればいい。
「今日は色々とすまなかった、冷静じゃなくなりすぎたようだ」
「いいんだ、誰だって失うのは嫌だからね。さ、帰ろう」
「あぁ」
家に戻って二人でソファに座ってゆっくりと沈黙を噛み締めた。冬のすきま風のような物悲しさや精神的な凍えが心を冷やし、ただ隣にいるカトレアだけがじんわりと俺を温めていた。
アストラがこの場にいなくとも、俺はきっと上手く歩ける。しばらくはカトレアと二人三脚でやっていこう。
あいつがいつか帰ってきた時に精一杯怒れるように、受け止められるようにもっとずっと強くなろう。
俺に出来るのはそれくらいだ、とっくにバカになってしまった俺の心の指針はふざけたくらいに曖昧だ。けれどそれが指す方角くらいは信じたっていいだろう。
いつだって俺は誰かに助けられてその場に留まることを許されている。姉さんが命を賭して守ったこの命は高くつく。
俺も大人になろう、アストラが覚悟を決めたように俺も更にもう一段階強くならなければならないのだ。




