最弱ですが、頑張ります!
軀方さんを背に庇い、敵意を込めて実験体を睨みつけた。
けれど、深く息を整える。―――焦るな、落ち着け。
―――こいつは……人を傷つけることに、一片の躊躇いすらない。
しかも、最初に狙ったのは軀方さん―――!
その瞬間、頭の奥に火がついたように熱が走る。
「アレぇ~?なんで避けられてんだぁ?」
実験体は、不思議そうにこちらを見ていた。
だが、その表情は一瞬で消え―――
「まぁ、いっか」
キヒッ―――と笑い声を残して、また視界から掻き消えた。
―――来るっ!
息を止めた―――タイムアルバムが発動する。
世界から音が消える。
空気が止まり、風が止まり、足元の砂を踏む音さえも聞こえない。
代わりに、ピンッと張り詰めた無音だけが辺りを満たす。
次の瞬間、実験体はまた軀方さんの首を狙って腕を突き出していた。
―――もう、避けるだけじゃダメだ。
僕は右手を強く握る。
止まった空気が泥のようにまとわりついて、体が重い。
それでも無理やり動かして、拳を振りかぶる。
この技は、夏休みの間に何度も繰り返し練習した。
ポイントは―――「タイミング」だ。
時が止まってる間は、まだ殴らない。
空気の重さを、拳に込める力に変えていく。
まるでデコピンのように。
動きにくさという弱点を、溜めの時間に変える。
そして、力みが最高潮に達した瞬間―――覚悟を決めて、息を吸い込んだ。
―――ゴキャッ‼
拳が実験体の顔面に突き刺さり、関節のない人形みたいに吹っ飛んでいく。
だけど、僕も反動で弾かれた。
衝撃に耐えきれず、そのまま地面を転がっていく。
土埃を巻き上げながら、何度も何度も跳ねた。
背中を強く打って、ようやく止まる。
―――ドサッ!
肺の奥から空気が一気に抜ける。
痛い……体中が、軋む。
アニメの主人公たちは、平気そうに立ってるけど……こんなに痛いなんて。
声も出ない。
特に、拳がズキズキと疼いた。
見てみると、拳が腫れ上がり、皮膚の下で骨が変形していた。
見るだけで吐き気がする。
……自分のなのに、目を逸らしたくなる。
一発で、これだけのダメージ。
もう右手は……いや、まだ終わりじゃない。
まだ、安心できる状況じゃないんだ。
痛みに耐えながら体を起こして、周囲を見渡す。
軀方さんは、同じ場所に立っていた。
一瞬の出来事だったから、まだ状況が分からないのかもしれない。
実験体は動かない。
拳のダメージを考えれば、顔が無事なわけない。
ふらつきながら立ち上がり、服についた砂を払って軀方さんの方へ向かう。
「唯一君、大丈夫?」
「ちょっと……右手がヤバいかもです」
「それじゃ、コレ使って―――」
軀方さんが差し出したのは、筒形の注入器だった。
過藤先生の開発した、ケガを治すナノパーツ。
僕も持ってはいるけど、今は素直に受け取る。
それを右手に注入すると、傷はまだ治りきらないものの、痛みだけはすっと引いていった。
「ありがとうございます、軀方さん。……痛み、引きました」
「良かった」
前髪に隠れて表情は見えなかったけど―――
その一言が、ほんの少しだけ僕の心を軽くした。
「でも、あまり無理しないでね、唯一君」
そう言いながら軀方さんが僕の右手を取る。
「あ、はい、でも、僕も男の子ですから……軀方さんを、守りますよ」
「えっ、守る?」
あれ、当然の事を言ったつもりなんだけど。
軀方さんはピンと来てないらしい。
「はい、軀方さんは年上ですけど……女の子、ですから」
「……女の子」
モジモジしながら猫背になっていく軀方さん。
巨大な小動物モードになった。
「女の子って……私、背も高いし、可愛くなんか、ないのに」
「関係ありません。女の子守るのに理由とか、いらないです」
「あ、あの、え、えへ、えへへ」
指先をイジイジしながら、軀方さんは変な声を漏らしていた。
……この人見てると、緊張感が一気に抜けていく。
「それじゃ、実験体確保して戻りま―――」
―――その瞬間だった。
「唯一君、あぶないっ!」
「えっ?」
言葉が終わる前に、頭が何かに掴まれた。
ドンッ‼
次の瞬間、僕の体はバットでフルスイングされたみたいに壁に叩きつけられていた。
脳内で星が弾けたかと思った。
しかもフルカラーで。
後頭部に響いた衝撃は、えげつないを通り越して、何かが壊れる音がした。
意識がプツッと切れかけて、視界の端が白く霞んでいく。
「あぁ?ガキがッ、邪魔すんな、クソが!」
頭上から聞こえてきたのは、実験体の低くくぐもった声。
さっきまで身動き一つしなかったのに、ちゃっかり復活してやがる……!
「久しぶりの〝獲物〟だったのによぉ……あぁ、台無しだ、台無しだぁ!」
ぞわり、と背筋を這い上がる悪寒。
こいつ、本気で軀方さんを―――
立ち上がろうとした瞬間、腹に蹴りが突き刺さった。
「ごふっ……っ、がっ……!」
肺がつぶれて、酸素が全く入ってこない―――!
ヤバい……息が……吸えない……ッ!
これじゃタイムアルバムを発動できない―――
「これで、おとなしくなったな」
奴の視線が、軀方さんの方へと向いた。
やらせるか……!
地面に倒れたまま、手を伸ばして―――奴の足首を掴んだ。
「チッ、このガキィィィィィ!」
―――来る。
鋭いコイルの回転音が耳鳴りのように鳴り始めた。
「キュイィィィィィィ―――!」
ドゴゴゴゴゴッッ‼
腹に、音速で打ち込まれる蹴りの連撃。
痛い、苦しい……!
でも―――それでも!
「……は、離さないぞっ……!」
手にギチッと力を込める。
指先の感覚なんて、とっくに消えてる。
それでも、足首だけは……絶対に離さない!
軀方さんに、指一本……触れさせないっ!
だが―――
「ッ……!」
一瞬、連撃が止まったと思ったら―――
今までのとは比較にならない衝撃が腹に直撃。
「ガハッ……ッ!」
ぐちゃり―――内臓が潰れる感覚。
口内に鉄の味が広がり、赤黒い血を吐き出した。
「グホッ、エホッエホッ!」
咳をするたび空気ごと意識が逃げていく。
このままじゃすぐに手を放してしまう。
それならせめて―――
「に、にげ、て……く、がた……さん」
「るっせぇんだよガキがっ!」
顔面を蹴られてのけ反った拍子に、ついに僕は手を放してしまった。
同時に軀方さんが、よろめきながら必死に逃げていく―――
その背中だけが、やけに鮮明に映った。
「キヒヒッ、逃げろ逃げろ!」
―――掠れた。実験体の姿が。
このままだと……軀方さんが!
力の入らない腕を動かして自分の注入器を取り出す。
それを首筋に打ち込み、呼吸を整えようとしたがせき込んで上手くいかない。
早く痛みが引いてくれ。
一秒でも早く!
軀方さんの体がガクンッと傾く。
実験体は残像のように現れては消えた。
そのたびに軀方さんの制服に切れ目が入っていく―――
それが何度も繰り返えされた。
実験体が軀方さんをいたぶっている―――
胸の奥が、焼けるように熱くなった。
怒りか、悔しさか、いや―――守りたいって想いだけが、心の全てを煮え滾らせる。
もう、体の痛みなんてどうでもよかった。
呼吸は整ってきた。
右手も―――だいぶ、回復してきている。
まだ体に力が入らないが、無理やり立ち上がろうとした時―――
「なんでだっ!なんであたらねぇんだよぉっ!」
急に姿を現した実験体が、叫んだ。
えっ?立ってる。ボロボロの制服のままで―――
軀方さんが、普通に、そこに。
「クソッ!クソクソクソッ!」
実験体を中心として空気が歪んだ。
軀方さんの身体が、流れるように動く。
右、左、後ろ、前―――
踏みしめるたび、まるで風の音にのるみたいにしている。
なんだコレ、一体どうなってるんだ?
もしかして軀方さん、実験体の攻撃を避けてる、のか?
「チッ、なんなんだよ、この女ぁッ!逃げ出したくせにッ!」
「私は、逃げたんじゃありません……」
軀方さんの声は、静かだけど確かに聞こえた。
「距離をとったんです。唯一君から」
「なにわけわかんねぇ事いってんだよ!」
「私は怒っています」
スッと腰に括り付けてるランタン型のオーパーツ―――手を添えた。
「あん?怒ってるだぁ」
「私の大事な仲間を傷付けた事を、です!」
そう言うと、ランタンのつまみをガチャンと下す。
「―――グレイステップ」
声と同時にランタンの小窓が開き、中から青白い炎の光が漏れ出た。
それは夜に揺らめく鬼火のようで、まるで明かりを灯すというよりも―――
人の魂を惑わすように怪しくほのかに辺りを照らしていた。
軀方さんを中心として風が止む。
音も静まり返る。
全てが終わってしまったかのような静寂。
―――ハラリ。
軀方さんの周りに何かが降り始めた。
それは雪のようにゆっくり静かに。
範囲外なのか僕には降ってこない。
でも、手を伸ばせば届く距離のそれを取ってみる。
手の中でクシャッと解けていくそれは、灰だった。
それがシンシンと落ちてくる。
軀方さんが、その中で静かに佇んでいた。
背筋を伸ばしながら、でも何も見ていないように無気力に。
ただ、そこに立っている。
「任務、ナノパーツ回収、敵、殲滅」
降り始めた灰よりも静かで、冷たい―――
軀方さんの呟きが、聞こえた。