第五話「思い出」
室内を回り終えた三人は、作戦会議をするために屋上のカフェへと向かった。
「すみません、すみません……」
碧は大きすぎる荷物を他の客にぶつけそうになりながら、ようやく席にたどり着く。
志保と雫は注文したドリンクを受け取り、その向かいに腰を下ろした。
「「ご馳走様です」」
ふたりが大袈裟に頭を下げると、碧は少し気取った調子で言う。
「いいえ、これで許してもらえるなら安いものです」
志保は奢ってもらった、マンゴーフローズンドリンクのストローを咥えた。
濃厚な甘味となめらかな舌触りが、たまらなく美味しい。
隣では、雫がチョコリスタを飲みながら、もごもごと何かを言っていた。
どうやら「チョコチップの食感が最高だ」と伝えたいみたい。
志保はひとしきりドリンクを堪能すると、ストローから口を離す。
「碧くん、今日どうしよっか」
碧は手にした抹茶リスタをストローでゆっくりとかき混ぜる。
「主人公の同級生の『大切なもの』が盗まれるっていう設定だったよな? 忘れてないよね? もう一回説明しとく?」
二人は脳が揺れるぐらいの勢いで首を横に振る。
碧は黙ってそれに頷く。
「その『大切なもの』が何かを決めたいんだ。そこさえ決まれば、話の流れが見えてくる。他人を観察すれば何かヒントが得られるかもしれないと思って、今日はここに来た」
「てっきり、舞台場所の調査かと思ってた」
「舞台は俺らの学校でいいんじゃないかって」
雫がわざとらしく碧の大きなリュックを指差す。
「で、その『大切なもの』を見つけるために、そんなに荷物がいるんだ」
碧はリュックの中をゴソゴソと探りながら、次々と机の上に道具を並べていく。
「双眼鏡、観察に必須。手帳、スマホの入力ではデータが飛ぶ恐れがあるので必須。変装道具、いかなる状況におかれるか分からないので必須。ICレコーダー、スマホなんかじゃ範囲が狭すぎるので必須。トラベルセット、何泊かかるか分からないので必須。目薬、目が霞むと——」
「うん、だいたいわかったよ。碧くんは、探偵ごっこしたかったんだよね」
志保が目を細めると、碧は少しうろたえたように耳を赤くする。
「ち、違うって!」
慌ててリュックの中に道具を押し戻す碧の姿に、雫はクスクスと笑った。
「と、とにかく、いろんな人を見て『大切なもの』を見つけよう。はい、開始!」
碧がそう言いながら、強引に場を締める。
それから三人は、カフェで過ごす人々をじっと観察し始めた。
窓の外には、水族館を楽しむカップルや親子連れの姿が見える。
志保は、気づけばそこに自分を重ねていた。
どれだけ強がってみても、この気持ちはちっとも晴れていない。
胸に引っかかるこの痛みは、こんな穏やかな風では決して飛ばされないみたいだ。
——碧くんを独り占めしていた、あの時間だけは。
右手で垂れた髪を片耳に掛ける。
——忘れない。忘れてほしくない。
そして、碧と目が合う。
「……『思い出』は、どうかな?」
碧は目を逸らず、それを肯定してた。
それは、哀れみなのか。
それとも、ただの同情なのか、優しさなのか。
——まだ、わたしはあなたに。
雫がチョコリスタを飲み終え、満足そうに息をついた。
「いいじゃん! しっとりロマンチックなラブコメっぽいんじゃない?」
志保は静かに目を伏せる。
あの一瞬、碧くんはあの時間のことを思い出してくれただろうか。
気づけば、視界がぼんやりと滲んでいた。
これ以上は耐えられないと思い、志保は席を立つ。
「よし、決まったことだし帰ろっか」
碧が不思議そうに顔を上げる。
「まだ『思い出』が何なのか決まってない」
「それは、うちのエース作家・白石碧先生の仕事でしょ?」
「……マジ?」
ああ、嫌な言い方しちゃったかな。
振られたから腹いせに、なんて思われたかな。
「志保、まだ帰っちゃダメ」
突然、雫が空のカップを持って立ち上がる。
「甘い物食べに行こう。ここら辺詳しいんでしょ?」
「……え、うん、まあまあ、だけど」
「それじゃあ決まり。バイバイ、碧!」
碧は眉を八の字にして雫を見つめた。
「俺は行っちゃダメなの?」
「残念ながら、男子禁制なので」
「そんな……」
項垂れる碧を横目に、志保と雫はカフェを後にした。
二人は水族館を出て、近くの古民家カフェへと向かった。
俗にいう『カフェのはしご』というやつだ。
木漏れ日が差し込む席で、雫がチーズケーキを口に運ぶ。
「むまい!」
「それは良かった。連れてきた甲斐があったよ」
雫は実に幸せそうに頬を膨らませる。
「それで志保、話があるんだけどさ」
雫がふいに顔を上げる。
「もしかして、碧と喧嘩した?」
「……してないよ?」
その瞬間、志保の手が小さく震えた。
喧嘩をしたわけではない。
でも、雫がそう感じたのなら、志保の態度がどこかぎこちなかったのだろう。
雫はじっと志保の目を見る。
「今の間、怪しいですね……」
そう言いながらも、雫は深く追及することはしなかった。
「まあ、志保が違うって言うんなら違うんだろうから。安心した」
「ごめん、なんか変な雰囲気だったかな?」
「なんとなくそう思っちゃっただけだから、気にしないで」
雫はケーキを口に運びながら、にこっと笑う。
「あとはスイーツに集中しよう!」
雫の気遣いが、志保の胸を痛めつける。
「ここ抹茶のテリーヌも美味しいんだよ。食べる?」
「うんうん食べる! テリーヌがよく分かってないけど、志保が言うならきっと美味しいはず」
雫は無邪気な笑顔を志保に向ける。
何も考えていないように見えて、実は誰よりも周りを見ている。
それでいて人懐っこく、可愛い容姿を持ちながら、飾らない性格まで備えている。
——まだ、こんなこと。
雫は、志保にとって数少ない大切な友達だった。
だからこそ、そんな目で見てしまう自分が嫌になった。
「雫、ごめんね……」
気づけば、そう呟いていた。
雫はフォークを口に咥えたまま、きょとんとした表情で首を傾げる。
テーブルに運ばれてきた抹茶のテリーヌを口に運び、志保は小さく息をついた。
雫には、少し苦すぎる味だったかもしれない。
それでも、きっと、雫は笑って「美味しい」と言うのだろう。