エピローグ
「おーい、白石、増田先生が呼んでるぞー」
「はい、分かりました! 今、行きます!」
青羽文庫編集部一年目、白石碧は、担当の作家に呼び出されていた。
大手とはまだ言えない出版社なこともあり、
既に碧は一年目にして編集者に抜擢されている。
資料が山積みになった机が並ぶオフィスを抜け、会議室へと向かった。
「ここ、やっぱりこっちの方がいいって」
「いやー、そのお気持ちも分かるんですが、ご時世的にはちょっとまずいかと……」
「だって、どう見ても、こっちの方が面白いよね?」
碧が担当しているのは、新人作家の増田だった。増田のデビュー作は、出版社の予想を遥かに上回る売れ行きを記録し、現在、二作目への期待が高まっている。
「変更案のほうでも、増田さんレベルであれば、もっと面白いプロットが作れるんじゃないですか?」
ソファにどっしりと座る増田は、しばし沈黙する。
やがて、低く唸るように言った。
「……やってやろうじゃないか」
「ありがとうございます。それでしたら、どのくらいに仕上がりますでしょうか?」
「んなことやってみなきゃ分からんだろ。これだから、書いてない編集は」
——いやいや、結構書いたし、応募したし、今でも書いてるんだけど。
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、碧は営業スマイルを作る。
「そうですよね。分かりました。目処が立ちましたら、またご連絡ください」
「おう」
軽快に返事をすると、増田はさっさとオフィスを後にした。
「大変だなー、白石も」
自販機の前で待ち構えていた上司の東山が、缶コーヒーを渡してくる。
「全く、誰のせいで増田先生の担当になったと思ってるんですか。東山さん、知ってて俺に担当させたでしょ。チャンスを下さったのは感謝してますけど。あ、缶コーヒーありがとうございます」
東山は碧がブラックコーヒーを飲めないことを、まだ知らない。
「新人は鍛えてなんぼだからな。俺のことをありがたがる日があと数年後に来るから」
「……数年間は耐えなきゃいけないんですね。今の世代って、すぐに辞めちゃうんですよ?」
「白石は辞めないから大丈夫だ」
「……正解です」
二人は軽い冗談を交わしながら、自席へ戻る。
「早上がりだー!」
今日は金曜日。
働き方改革の流れで、金曜日は定時退社が推奨されている。
とはいえ、金曜日を定時退社にしたことで、飲み会という名のサービス残業が発生するのが常だった。しかし今日は、珍しく東山がそそくさと帰ったため、スムーズに帰路につくことができた。
「東山さん、結婚記念日かなんかだったのかな。あの荒足はそうに違いない」
妻には勝てないと、飲み会のたびによく愚痴っていた。
「愚痴じゃない」と本人は否定するが、あれはどう考えても愚痴だった。
せっかくの金曜の夜、にも関わらず、碧は大型書店に立ち寄る。
全く職業病だなあとつくづく思うのだが、
元々本が好きなんだから、これは別腹だ。
本屋に入ると、まずは新刊をチェックする。
特に書店員が推している本は入念に見る。
書店員になる人で、本が嫌いな人はいない。
そういう偏見があるので、書店員のおすすめは信頼できる。
何かの賞を受賞した本は『この時代に合わせた作品』ではなく、『この時代の空気を作ろうとする作品』が多い。碧は、そういう本よりも、時代の空気をすくい取って書かれたものが好きだった。さらに、編集者としての審美眼を鍛えられるし、自分が書く際の空気感を掴むこともできる。まさに、一石二鳥だった。
「あ、これ……東山さんが言ってた本か」
東山から「読んだら分かる」とだけ言われた小説。
碧は訝しみながらも、表紙に触れる。
真っ白な装丁に、シンプルな文字だけのデザイン。
表面は和紙のような柔らかな質感をしていた。
イラストを使わない潔さがいい。
気合の入った作品のようで期待感が高まる。
その後、この本を中身を見ずに購入した。
一気読みこそが正義だと思っているので、できるだけ本文は目に入れたくない。それに、いい本に出会えた時の感動が倍増されるので、この博打方式の方が好みだ。
購入した本を手に、碧はマンションに帰宅する。
本は買ったその日に読むのが一番楽しく、さらに購入してからの時間が短ければ短いほど興奮するという理論を武器に、碧は洗濯物を回さずに本をデスクで読み始めた。
ページを捲る。
視線を落とす。
指先が、綴られた文字を撫でた。
『「碧のことが、ずっと、好き」』
言葉に触れた瞬間、時が滲んだ。
揺らいだページを、捲り続けた。
『あとがき
最後まで読んでいただき、ありがとうございました——。
主人公の雫は、あなたにとってどのように映ったでしょうか?
残虐で無慈悲な、暗殺者として。
無力で身勝手な、高校生として。
無邪気で可愛い、少女として。
おそらく、そのどれもが雫なんだと思います。
雫を好きになった人もいるでしょう。
雫を嫌いになった人もいるでしょう。
それでも、雫の確かな息遣いが、あなたに届いたという事実。
それが、わたしにとって、何物にも代えがたい奇跡なのです。
最後になりましたが、この作品に——』
「……雫が」
雫が、生きている。
もう会えないのかもしれない。
もう話せないのかもしれない。
——それでもいい。
雫が生きている。
それだけで、もう十分だった。




