第三話「無音の暗殺」
「来た来た来た」
ナンバーを確認。
ターゲットに間違いない。
わたしは小走りで地下駐車場へ入り、車の後ろに回る。
ビニール手袋を装着し、コンクリートの柱の陰から、車内を覗く。
「あ、いた。おじさん」
——安藤。
後部座席に座る安藤の隣には、スーツ姿の男が一人。
助手席と運転席にも、それぞれ護衛がいる。
駐車完了と同時に、距離を詰めた。
運転手がドアに手をかけた瞬間、わたしは意識を時間に接続する。
——時間が止まった。
今から三十秒、世界は静止する。
運転席のドアを全開にし、中へ滑り込む。
後部座席の安藤に向け、銃口を突きつける。
——引き金を引く。
銃声は響かない。
宙に浮いた拳銃を残し、わたしはもう一丁の銃を左ポケットから抜く。
安藤の隣の男の頭に向けて発砲。
さらに、運転席、助手席の護衛のこめかみに至近距離で引き金を引いた。
しかし、まだ動きは止めない。
浮遊する拳銃の引き金に、運転手の指を絡ませる。
もう一丁の引き金には助手席の男の指を沿わせ、それぞれ後部座席に向けさせる。
これは、護衛たちがターゲットを殺し、動転して自殺したように見せかけるためだ。
最後に、わたしは運転席から車外へ出て、ドアを閉める。
駐車場の出口へ全速力で走る。
「はあ、はあ、あと、五秒ぐらい……かな……」
言い終わると同時に——
くぐもった銃声と、肉を撃ち抜く鈍い音が、背後から聞こえた。
額の汗を拭いながら、スマホを操作する。
掃除屋への依頼を済ませると、あっという間に現場が『事故』か『失踪』として処理される。
警察が動いても原因不明のまま終わるだろうから心配は、ないはず。
「……やっちゃったなー、早いとこ伊藤さん呼ばなきゃ」
地下駐車場を抜けると、すでに伊藤さんの車が待機していた。
すぐさま後部座席に飛び込む。
「すぐに出して」
「分かりました」
事態を察した伊藤さんは、何も聞かずに瞬時に車を発進させた。
数分後、スマホに通知が届く。
『全四人確認済み。カメラ済み。処分場へ移動中』
それを見た瞬間、全身の力が抜ける。
「……終わったみたい。お騒がせしました、伊藤さん」
運転席の背もたれが、わずかに傾く。
「まったくです、お嬢様。まさか、こんなに早くお呼びがかかるとは思いませんでした。何か起きたのですか?」
「……起きた、というか、起こした……?」
ルームミラー越しに伊藤さんの眉間の皺が深くなるのが見える。
「お嬢様。またお父様にご心配をおかけするようなことを——」
わたしは、運転席へ身を乗り出し、上目遣いで伊藤さんの横顔を覗き込む。
「で、でもさ! ちゃんと終わったし! 確認も取れたし! ね?」
「それで、お父様にはご連絡を?」
「……してない」
「してください」
「……はい」
大人しく後部座席に戻り、スマホを取り出してパパに電話をかける。
『はい』
怒ってる。完全に、怒ってる声だ。
「パ、パパ。今日の仕事、終わったよ」
『早かったな』
「すんなり、終わっちゃって……」
電話越しに、ため息が聞こえる。
『他に、言ってないことは?』
「……ごめん。部屋には行かなかった」
『安藤の部屋か。じゃあ、どこで殺した?』
「地下駐車場に来たタイミングで」
『……クロノスタシスを使ったのか?』
「うん」
耳をスマホから少しだけ離す。
「極力使うなと言っただろう」
予想に反してパパは小さな声で諭した。
『まあ、いい。掃除の連絡もさっき入った。今日はもう帰って来い』
「分かった」
電話を切り、窓の外をぼんやりと眺める。
「……お父様は、何と?」
「別に。たいしたことは言ってなかった」
「ご心配していたでしょう」
「一言もないよ、そんなの」
伊藤さんは何か言いかけたが、結局、何も言わなかった。
わたしは、スマホの画面を見つめたまま、小さく呟く。
「……わたしのことは、もういいんだよ」
パパは、何も心配しなかった。
怒るでもなく、ただ機械的な小言を言っただけだった。
——わたしは、愛されていない。
その事実が、わたしを苦しめることはない。
ただ、そういう事実がここにあるだけだ。
伊藤さんの静かな声が響く。
「お父様は、お母様を亡くされてから、一人でお嬢様を——」
「その話、もう何度も聞いたよ」
母が亡くなったのは、わたしが二歳のとき。
顔すら覚えていない。
聞かされた話はいつも同じ。
父と一緒に外に出かけている時に、何者かに殺された、と。
それ以上のことは、誰も話してくれなかった。
「お嬢様。お父様は、間違いなくお嬢様を愛していらっしゃいます」
あまりにも突拍子もない言葉に、不覚にも笑ってしまう。
「……なんで、伊藤さんがわかるのよ」
パパがわたしを機能として扱うようになったのは、いつからだったのか。
小学校に入る前は、そんなことなかった。
あの頃のパパは、もっと——
クロノスタシスが開花したあの日。
三歳のわたしは、家の庭で蝶々を追いかけていた。
春の陽だまりの下、ひらひらと舞う蝶々をどうしても捕まえられず、ひどく悔しがっていた。
「パパー! チョウチョ、つかまらない! ムカつく!」
「もうやめる?」
「……あとちょっとやる!」
負けず嫌いなわたしは、必死で蝶々の背中を追いかけた。
しばらくすると、黄色の百日草に、ひらりと蝶々が止まった。
そっと、気づかれないように手を伸ばした、その瞬間——
蝶々が、羽を一往復させたまま、止まった。
——静寂が訪れた。
さっきまで吹いていた風の音も消え、耳に響くのは自分の心臓の鼓動だけ。
怖い。怖い。怖い。
わたしは、たまらず声をあげて泣いた。
いつもなら、泣けばすぐにパパが駆けつけてくるのに、パパの声が、聞こえない。
不安に駆られ、ぎゅっと目を閉じた。
涙を拭って、もう一度目を開けると、蝶々はまだ空中で止まったままだった。
わたしは怖くなって、パパの方へと走った。
パパの顔を見ることもできなくて、百日草の花畑だけを見つめながら必死に走った。
パパの足にしがみついた時、花畑を揺らす風の音が戻ってきた。
「パパー! チョウチョが……チョウチョがね……チョウチョが……」
飛び跳ねながら、泣きながら言葉を繋ぐ。
パパは、わたしの頭を優しく撫でた。しゃがみ込んで、目を合わせてくれる。
その瞳は、笑っているようにも泣いているようにも見えた。
「落ち着いて雫。蝶々がどうしたの?」
「チョウチョが……止まってた。飛んで……止まってた……」
パパの表情が一瞬こわばり、そしてふっと緩んだ。
「……怖かったね。でも、大丈夫。蝶々さんが止まって怖くなったら、またパパのところに来なさい。いつでもヨシヨシしてあげるから」
「ほ、ほんとう?」
パパはもう一度、わたしの頭を力強く繰り返し撫でた。
「うん、約束だ」
「……トリさんが止まっても、ヨシヨシしてくれる?」
「ああ、もちろん。止まって、静かになって、怖くなったら、走っておいで」
この頃、クロノスタシスは自分の意思とは無関係に発動していた。
何が引き金になっていたのか、いまだによく分からないままだ。
後にパパに聞いても、「知らない」と言われた。
まあ、パパのことだから、本当のことを言っているのかも怪しいけど。
小学生になる頃には、ようやく自分で制御できるようになった。
それと同時に、クロノスタシスを使った暗殺の訓練が始まった。
最初は生き物を使った訓練ばかりだった。
蟻、バッタ、カブトムシ、カラス、フクロウ、豚、牛、猫、犬——
さまざまな命を奪い、徐々に抵抗感を薄れさせていく。
それを繰り返し続けた。
その結果、今では、何も感じなくなっていた。
蟻を潰すのと犬を燃やすのは、感覚的には同じことだ。
ただ、『かつて抵抗感があった』という記憶だけが残っているにすぎない。
昔と今が違うのは、訓練が仕事へと変わったこと、それだけだ。
「本当に、空っぽだ」
そんなことを考えているうちに、車はもう家の近くまで来ていた。
「伊藤さんは、パパのこと、どう思う?」
唐突に話しかけられても、伊藤さんはまったく動じず、淡々とした口調で答える。
「娘思いの、素敵なお父様かと」
「伊藤さんに聞いたのが間違いだった」
「……何か間違ったことを言ったでしょうか?」
ちょうど五秒ほど沈黙が続いた後、お互いにクスクスと笑う。
車は徐々に減速し、ゆっくりと停まった。
伊藤さんが、こちらを振り返る。
「お嬢様、お疲れ様でした」
「ありがとね、伊藤さん。またね!」
後部座席から降り、ドアを閉める。
発進した車のテールランプが、じわりと夜の闇に溶けていく。
去っていく車に向かって、わざとらしく大きく手を振った。
「次は、伊藤さんからのツッコミからだね」
家の鍵を開け、玄関へと足を踏み入れる。
「ただいま」
家の中に響いた自分の声が反響する。
無意識にため息をつきながら、自室へと向かった。
ドアを開けると、黒い革のソファにぐったりと倒れ込む。
「あー、お風呂が来てほしいー」
呟いてみても、もちろん何も起こらない。
——明日は朝が早い。
「……だめだ、今、行かなきゃ」
最後の力を振り絞り、重い体を引きずるようにして立ち上がる。
「よっ」
荷物を放り投げ、そのままフラフラと部屋を出た。