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第三十四話「バイバイ」

 わたしは碧を突き飛ばした。


「女子の弱みに漬け込むなんて、最低な男だな……」

「ちょっと待て、俺が悪かったのか?」


 碧は目を丸くしている。


「そうだよ。デリカシーのカケラもない。そんなんだからモテないんだよ」

「は? モテてるかもしれないだろ? 雫になんでわかんだよ!」

「だって、一年の頃から隣の席で碧の友達みんな言ってたじゃない。『もったいないよなー、イケメンで成績も優秀なのに、性格がどうしてこうなっちゃったんだろうな?』って」

「おい、聞いてたのかよ。盗み聞きとか雫の方がよっぽど性格悪いだろ」

「わたしが性格悪いかどうかの話は今してません! 碧がモテないのが事実かどうかを話してるんです。論点をずらさないでもらえる?」


 疲れたのだろう。

 碧は黙る。


 追い討ちをかけるべきだったけど、わたしも疲れた。

 お互いの止めていた息がぷはっと漏れ出す。


「なんなの、これ」


 碧が声高らかに笑い声を上げる。


「なんだろうな、これ」

「死ぬかもしれないって時に何を言い争いしてんの、わたしたち」

「でも、楽しい」

「うん。そうだね」


 口論になって、笑い合って終わる。そんな一連のやり取りが、二人の間にできていた会話のリズムだったように思う。そう、この小気味いいリズムが、わたしたちの空気感だった。


 わたしはふと思いつき、口を開ける。


「あ、そういえば、手帳が消えないって言ってたけど、何か書いても消えないの?」

「うん、消えない。だから、途中からだけど、毎回手帳に書いてた。新しい発見とか考察とか」

「へー、ちょっと見せてよ」


 碧は手に持っていた手帳を下投げで放り投げる。


「ナイスボール…へー、すごい書いてるじゃん。どこまで続いてるのこれ。やっぱり、リセットされるのは二時間に一回?」

「そうそう。時間が測れないからハッキリとはしないけど、体感では間違いなくそう」

「ってことは……どれだけ経ったの?」

「……一年」

「一年!?」


 わたしは驚きのあまり腰を浮かして前傾姿勢になる。


「前回のターンが終わってちょうど一年間」

「そんなに経ってたんだね……」

「俺は実感ないけどな」

「まあ、そうだよね」


 碧が体を浮かせ、座ったままわたしの隣までやってくる。


「ところで、なんでここに来てたんだよ」

「なんでだろうねー」

「おいおい、この後に及んで隠す気か?」

「強いて言えば、思い出の場所を気分転換に巡っていたってところかな」

「……俺らと行った時の?」

「そう。あれ以来行ってないし」


 碧が空を見上げる。

 釣られてわたしも見上げた。


「あの日も、こんな快晴じゃなかったっけ」

「うーん、どうだろう。でも、日差しが強かったのは覚えてる。ガラスとかに反射しててさ。眩しくて」

「雫が遊園地に行ったことがないって話から、志保が『行こう』って張り切り出したんだよな」

「そうそう。なんでだろうね、志保って、こういう時だけ急に子供っぽくならない?」

「なるなる。同一人物と思えないよな」


 思わずクスッとお互い笑ってしまう。


「……でもさ、志保、最初のコーヒーカップでリタイアしてたよね」

「おいおい、あれは、雫のせいだろ」

「あれ? そうだっけ?」

「志保が『初心者にはこれだ』ってコーヒーカップに雫を連れて行って一緒に乗ったら、雫がすごい勢いで回転させるんだもん。降りた時には、志保ぐったりなっちゃって」

「あー、思い出した。悪気はなかったんだけどね」


 碧が口を尖らせる。


「加害者の方が覚えてないもんだな、こういうの」

「記憶の中にしっかり志保とベンチの姿が残ってるのもそういうことかー」

「ベンチに行っては『あれは乗れる?』って聞いて、そしたら『わたしには構わなくていいから……』ってか細い声で言うっていうくだりを永遠としてたからな」

「『くだり』とか言わない!」

「誰のせいだと思ってんだよ」

「……だんだん思い出してきたかも。コーヒーカップの後、ジェットコースター乗らなかった? あれ!」


 観覧車の先にある、

 園内をぐるりと囲んでいる大きなジェットコースターを指差す。


「なんかあれさ、『まだ終わんないの!?』みたいな恐怖感なかった? ジェットコースターって大体あんなに長いの?」

「いや、ここのが特別長かったと思うよ。俺も途中『もういいです』ってなってた。今目の前にして想像してもそう思う」

「あれは普通じゃなかったんだ。志保にカメラお願いしてたのに、途中で切っちゃってたし」

「途中っていうか、だいぶ序盤だったぞ、あれ」


 急にカメラが下向いて真っ黒の画面が続くあの動画。

 見返しとけば良かったな。


 それからわたしたちは、あの日のことを思い出して順番に話していった。


 ところどころ忘れていて、どちらかが言った話を聞いて「そうだった」と答える。実際にそうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれないけど、今はそんなこと、どうでもよかった。


 碧は目の前の建造物を見上げる。


「で、最後は、観覧車乗ったよな」

「……うん」

「なんで乗ったんだっけ」

「なんでだろう。覚えてないもんだね」


 観覧車に乗ろうと言い出したのは、

 どちらでもない、気がする。


 ただ、閉園の時間がもうすぐで、

 歩いた先に大きな観覧車があって、

 そこに引力でも働いているように、

 なんとなく近づいた結果、乗ることになった。


 きっと、そうだったと思う。


 碧はゴンドラに視線を移す。


「夕陽が綺麗だった」

「うん。夕陽が綺麗だった。とても」


 気温が変わるはずもないのに、

 冷たい空気がわたしたちを包んだような気がした。


「あの時、雫、なんか疲れてた?」

「……いや、疲れてなかったよ?」

「そっか。あんまり、話してなかった記憶があって」

「そうだったかな。わたしの記憶では、碧もあんまり話してなかったよ?」

「……そうだったかな」

 夕方になった遊園地は少し肌寒くて、

 観覧車のゴンドラの中は少しだけ暖かった。


 わたしは進行方向、碧は逆方向側の席に対角線上に座った。

 夕陽の話を最初にしてからは、口にする言葉を選ぶのが大変だった。


 碧は観覧車から目を離すと、わたしに視線を向ける。


「その話の続きがしたくて、来た」

「……うん。聞きたい」


 しばらく間をおいて、碧は口を開く。


「雫って文芸部に入った時は金髪だったじゃん?」

「うん、そうだけど。え、急になんの話?」


 気になってきて髪を撫でる。


「なんで茶髪にしたの?」

「いや、特に理由はないかな」

「……そっか」

「え、なに、何かわたしの髪色に文句あるの?」

「いや、そうじゃなくて……ごめん、今の話は忘れてくれ」

「ええ……うん、いいけどさ」


 いやいや、良くはないけど、

 本当に気まずそうな顔をされると引かざるを得ない。


 碧の喉仏が一度上下に動くのが目に入る。


「あの日、観覧車に、雫と二人で乗れて、嬉しかったんだ」


 わたしが返事に言い淀んでいると、碧が続けて言葉を重ねる。


「しかも、あんな美しい景色を雫と見れただけで、本当に嬉しくて」

「……うん」

「それに……雫ってこんなに綺麗なんだなって、思ったりして……」

「……え?」

「だから、その時、強く願ったんだ」


 碧は泣きそうな表情を浮かべながら、続けて口を開く。


「ずっとこのまま時間が止まっちゃえばいいのにって。だから、こうなったんじゃないかって思うんだよ。俺が願った結果がここに繋がっている。だって、おかしいだろ。俺ら二人だけしかこの時間で動いていない。そして、俺は願ったんだあの時も今も……」


 空気が揺れただけで割れてしまう、

 シャボン玉のような一瞬の出来事だった。



 ——碧が、消えた。



「碧? ねえ? その話は違うよ。わたしのせいなの。わたしが碧を閉じ込めちゃったの。だから、出てきてよ。碧のせいだって怒らないから。わたしのせいだから。ねえ、わたしもまだ、話したいことたくさんある。ねえ、碧。嬉しかったんだよ、碧がわたしと同じことを観覧車の中で思っててくれたなんて知らなくて。しかも、一瞬だったけど綺麗だって、言ってくれて。ねえ、からかわせてよ。いつもみたいにさ。うるさいって言ってもいいし、うざいって言ってもいいから。だから、わたしからも言わせてよ……」


 そこにいた碧は、実は死ぬ前のわたしが生み出した幻想なのかもしれないと思った。でも、わたしが碧から受け取った手帳は、わたしの手元にある。そして、それは消えていない。


 だから、碧がわたしに会いにきてくれたのは事実だ。


 ——わたしは言えなかった。


 考えられるだろうか。

 こんなことになっても、

 未完成な物語がわたしを生き延びさせようとしている。


 碧が願ってくれたのは優しさでしかない。

 わたしが言ってほしい言葉を選んで言ってくれた。

 そんな碧の優しい嘘に違いない。


 そんなのは気づいているけど、それでも願ってしまっている。

 その嘘が、本当でありますようにと。


 ——馬鹿げている。


 そもそもそんな思いを向けられてはいけなかった。

 わたしは人の道を踏み外しているからだ。

 人を殺すのは本能に反する行為だ。

 それを平気でやれる異常者なんだよ、夏目雫という人間は。


 ——文芸部だって早く辞めなくてはいけなかった。


 中学の時みたいに誰にも関わらないようにすべきだった。

 やっぱり、あれは、間違いではなかった。


 それなのに、どうしても。

 碧のそばで、笑っていたかった。


 ——その結果が、このザマだ。


 碧の言葉を聞くこともできず、

 わたしの言葉を言うこともできず、碧を傷つけていく。


 わたしは碧を嫌いになりたい。


 ——もう、終わりにしよう。


 もっと早くすれば良かった。


 どうか、神様。

 碧を生かしてあげてください。


「バイバイ、碧」


 カバンの中から、ナイフを取り出す。


 喉元に突きつけられた刃が、細かく震えている。

 柄を握る両手は、汗と熱でじっとりと湿っていた。


 肩で息をする。

 心臓が痛い。

 肺が苦しい。

 頬は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。

 視界がさらにぼやける。


 刃と喉元の距離が、少し縮まる。


 ひやりとした鋼の感触が、皮膚をかすめる。

 痛みと共に、微量の血が流れる。

 心臓が、さらに強く打ち鳴らされる。


 手が震える。

 肩が揺れる。

 呼吸のリズムが分からなくなる。


 頭の中で、パパの姿がフラッシュバックする。

 頭の中で、碧と志保の姿がフラッシュバックする。


 バイバイ。

 さようなら。

 じゃあね。


 ナイフは、力なく手から零れた。

 それは、芝生の上に転がる。


「……死にたく、ない、なあ」


 パパのお姉さんがしたことの意味が、

 少しだけ分かった気がした。

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