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第二十九話「他者」

 それからわたしは、何日も何日も、人を殺め続けた。


 その過程で、さまざまな人々と出会い、さまざまな景色を見た。


 宮殿のような邸宅。

 無数の広い部屋があった。

 愚かだと思った。

 

 山奥の屋敷。

 小さな写真立てには子どもの笑顔があった。

 大切な人なんだろうなと思った。


 結婚式場の控え室。

 ウェディングドレスが綺麗だった。

 少しだけ羨ましかった。


 海に面した大きな倉庫。

 拷問を受けている人がいた。

 残酷だと思った。


 交差点。

 殺人現場に遭遇した。

 男がナイフで刺されていた。

 痛そうだった。


 ボクシング会場。

 男も女も拳を振り上げ、口を大きく開けて笑っていた。

 怖かった。


 映画館。

 血だらけの男を見て、観客は笑っていた。

 怖かった。


 中学校。

 校舎の横を落ちていく生徒を見た。

 男の子は笑っていた。

 涙が止まらなくなった。


 訓練された無感情なわたしと、

 本能が揺さぶる感情的なわたしが、

 絶えず葛藤し続けた。


 そして、リストは最後の一人になっていた。



「……ごめんな、さい……っ」

 


 視界は、ぐちゃぐちゃになっていた。


 碧に出会って、『生きたい』と思った。

 志保に出会って、『守りたい』と思った。


 そのたびに、この手が汚れていくのが怖くなった。


 わたしは、弱くなったんだ。


 他者を知ってしまった。

 もう誰も殺したくない。

 なのに、生きたいと思っている。


 言い訳を重ね、手を染め続けた。


 長い時間をかけ、関東中を巡り、ついに——

 最後の一人にたどり着いた。


 開発屋・瀬良誠一。

 殺せば終わる。すべてが終わる。


 なのに。


 震えが止まらない。

 吐き気がこみ上げる。


 頭が、頭がぐちゃぐちゃ。

 ぐちゃぐちゃだ。


 正しさも、罪悪感も、倫理も、本能も、愛も、道徳も——

 何もかもが嘘であってほしかった。


 ——何もかも、嘘だ。


 わたしは、最後の一閃を振り下ろした。



   *



 碧は正門の脇に自転車を置き、地べたに座り込んだ。


 手帳を開くと、そこには『4380回目』の記録が残されていた。

 つまり、記録を取り始めてから一年が経つということになる。

 時間が止まったその日から数えれば、一年以上が経過していた。


 碧は、時間が止まったのが特定の空間だけなのではないかという説を、最初の一ヶ月で捨てていた。もしこの世界のどこかに動ける人間が存在するのなら、すでに誰かがこの異常事態に介入していてもおかしくない。

 しかし、世界の景色は何も変わらないままだった。


「……雫は、生きている、よな」


 二時間ごとにリセットされる碧とは違い、雫は一年間をこの世界で過ごしている。体調の変化も当然あるだろう。


 手帳を見ても、雫が碧に会いに来た記録はなかった。


 二時間というわずかな時間ですら、無限のように長く感じる。

 耐えられるはずがない。


 その思いは、以前の碧も同じだったようだ。


 そこから碧は、雫を一人にしてはいけないと考え、雫が行きそうな場所を巡っては記録する日々を続けていた。それは一年間、繰り返されている。


 作戦としては悪くない。

 だが、いくつかの問題があった。


 第一に、碧が動けるのは二時間だけであり、

 その範囲に雫がいなければ意味がないこと。


 第二に、碧が一度訪れた場所に、あとから雫が来る可能性があるため、

 訪れた場所を完全に除外できないこと。


 すでに手帳には、特定の場所の横に『正』のカウントがついていた。


 手帳をめくり、隅々まで確認する。


 どうやら、これまで碧は『一時間二十分以内で行ける範囲』を基準に探索していたらしい。考える時間、手帳を書く時間、雫に会ったときの会話の時間を考慮すると、このくらいが限界だという判断だったのだろう。ただし、この『一時間二十分』という時間も、あくまで体感でしかない。


「……一時間二十分って、まだまだじゃないか?」


 もちろん、会えたら言いたいことは山ほどある。

 だが、そのためだけに時間を削るだろうか?


 違和感を覚え、さらに手帳のページを捲る。


 そこには、かろうじて読める乱雑な文字で、こう書かれていた。


『一時間半 藤見駅 死ぬよりも痛い 口から大量の血 絶対にダメ』


 ——藤見駅。


 ここからなら、急いでもそれくらいはかかる。

 だが、なぜ藤見駅に?


「……遊園地か?」


 碧の脳裏に、ある場所が浮かんだ。


 藤見駅の近くには、『くららんパーク』という遊園地がある。

 大きくはないが、遊園地と呼ばれるにふさわしいアトラクションは一通り揃っている。


 碧自身、幼い頃はよく親に連れて行ってもらっていた。

 だが、小学校高学年になる頃には物足りなくなり、

 やがて友人たちと別の大きな遊園地へ行くようになった。


 それでも、高校生になってから一度だけ訪れたことがあった。

 文芸部の三人で。


 一年の一学期、部室で遊園地の話になったときのこと。

 雫が「遊園地に一度も行ったことがない」と言ったのがきっかけだった。「早めに経験しておかないと、高校生活で苦労する」という志保の謎の危機感によって、皆んなで行くことがあっさり可決された。


 そして次の休みの日、

 三人で電車に乗り、くららんパークへ向かったのだ。


 ——雫にとって、あの場所はどんな意味を持っているのだろうか。


 記憶に残るような場所だったのか、

 居心地がいい場所だったのか、

 最後に行きたい場所なのかは、

 正直分からない。


 ——それでも。


 碧は手帳を閉じ、立ち上がると、体育館へと向かった。

 そして、いつものように自分の席に腰を下ろした。

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