第二話「暗殺者の放課後」
玄関の鍵を開けると、長い長い廊下が続いている。
そのまま真っ直ぐ進み、突き当たりの部屋の鍵を開けた。
ドアを押し開けると、一人の子ども部屋には広すぎる空間。
四方をコンクリートの壁に囲まれ、冷たい空気が漂う。
これが、わたしの部屋だ。
肩にかけていたバッグを勢いよく放ると、
それは大きな放物線を描きながらベッドの上に落ちた。
「うーん、今日も疲れたっ。ん、碧からだ」
スマホを見ると、碧からメッセージが届いていた。
『とある高校の盗まれ話、演劇部からOK出ました!』
へえ、あの話ってそんな名前だったんだ。
返信を書きかけたとき、机に置いていた別のスマホが短くバイブ音を鳴らす。
『19:30集合』
「……せっかく、少し寝ようと思ってたのに」
メッセージを開くと、『了解』とだけ送信し、スマホを閉じた。
誰に聞かせるでもなく愚痴をこぼしながら、ネクタイを緩める。
制服を脱ぎ捨て、全身を黒のパンツドレスに包む。
立てかけた姿見をちらりと見やった。
「高校になってから毎回この服装なんなの。Tシャツとかでいいんだけどな。中学生の時は、そんな感じだったのに。普通に動きにくくて仕事に支障が出るって言ってるんだけど」
そんな不満を呟きつつ、ハンドガンやナイフを含めた装備をチェックする。
時計に目をやると、針は『19:25』を指していた。
「やばっ、急がなきゃ」
慌ただしくストッキングを履き、部屋を飛び出した。
三階のパパの部屋に入り、ドアの向こうの壁時計を確認すると『19:28』。
——ギリギリセーフ。
赤い絨毯の敷かれた床を進むと、奥のデスクに座るパパが腕時計をちらりと見やる。
「雫、ギリギリだ」
「ごめんごめん」
子どもらしく両手を合わせて、謝罪のポーズをとる。
パパは、特に咎めることもなく淡々と話を始めた。
「今日のターゲットは、政治家の安藤という男だ。これを見ろ」
そう言って、壁にかけられたモニターにリモコンを向ける。
映し出されたのは、五十代のスーツ姿の男。
柔らかい表情をしているが、目だけが笑っていない。
不気味な印象を受ける。
「詳細は後で送るが、今回のターゲットはこいつだ。一人暮らしの自宅が狙いやすい。ただし、護衛が数人ついている。注意しろ」
「……クロノスタシスの指定は?」
「特にない。ただ、今回は比較的容易な案件だ。緊急用に取っておくのがいいだろう」
「了解。できるだけ使わない方向でいく」
「他には?」
「ううん、大丈夫。現地までは車だよね?」
「ああ、迎えが来ている」
「じゃ、もう行っていい?」
パパはモニターから目を外し、わたしと視線を合わせる。
「ああ、行ってこい」
送られてきたターゲット情報をスマホで確認しながら、階段を降りる。
——安藤敏夫。
政治家の家系に生まれ、今は一人暮らし。
妻も子もいない。
莫大な財産を持ち、裏金や賄賂を扱う中心人物だそうだ。
玄関で、苦手なパンプスを履いて外へ出る。
広い庭を抜け、門を越えたところに、黒の車が止まっていた。
その横に立つのは、運転手の伊藤さんだ。
わたしは、遠くから手を振る。
——伊藤さんが、いつ気づくか。
小さな遊びだ。わざと少し遠い距離から手を振り続ける。
気づいた伊藤さんは、少し戸惑いながらも手を振り返してくれた。
「お待たせー。伊藤さん、今日のスーツ、一段と素敵ね」
「お嬢様こそ、本日もドレスがお似合いで」
わたしは、思わず笑いそうになるのを堪えた。
「……相変わらず付き合ってくれて、ありがとね」
中学の頃から続けている、このノリ。
伊藤さんは、シルバーの四角フレームの眼鏡を中指でクイッと押し上げながら答えた。
「私も、毎回楽しみにしておりますので」
後部座席に乗り込み、目的地を確認。車が静かに動き出す。
ふと気になり、伊藤さんに声をかける。
「伊藤さんって、今何歳なの?」
「今年で、四十八になります」
「えっ、全然見えない。それにしても、時間が経つのって本当に早いよね」
「ええ、本当に。お嬢様も、お気をつけて」
「ははっ、わたしなんてまだまだこれからでしょ?」
伊藤さんはバックミラー越しに、爽やかな笑みを浮かべる。
左にウインカーを出し、車線を変えると、わたしは軽く目を瞑る。
「じゃあ、伊藤さん、少し静かにしてるね」
ゆっくりと深く息を吸い、吐き出す。
体の揺れに意識を集中させる。
——今日も、また、誰かを殺す。
そう、決まっている。
車が止まった。
どうやら現場に到着したようだ。
「お嬢様、着きました」
「ありがとう、伊藤さん。行ってくるね」
車を降りると、スマホで現在地を確認する。
ターゲットの安藤家までは、徒歩五分。
このまま真っ直ぐ向かって問題なさそうだ。
海沿いにそびえるタワーマンション。
現場に到着したわたしは、マンションの外観を軽く確認する。
指紋認証のエントランス。
実は、この手の認証タイプは登録情報を改ざんすればいいだけなので、鍵タイプよりも容易で、なおかつバレにくい。
顔も名前も知らない開発屋の仕事など知る由もないけど、そういうことらしい。
入口付近に立ち、スマホを操作しながら待つ。
ターゲット、まだ来ない。
焦ったくなったわたしは、地下駐車場入口付近へと移動した。
しばらく監視を続けるが、それらしい車は現れない。
——早く終わらせて帰りたいのに。
明日の朝は、瀬黒駅集合で碧と志保と脚本のリサーチの予定だ。
実際に舞台設定になりそうな場所を回るのだ。
つまり、朝は早い。
「目の下にクマとか作りたくないんだけどな……」
ぼやきながらも、思考を巡らせる。
ちょうど妙案がひらめいた、その瞬間——
一台の大型車が地下駐車場へと滑り込んできた。