第二十四話「次の碧」
目が覚めると、演劇はまだ終わっていないようだった。
寝起きのせいか、視界がぼんやりと滲んでいるが、
舞台の明かりは煌々と輝いている。
「『ラストシーンは寝てました』じゃ、こいつらに怒られちゃうな」
碧は軽く伸びをしながら隣を見た。
だが、そこに雫の姿はなかった。
「あれ、雫がいない」
視界が次第に明瞭になっていく。
そして気づく。
この空間が異様なまでに静かであることに。
舞台の演劇部も、観客も、誰ひとり動いていなかった。
息遣いすら感じられない。
そのとき、碧は口の中に妙な違和感を覚えた。
「な、なんだこれ……」
指で口元を拭うと、鮮やかな赤が指先にべったりとついた。
——血だ。
咳がこみ上げる。
喉の奥が焼け付くように熱い。
掌に吐き出された赤が、不気味に滲む。
血の匂いが、鼻腔を刺激する。
寝ている間に涎じゃなくて血を流すとか、いくところまでいったな。
自嘲気味に思考を巡らせながら、碧はゆっくりと立ち上がる。
だが、その動作すら少しふらついた。
冷静さを保っていられたのは、
自分より周りの状況の方が遥に異常だったからだ。
碧は雫が座っていた席に腰を下ろした。
「志保ー、おーい……やっぱりダメか」
呼びかけても、誰も反応しない。
「フラッシュモブにしちゃ出来過ぎてるよな」
ふと、志保の手に手帳が置かれているのが目に入る。
「……メモしながら演劇見てたのか。まったく、どこまでも真面目だな、志保は」
碧はそれを拾い上げた。
雑な丸みを帯びた文字がびっしりと並んでいる。
『碧へ。
これを見てるということは生きてるってことだよね。良かった。
時間もないし、手短に言いたいことを書いておくね。
今、知っての通り、時間が止まった世界に碧はいる。
そして、その世界にはわたしもいる。
学校中を碧と歩き回って、全部回り終わったのが今。
少し混乱してきたかな。
受け入れ難いと思うんだけど、
わたしはこの世界で自由に動けるけど、
碧はどうやら二時間ぐらいで、
どこにいても体育館の席に戻っちゃうっぽい。
それで、今、体調は大丈夫かな?
さっき見たら口元から血を流してたから。
これは推測ではあるんだけど、
元の席に戻るときに体が無理しちゃってるんだと思う。
だから、もし今も血を流してたりするようだったら、
戻ってくる距離が関係してるかもしれないから、席にいて待っててほしい。
わたしがなんとかするから。
そういうわたしは今頃、学校の外にいるはず。
もう学校中は回っちゃったし、外にしか可能性はないのかなって。
あと全然関係ないけど、お母さんのこと、碧から聞いたよ。
色々書いててぐちゃぐちゃになっちゃった。
すぐ戻ってくるから待っててね。
雫より』
——母さんのこと話したのかよ。
誰にも言っていなかったことだった。
だが、雫はここにそれを書いた。
このメモの内容が真実であることを証明するためのものなのかもしれない。
そんなことをしなくても、信じていただろうが。
だが、ここでじっと待っているわけにはいかない。
雫がどれほど辛かったかを考えるだけで、胸が痛くなった。
何回記憶のない俺と学校を回ったんだろうか。
『待っててほしい』
そう手帳に書かれていた。
何度も、何度も、繰り返した末の言葉なのだろう。
——俺は何も知らず、呑気な話でもしていたに違いない。
碧はゆっくりと息を整えた。
冷静さを欠くことが最も避けるべきことだった。
状況を整理する。
最も深刻なのは、碧が記憶を失ってしまうこと。
雫がしばらく戻らないとなれば、それはなおさら問題だった。
碧には、今のところほとんど何もできる力がない。
だからこそ、次のターンで何が変わり、
何が変わらないのかを見極める必要があった。
碧は立ち上がろうとした、そのとき。
ゴニョっとした違和感が尻に触れた。
「……なんだこれ」
手に取ると、それは赤黒いシミのついたハンカチだった。
「……俺の、じゃないな。雫のやつか?」
この状況では、そうとしか考えられない。
前のターンで血を拭ったのだろうか。
「雫が、俺の口元を……」
——こんな時にお前って奴は。イカれてるのか。
状況整理に戻ろう。
ここで重要なのは、このハンカチが今もなお残っているということだ。
少なくともズボンの右ポケットに入れた物は、
二時間が経過しリセットされても消えてなくなることはない。
もうひとつ、手帳も同様だった。
雫の手から離れ、置かれたままのそれも、リセット後に消えていない。
つまり、リセットされるのは、碧自身だけ。
碧は手帳に、今考えられる選択肢を書き込む。
(1)雫と同様に時間内にできるだけ遠くへ行き、謎に迫る。
ただし、遠くで手帳を落とした場合、戻ったときに消える可能性がある。『戻ってくる距離が身体に負担をかけている』説が本当なら、肉体的リスクを伴う恐れがある。
(2)学校で待機し、二時間以内の範囲で探索する。
碧は手帳を閉じると、
ハンカチと手帳をズボンの右ポケットに収めた。
「選択の余地はないな」
——心配してくれたのに、悪いな、雫。
止まったままのステージを一瞥し、体育館のドアを開けた。




