第十九話「終幕へ」
舞台裏を抜け出した先に広がっていたのは、静寂だった。
演劇を見つめる観客たちの表情は、一見すると無表情のように見えた。
しかし、その視線は舞台から片時も離れない。
瞬きの回数が極端に減っていることが、その深い集中を何よりも物語っていた。
わたしたちは音を立てないよう注意しながら、
右端に碧、真ん中にわたし、左端に志保の順で座席へ戻る。
物語は、終盤に差し掛かっていた。
アイリの記憶が封じ込められた球体を、タイキが保管庫から奪い、追手から逃げる。
タイキの荒い息遣いが、体育館の空気を静寂へと誘い込んでいく。
次は、わたしが書いたシーン。
——怖い。
どんなふうに思われるんだろうか。
どんなふうに笑われるのだろうか。
どんなふうに落胆されるのだろうか。
わたしの拙い想像力が、感情の糸を断ち切ってしまったら。
そう思うと、今からでも逃げてしまいたくなる。
——違う。
嫌われたくない。
お願いだから、嫌いにならないでほしい。
——碧も志保も、嫌いにならないで。
その瞬間、右手が強く包まれる。
温もりが、わたしを現実へと引き戻す。
わたしはそっと、その手を握り返した。
「アイリさん、これ……」
タイキが震える手で、抱えていた球体を差し出す。
「え、わたし、の……?」
アイリは戸惑いながらも、それを受け取る。
次の瞬間——没収されていた思い出が、アイリに流れ込んでいく。
亡くなった犬との記憶。
ずっと忘れていた、大切な存在のこと。
アイリは無言のまま、ぽろぽろと涙を落とした。
「……アイリ、さん?」
タイキが心配そうに声をかける。
アイリは、ほんの少し背伸びをし、タイキに飛びつくように抱きしめた。
「……怖かった。ずっと、悲しくて、でも、なんで悲しんでいるのかもわからなくて、怖かった」
タイキは何も言わず、ただその場に立ち続けた。
——暗転。
すると、トントンと右手を優しく二回叩かれた。
横を向くと、碧が太陽のような笑顔を向けている。
そして、そっとわたしの耳元で囁いた。
「良かったな」
碧がそっと指を差す。
観客のあちこちから、啜り泣く声が聞こえる。
手を強く握りしめる人、胸に手を当てる人、涙を拭う人。
それぞれの想いを抱えていた。
もしかすると、わたしは都合よく、
そういう人たちばかりを見ていたのかもしれない。
それでも、碧が示した先には、確かにその人たちがいた。
わたしは震える声で、碧の耳元に返した。
「ありがと」
暗転が終わり、再び舞台に光が戻る。
ここからは、後日談。
そして、終幕へ。
でも、わたしの右手は、まだ握られたままだった。
物語の終わりが近づくにつれ、わたしの心はざわめいていた。
この手は、きっと物語が終わる頃には離されて。
教頭のロープを解きに行って、なんらかの処罰を受けて。
学校に戻ってきて、放課後に集まって。
この成功に勢いづいて、また小説を書いて。
来年には新入生が入ってきて、廃部は免れたねって笑い合う。
きっと、そんな幸せな日常が待っている。
——ああ、嫌だな。
この手の温もりが、なくなるのが、嫌だ。
この優しさが、いなくなってしまうのが、嫌だ。
この幸せが、なかったことになってしまうのが、嫌だ。
わたしは願ってしまう。
——この時間が、ずっと続けばいいのに。
舞台上の声が、途切れた。
日向さん、喉に何か詰まらせちゃったのかな?
そう思って目を凝らすと、その動きすら止まっているように見える。
音の違和感。
体育館のざわめきが、消えている。
この感覚には、身に覚えしかなかった。
時間が止まっている。
でも、わたしは能力を使っていない。
——じゃあ、誰が?
ふと、数日前の出来事が脳裏をよぎる。
碧と志保が一緒にいたショッピングモールで、
無意識のうちに時間が止まったこと。
あの時も、わたしは能力を使っていなかった。
もし、あの時と同じなら、しばらくすれば、時は動き出すはず。
右手に、ほのかに温もりが残っている。
「雫……? 一体、これは」
碧が、キョロキョロと辺りを見渡している。
動いている……?
「……わたしにも、分からない」
どうなっているの?
碧が能力者?
でも、ショッピングモールでは止まったままだったじゃない。
志保は、止まっている。
何が、起きてるの。




