第十五話「職員室潜入作戦」
碧を先頭に、次に志保、最後にわたしの縦一列で職員室の入り口に立つ。
深呼吸。
緊張を抑える。
そして、碧がドアを開け、堂々と声を張る。
「二年の白石碧です。朝日先生、いらっしゃいますか?」
職員室の奥、癖っ毛とメガネが特徴的な長身の先生が手を挙げる。
「はーい」
朝日先生——この学校でも人気のある三十代の教師の一人だ。
女子の中で熱狂的に推している人を何人か知っている。
「失礼します」
碧を皮切りに、志保とわたしは小声の「失礼します」を言って職員室に足を踏み入れる。
コーヒーの香ばしい香りが暖かく身を包む。
碧は、朝日先生の席に辿り着くと、カバンの中から脚本を取り出した。
それが、作戦の合図だった。
わたしたちは、さりげなく距離を取りながら、
教頭の机が見える位置にじわじわと近づく。
碧が朝日先生の気を引き、真ん中の志保が他の先生の動向の監視とこの陣形の広がり方のコントロール、そして一番端のわたしが教頭の机を覗き見る。
これが現在実施しているプランAだ。
碧が、声のトーンを落としながらも、抑えた熱量で話し出す。
「先生、どうしてこの脚本でやらせてもらえないんですか?」
朝日先生は、頬杖をつき、苦笑する。
「いやー、真壁から話は聞いたんだろう?」
「はい、聞きました。でも、納得いきません」
「まあ……色々と大人の事情があるんだよ」
「あの時、青春感が最高だって、いい舞台になるって言ってくれたじゃないですか」
碧の言葉は、じわじわと朝日先生の心を揺さぶる。
「先生は、俺たちの青春はどうなってもいいって言うんですか?」
「いや、そんなことは言ってないじゃないか。でも、今回の舞台で披露しなくても、脚本を作る過程そのものが青春だったって思える日が来るって」
「それじゃダメなんですよ、先生」
碧が、朝日先生の弱みである青春の眩しさで時間稼ぎをしている。
碧はやっぱり演技派だ。
一方、わたしはそっと踵を上げ、教頭の机の上を覗き込んだ。
しかし、縦置きにされた資料類の壁のせいで、
机の上やその他の書類を見ることは不可能に近い状況だ。
——クロノスタシスを使おうか?
いや、そんなことしたら、二人の混乱も招きかねない。
わたしは、両手を合わせて大きな伸びを二回した。
そう、これが、プランAの失敗、そしてプランB実行の合図だ。
志保は、目を大きく見開く。
その目は、「だから無理だって言ったじゃん!」と訴えている。
「先生、一旦、話を整理しませんか。そのホワイトボード使ってもいいですか?」
「ん? えーと、うん、今人もいないしいいよ」
「ここからじゃちょっと見えにくいので、近づいてもらえますか?」
志保は、白熱していた二人をホワイトボードの前に誘導することに成功した。
——志保って、ガッツポーズとかするんだ。
職員室の壁には、横長の大きなホワイトボードがいくつか設置されている。
その中でも、教頭の机のすぐ近くにあるボードは、位置的にも角度的にも最適だった。
では、なぜこんなにも好都合なプランBを最初から実行しなかったのか?
それは、ホワイトボードが教頭の机にあまりにも近すぎるからだ。
不用意に接近すれば、不審がられる可能性が高い。
そこで、最初はプランAを実行し、朝日先生と碧の議論で『熱を上げた状態』を作る。
興奮すれば、人の注意力は鈍る。
そこを狙うのがプランBだった。
この全ての流れを考えたのは、碧。
さすが、脚本の天才。
そして、プランBは現在進行中だ。
志保がホワイトボードの左側に箇条書きを書き始める。
わたしは、右側に『まとめ』というタイトルだけを書き、あえて手を止める。
左側の記載量が増えるほど、みんなの目線はそちらに集中するからだ。
その間にも、碧と朝日先生の攻防は続く。
——今しかない。
誰もが待ちの状態になった瞬間、わたしは体の向きを碧と朝日先生に向けたまま、そっと視線を教頭の机へと落とす。
——見えた。
机の端に、一枚の紙が置かれていた。
それは、碧が持っていたものと同じ文化祭のタイムスケジュール表だった。
弱みになるような物じゃないなと他に視線を移そうとした時、
わたしは、ある手書きの書き込みに気づいた。
『娘来る』
記憶の片隅が、微かに蘇る。
——そういえば、運動会の時に、教頭と一緒にいた少女を見た。
年齢は……たぶん、中学生くらい。
あの子が、教頭の娘だったんじゃないか?
そして、文化祭にも来る。
しかも、全体のスケジュールをざっと見ても、
『娘来る』と書かれていたのは演劇の欄だけ。
これは……偶然だろうか?
——いや、違う。
教頭は、学園モノだから演劇を嫌がっているのではない。
娘が見るから、この演劇を中止させようとしているんじゃないか。
学園モノの舞台に、そんなに強く怒る理由は何か。
それは、娘に『先生が悪者になる』演劇を見せたくないからではないか?
つまり、教頭の本音は……
『自分が悪者として描かれる姿を、娘に見せたくない』ということなのかもしれない。
わたしは、机の上や資料類をもう一度じっくりと見渡した。
さらに数歩踏み込んでみたが、都合よくそれ以上の手がかりは得られなかった。
そして、プランBは終了した。
「文芸部のみんな、申し訳ない」
朝日先生は、わたしたち三人に一人ずつ丁寧に頭を下げた。
「いえ、お話ができて良かったです」
顔は全く『良かった顔』をしていない碧が、朝日先生に頭を下げる。
職員室を出ると、誰もが無言になった。
しばらく廊下を歩いた後、碧が口を開いた。
「……んで、雫、なんかあったか?」
「うーん、これといって弱みみたいなのは……」
わたしは、一瞬だけ言葉を飲み込む。
「でも、ひとつだけ、教頭が怒ってる理由が、なんとなく分かったかも」
「怒ってる理由? そんなの、学園モノだからだろ?」
「教頭の机に文化祭のスケジュール表があってね……演劇の欄に『娘来る』って書かれてた」
その言葉を聞いた途端、志保がハッと顔を上げる。
「あっ、思い出した! 運動会にも来てたよ、その娘さん。ちっちゃくて可愛くて、友達と一緒にお話ししたよ。その時の教頭先生の顔、溶けるんじゃないかってくらい、ふにゃんふにゃんだったんだよね」
「ふにゃん、ふにゃん?」
志保は、自分の頬を両手でこねくり回しながら頷く。
「うん、まさに溺愛って感じで」
碧は、考え込むように腕を組んだ。
「……もしそれが関係しているとしても、学園モノを見せたくないってのは変わらないじゃん」
「でもさ、逆に言えば、娘が楽しみにしてるからこそ、教頭は悩んでるんじゃない?」
脚本の企画書を見た時。
わたしが、ヒロインよりも先に共感したのは先生だった。
わたしは人を殺している。
狭い世界で見れば、親孝行な子供で。
広い世界で見れば、殺人犯だ。
ちっぽけな世界から外を覗いたとき、
わたしは初めて、自分の世界の歪さに気づいてしまう。
だからなんとなく、教頭が娘にこの演劇を見せたくない理由が分かる気がする。
——きっと、怖いんじゃないのか。
自分が信じてきた世界が、崩れ落ちることが。
その瞬間、自分の居場所がなくなることが。
これは、わたしの妄想で、拡大解釈で、思い過ごしなのかもしれない。
でも、わたしはこの世界を壊したくないと思う。
——それが嘘でもよかった。
わたしは、ゆっくりと深呼吸をする。
「悪者になりたくないっていうより……意味があるって思いたいんじゃないかな」
「意味?」
「悪者は悪者なりに、何か意味がある、みたいな?」
わたしは、『悪者』という言葉を、少しだけ強調した。
それが、碧の書いた脚本を否定しているように聞こえるのが、嫌だったから。
「……そういう見方もあるのか。裏ストーリーみたいな感じか」
志保が、腕時計に目をやる。いつも冷静な志保の顔にも焦りが見え始める。
「……そ、それに賭けてみる? もう、計画を練り直すには時間が足りないと思う」
「賭けるって言っても、これじゃ弱みにはならないし、娘が演劇を観に来ることも脅しの材料にはならない。仮に新しい脚本ができたとしても、『今度見せに来たら中止させる』って言われてるしなー」
「じ、事前に見せないというのは?」
「見せない?」
志保の目が段々と狂気的になっていく。
「やっちゃう」
「やっちゃう?」
「勝手にやっちゃう。教頭先生が怒ってる理由ははっきりしないけど、雫が言ったこと、わたし的には納得できる。だったら、一か八か、先生の裏ストーリーを加えた脚本をそのまま演じてもらうのはどう? もしかしたら、スルーしてくれるかもじゃん?」
碧が志保のとんでもない案に首を振る。
「いやいやいやいや、そんなの始めた途端に止められるに決まってるだろ。何か理由をつけて即座に中断させられるって」
「うん、でも、大声を上げて騒ぎ立てるタイプじゃなさそう。だから、幕を下ろさせるためにリーダー格の誰かに止めさせようと舞台裏に回ってくるんじゃないかと予想してる」
志保は、ひとり納得したように頷いた。
「その時に、捕まえちゃう」
「……捕まえる?」
「うん。三人で捕まえちゃう」
わたしは慌てて二人の間に割って入り、冷静さを取り戻させようとする。
「ちょ、ちょっと待って志保、壊れちゃったの?」
「わたし、本気だよ、雫」
「いやいや、そんなことしたら軽く停学レベルで済まないって!」
「大丈夫、大丈夫」
本格的に壊れてしまったみたい。
志保は微笑みながら俯き、右の手のひらを下に向けて突き出す。
その上に、碧が迷うことなく同じように手を重ねる。
「やろうぜ、志保」
「やってやろうよ、碧くん」
二人の目が真剣すぎて、冗談じゃ済まされない空気になっている。
「……やらないの、雫?」
志保がじーっとわたしを見る。
碧も同じ視線を向けてきた。
どう考えても無謀な作戦。
でも、わたしたちが動かなければ、この物語は消えてしまう。
わたしは小さく息を吐き、観念したように手を伸ばした。
「……やってやる」
わたしは、そっと右手を碧の手の甲に重ねた。




