第十三話「文化祭前日に」
文化祭前日の昼。
わたしは、体育館の壁に背中をつけて立っていた。
文化祭前日は午前中で授業が終わり、午後は準備時間。
正直、つまらない授業がなくなるのは嬉しい。
だが、文芸部の準備でやることといえば、作成した脚本を机の上に並べ、『触らないでください』のポップを置く、これだけだ。なので、集まって二十分ほどで全ての作業が終了したわたしたちは暇を持て余していた。
碧が大きく伸びをする。
「うー、終わったー」
碧の伸ばした腕を、志保が無言で掴み、元の位置に戻す。
「碧くん、ほとんど何もしてないよね。
ポップを書いたのはわたし、貼ったのは雫」
「全く、その通り」
わたしも腕を組んで同調する。
「こうして俺が見守ることにより、君たちの作業が順調に進んだ。違うか?」
「うん、違う」
わたしが無意識で時間を止めてしまったショッピングモールでのあの日から、特に何も変わらない日常が続いている。
志保を見る碧の視線も、碧を見る志保の視線も、何も変わってはいない。
変わったのは、わたしが見る二人への視線だけだ。
それと、クロノスタシスについても何も変わらない。
あの日から、無意識で時間を止めることは一度もなかった。
パパには話していない。
話せば叱られるのは目に見えている。
——誰かがクロノスタシスを使った可能性。
考えた結果、わたしはこう結論づけた。
・クロノスタシスの能力を持つのはわたしだけではない。
・他の能力者が存在し、その人間は時間が止まった空間でも動ける。
この期間、再び発動しなかったことから推測するに、
その能力者は、まだ使い始めたばかりか、
それほど必要としていない立場にいるのかもしれない。
もし後者なら羨ましい。
でも、わたしにとってこれは不利益にはならない。
だから、もう考えないことにした。
志保が、わたしの肩を軽く叩く。
「雫、このあと暇?」
「え、うん、暇だけど」
「だったら、スタバ行かない? 新作フラペチーノ出たんだよ」
「な! 何味!?」
わたしの声が一段上がる。
志保は長袖の袖で口元を隠し、クスッと微笑んだ。
「パンプキン……チョコレート、だったかな。とにかく、ハロウィン仕様の可愛いやつ」
「パンプキンチョコレート……絶対に甘いじゃん! 行こ!」
甘さは正義。
美味しさの大部分は甘さで決まる。
志保が目を丸くしている理由が分からなかった。
「基準そこなんだ」
「美味しさ=甘さでしょ?」
糖分って大事だよ?
その時——
「文芸部のみんな!」
体育館の入り口から、大きな影がこちらに向かって走ってきた。
演劇部部長、真壁さんだ。
——嫌な予感がする。
隣の碧も、不安げに眉をひそめていた。
「真壁さん、お久しぶりです」
「久しぶり。それはそうと、すぐに聞いてほしい話があって」
真壁さんは、一呼吸置くと、信じられない言葉を口にした。
「あの脚本が、却下された」
「……どういうことですか」
碧の声が低くなる。
真壁さんは苦々しい表情で、言葉を続ける。
「教頭が、顧問の朝日先生の机の上に置いてあった脚本を勝手に読んだらしい」
「……はい」
碧の言葉は苛立ちを帯びていた。
「それで、『学校を舞台にして、それを文化祭でやるなんて、はしたない』っていうコメントを頂いたそうだ。要するに、やめさせろってことだ」
胸が、締め付けられる。
「そもそも、教頭は何の権限があってそんなこと言ってるんですか?」
「まあ、トップ2だからな。先生たちも逆らえないんだろう、朝日先生も」
教頭の理不尽な一言で、わたしたちが必死に作り上げたものが消される。
———そんなの。
「……クソ。今から教頭を説得しに行きましょう」
真壁さんが、碧の腕を掴む。
「白石くん、お願いだ。この話、降りてくれないか」
真壁さんは、申し訳なさそうに眉をひそめながら、それでもはっきりと告げた。
「文芸部に書いてもらった脚本での演劇はやめようってことだ」
「……は?」
「教頭にももう話してみた。だけど、『これは決定したこと。これ以上文句を言うなら文化祭のスケジュールから演劇を消す』って、そう言われた」
体育館の空気が、重く沈む。
碧は奥歯を強く噛んだ。
演劇のスケジュール自体を削るとまで言われたら、演劇部はどうしようもない。
抗えば、演劇部の活動の場すら奪われることになる。
真壁さんは、力なく肩を落としながら続けた。
「だから、俺たちは、今までやってきた脚本で演劇をすることに決めた」
その言葉に、志保もわたしも、言葉を失った。
三人で必死に作った脚本も、碧が涙を流して守ろうとしたシーンも、
もう舞台に立つことはない。
「だから、その脚本は、お蔵入りにしてほしい」
碧が、肩を震わせている。
「俺たちが、どれだけ……時間をかけて……」
真壁さんは、優しく寂しげに目を細める。
「ああ。だから、すまないと思っている。でも、俺たちだって必死でやってきたんだ。な、分かってくれ。それに、脚本は面白かったから小説にでもできるんじゃないのか。それを発表すれば、新しい人も興味持ってくれるだろ」
「それじゃダメだったんだ」
大人になったつもりのわたしたちは、驚くほどに子供のままだ。
この世界に与えることのできる影響はほんの少しで、しかも脆い。
大人たちは『たったそれだけのことで』と笑うだろう。
『振り返れば笑い話になる』と理不尽に慰めの言葉をかけてくるだろう。
何も持っていないわたしたちは、こうやって一つ一つを諦めて、大人になる。
そして、全部捨てれば、『大人』になれるのだろうか。
「でも、諦めません」
「だからそれは——」
碧は、目を上げ、強く宣言した。
「教頭には、見せない」
「どういうことだ?」
「演劇を教頭に見せなければ、何も問題ないですよね」
「ま、まあ、理屈としてはそうだが……」
「演劇の最中、教頭をどこかへ連れて行きます」
いや、いやいやいや。
何言ってんの?
突如として差し込まれる、
ファンタジーな急展開に驚きを隠せないでいる。
「……どうすんだよそれ。そんなことできるのか? もし、できなかったら、俺らはどうするんだ?」
「無茶をすみませんが、その時は、俺たちの脚本じゃないやつをやってください。慣れてるからできるんでしたよね?」
「いやしかし……」
二人は真っ直ぐに目を合わせて対峙している。
真壁さんは、一度目を閉じ、長い沈黙の後、口を開いた。
「……分かった。共犯になってやるよ」
碧が顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ……俺も、お前らの脚本でやりたいって気持ちはあるからな」
そう言いながら、真壁さんは腕を組んで小さく頷いた。
「朝日先生の説得は……うん、大丈夫だ。教頭がいなければゴーサインを出してたんだ。開幕して止めるような人じゃない。こっちは心配ないよ」
「ありがとうございます……」
碧の肩の力がふっと抜ける。
その表情には安堵が浮かんでいた。
真壁さんは、腕をほどきながら碧を見据えた。
「それで、どうやって教頭を追い出すつもりだ? 教頭は、たぶんメイン会場のこの体育館に基本的にいると思うが、演劇の時間だけうまいことどこかへ誘導しなきゃいけないだろ? その算段はあるのか?」
碧は、じっと真壁さんを見つめた。
「算段は、ないっすね」
「は?」
「これから、考えるんで大丈夫です!」
「……なんか、不安しか残らないが任せてもいいのか?」
「はい! 演劇の最終調整やっててください!」
「……分かった、信じるよ。うまくいくことを願ってる」
碧は勢いよく敬礼をする。
「ったく、変なことしでかすなよ」
真壁さんも苦笑いしながら応じる。
一件落着の雰囲気が漂い始めたのを見て、わたしは心の中で冷静に思った。
——騙されてはいけない。
実は、何一つ解決していない。
教頭を本当に追い出せる保証はどこにもない。
それに、もし碧の計画が失敗したら、
演劇ごと文化祭のスケジュールから消される可能性だってある。
「碧、ちょっと来なさい」
「うわっ、ちょっ……!?」
わたしは、碧の制服の襟を掴んで後ろに引っ張る。
体育館の床をずるずると滑る碧。
「いたたた……そんな乱暴にしなくても……」
「乱暴にされるようなこと言ったのは誰だよ」
志保は腕を組んだまま、無言でわたしの隣を歩く。
無表情だけど、ほんの少しだけ眉が寄っているのをわたしは見逃さなかった。
こうして、文芸部三人による、前代未聞の『教頭追放計画』が始まった。




