第十話「物語の行方」
文芸部で続いていた脚本リレーは最終日を迎え、
碧のシーンは滞りなく終わった。
そして、それから一週間後。
文芸部の三人は、演劇部の部室にいた。
目の前には、前回と同じように一列に並ぶ演劇部員たち。
長机の端に座る、演劇部部長の真壁さんが口を開く。
「文芸部のみんな、脚本を本当にありがとう。全部、読ませてもらった」
「いえ……予定が少し遅れてしまって、すみません」
碧が、繰り返し頭を下げる。
「いや、構わないよ。これだけのものを書いてくれたんだ、そのくらいどうってことない」
そう言ってから、真壁さんは一度咳払いをする。
咳払いですら響くのか、この人の声は。
「それでは、申し訳ないとは思うが、脚本について意見を言わせてもらう——」
わたしたち三人は、まっすぐに真壁さんを見つめ、息を呑む。
「……感動した」
「え、本当ですか?」
碧が、思わず前のめりになる。
「ああ、びっくりした。正直、ネットに落ちてる脚本の何倍もいい」
わたしと志保は目を合わせ、体を縦に揺らす。
——『やったね』の意思疎通だ。たぶん。
「ありがとうございます!」
「なので、この脚本で本番も行こうと思う。お前らも、しっかり読み込んでおけよ」
演劇部副部長の日向さんが、気の抜けた声で手を挙げる。
「はーい」
残りの部員たちも、コクコクと頷いた。
「だが——少しだけ、変更したい部分があってな」
真壁さんのその一言で、演劇部員は表情を固くした。
わたしたちも、体の揺れをピタリと止めた。
真壁さんは、机の上の脚本の束から、最後の一枚を抜き取り、紙の下の方を指さす。
「ここの、アイリがタイキを抱きしめるシーン。ここを変更できないかなと」
胸の奥が、ざわめく。
「最近は厳しいからな、このご時世。青春のひとつで片付けられるかって話もあるし。うちの顧問も、その手の問題にはうるさいんだよ」
そう言って、真壁さんは隣の美玖を見やる。
「アイリ役は花村、タイキ役は日向になるだろうから、花村も嫌じゃないか? 日向相手にこんなこと」
美玖は、口の前で両手をあわあわと振る。
「わっ、わたしは大丈夫ですよ!」
「ちょっと、俺の方は?」
「日向はそういうのラッキーとか思うタチだろうが」
「うわ、バレてる」
真壁さんが、軽蔑の視線で日向さんを睨みつける。
「気色悪いぞ」
あ、代弁してくれた。
「というわけで、この部分を、もう少しマイルドにしてもらいたいんだが……」
「マイルド、ですか……」
碧は、下唇を噛みしめる。
「そのままじゃ、どうしても無理ですか?」
「うーん、絶対にダメってわけじゃないんだ。ただ、先生方からの目線を考慮すると、あまり面倒ごとは避けたい。俺たち演劇部も弱小の部活だからな」
真壁さんは再度碧からの提案を断った。
無理もない。
演じるのは、高校生だ。
物語の中で描くことと、実際に演じることには、天と地ほどの違いがある。
わたしは妄想で書いただけ。
でも、演じる側にとっては、その想像の何倍もの不安や恐怖がのしかかる。
「でも、これは、このシーンは、俺たちが作った脚本の、一番見せたいシーンで」
碧の震えた声が耳に届く。
「何なら、このシーンを見せたいがために、ここまでがあると言っても過言じゃないくらいで。他のシーンなら削ってもいいんですよ。例えば——」
碧は、他の恋愛描写のあるページをめくる。
「このシーンなんかもちょっと恋愛模様というかちょっとツッコまれそうな描写じゃないですか。ここなら変更できますし、今すぐ別の展開を考えてお渡しします。でも、ここは。このシーンだけは、そのままで行かせてください。お願いします」
そして、机に頭をつけた。
わたしと志保も、静かに頭を下げる。
わたしは、自分の心を探る。
何か言える言葉はないだろうか。
このシーンを作ったわたしだから、言える言葉があるはずなのに。
言葉が喉につかえて、出てこない。
「……この、この脚本は、雫が初めて書いた脚本で、本当に感動的な出来で」
碧の声が、小さく震えながらも、はっきりと響いた。
「これを無かったことにするのは、絶対に嫌で……どうしても雫に、見せてやりたいんです。だから、お願いします。納得させられる理由なんてこれっぽちもありません。でも、どうかこのままで、お願いします」
碧の目から、机に涙が落ちる。
何度も何度も何度も。
こんな碧を、もう見せたくない。
わたしは、反射的に碧の両肩に手を置いた。
「……もう、いいって。わたしなら、大丈夫」
碧の目を覗き込むように、優しく微笑む。
「もっといいシーン、書いちゃうんだから。ね?」
碧は一度、黙って頷き、涙を拭った。
どうして、碧はここまでこのシーンにこだわるのか。
文芸部の打ち合わせでは、いつもあっさり代案を出していた碧が、
演劇部からの指摘に、こんなに食い下がるなんて。
分からない。
——嘘だ。
分かってる。
碧は、わたしを庇っている。
わたしのために、ここまでしてくれている。
まるで、このシーンそのものが、わたしの存在を守るものであるかのように。
——分かってるんでしょ。
この温もりは、触れてはいけないもの。
この優しさは、与えられてはいけないもの。
そして、この感情は、わたしが抱いてはいけない感情。
なのに。
——ああ。
わたしは、碧に、恋をしていた。
この瞬間、この時間の中で、その事実だけが、わたしの全身を貫いていた。
そんな永遠にも感じる沈黙の中で、真壁さんが、ぽつりと呟く。
「……分かった。このまま、やるよ」
碧は、驚いたように顔を上げる。
「……本当ですか?」
「ああ。でも、条件がある」
真壁さんは、一呼吸おいて続けた。
「接触はなし。観客席から見て、抱き合っているように見えるアングルでやる。それで妥協できるか?」
「大丈夫です!」
「よし。それと、もう一つ。これから、この脚本を持って、うちの顧問の朝日先生のところへチェックしに行く。白石くんも同行し、もしもダメだと言われた時は、頑張って説明をしてほしい。では、白石くん、早速職員室に行こうか」
「は、はい!」
こうして、碧は真壁さんに連行されて、部室を出て行った。
その瞬間、目の前に座る美玖が、ニヤニヤしながら身を乗り出してきた。
机に手をつき、口元に手を添えながら、小声で尋ねてくる。
「ねえ、付き合ってんの?」
「……むえ?」
思いもよらない言葉に、発したことのない声が出た。
「いや、だーかーらー、白石くんと、付き合ってんのって」
わたしは、美玖と同じように顔を近づけ、ヒソヒソ声で返す。
「いやいや、そんなわけないじゃん」
「うっそでしょ!? え、白石くんって誰にでも優しいタイプなの?」
「知らないよ、そんなの」
恋バナを会話の主戦場とする美玖の前で、これ以上掘り下げさせるわけにはいかない。
美玖はわたしの目をじっと覗き込む。
「……ツンデレだもんね、雫って」
「うるっさいな! 何でもそうやって無理やり繋げない! この、恋愛脳!」
「何だとー!」
美玖の手が振り上げられるのを見て、わたしは素早く両手をクロスさせて頭を守る。
結局、軽くこづかれたけど、矛先を変えることには成功した。
ホッと息をつき、ふと壁の時計に目をやる。
既に17:00を指していた。
「すみません。この後用事があるので、お先に失礼します。志保、ごめんね」
「ううん。また明日ね」
志保が両手を小さく振ってきたので、片手で振り返す。
部室を出ようとしたとき——
「雫ー! 今度こそ問い詰めてやるから!」
背中に向かって飛んでくる美玖の声。
わたしは、適当に流しながら、演劇部の部室を出た。
誰もいない、薄暗い廊下。
この時間帯の学校の廊下は、お気に入りだったりする。
それに、少し肌寒くなってきて、雰囲気と温度がぴたりと合い、
ますます心地よく感じられた。
窓の外の夕焼けが伸ばす長い影を、ぼんやりと眺めながら歩く。
碧たちの話し合い、思ったより長引いてるな。
先生も、きちんと精査してるんだろうか。
やっぱり、わたしの書いたシーン、何か問題があったのかな……?
そんなことを考えていたとき——
下駄箱へと続く廊下の先に、二人分の影が揺れた。
碧と、真壁さんだ。
二人がわたしに気づく。
わたしは、軽く頭を下げた。
見えているのに声が届かない、この微妙な時間がもどかしい。
「お疲れ様です。どうでしたか?」
真壁さんは、苦虫を噛んだような顔をしながらも、無理に笑う。
「お疲れ。OK出たよ」
「真壁さんのおかげでな」
うわー、良かった……。
心の中で大きく安堵しながら、わたしは胸を撫で下ろす。
一方、碧は、なぜか我が物顔で胸を張っていた。
「真壁さん、すごかったんだから。最後の文化祭っていう青春を巧みに使った話術。演劇部部長は格が違った」
「舐めた口を聞けるようになったんだな、白石くん」
「すみません……」
碧が笑いながらしゅんとする。
……あれ?
いつの間にか、この二人、仲良くなってない?
「まあ、とにかく、脚本はそのままいけることが決まったから、安心してて、夏目ちゃん」
「あ、はい。ありがとうございます」
碧がふと、わたしのバッグに視線を落とす。
「雫、今日用事あんだろ? 急がなくていいのか?」
「あ、そうだった! もう行くね。真壁さん、お先に失礼します」
「ああ、気をつけて」
真壁さんに一礼し、碧に小さく手を振る。
そのまま下駄箱へ向かって歩き出した。
三人で作った物語が、舞台になる。
どんな形になるのか、まるで想像がつかない。
でも、一生忘れられない思い出になるんじゃないかと期待している。
だって、碧が流してくれた涙が、繋ぎ止めた物語だから。




