プロローグ
三十秒だけ、時間が止まる。
生徒たちの囁き声も、黒板に反響する先生の声も、グラウンドの声援も。
何もかもが無音に変わる。
その中で、わたしの鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
隣の席を見る。
わたしの鼓動は、速くなる。
横顔を見る。
わたしの鼓動は、もっと、速くなる。
手を伸ばす。
わたしの鼓動は、もっと、もっと、速くなる。
窓の外を見る。
わたしの鼓動は、まだ、速いままだった。
初めて教室で、クロノスタシスを使った。
ここで使うことは、もうないと思う。
*
慎重かつ迅速に、銃口を相手の胸へと向ける。
無駄のない動作で、引き金を次々と引いた。
三十秒——その時間が尽きる頃、全ての弾丸は放たれた。
マシンガンの連射音にも似た無数のくぐもった銃声が、
高層マンションの一室に響く。
飛び散る血飛沫が、暗闇に包まれた部屋を赤に染める。
わたしは、黒のパンツドレスに付着した血をひと拭いする。
倒れた標的へと歩み寄り、死体の首筋に指を添える。
「……脈なし、と。
念のためにリスト確認しとこうかな。
見た感じ、大丈夫そうだけど」
スマホを取り出し、パパから送られていたターゲットリストを開く。
こういう風に視線を落としたとき、髪を短くしておいて正解だったと思う。
基本的にパパには逆らわないけど、髪型だけは例外だった。
視界を確保するために、茶髪ショートカットにしている。
「……このリスト、なんでこんなに読みにくいの?」
必要なのは顔写真とチェック項目だけなのに、趣味や家族構成も書かれている。
そんな余計な情報に眉をひそめながら、電話をかける。
「パパ、終わったよー」
『雫、チェックリストの確認はしたか』
「したした」
『分かった。掃除屋を手配する。もう帰ってきていい』
電話を切り、転がる死体の隙間を縫うように玄関へと向かった。
*
翌日の放課後、彩翔高校文芸部の部室のドアを開く。
窓から差し込む晩夏の夕日が、小さな埃の粒を浮かび上がらせていた。
中央の長机を挟み、
文芸部部長二年の白石碧、副部長二年の小松志保が、椅子に腰掛けている。
碧は、パーマのかかった髪をくるくると指で弄っている。
そして、訴えるような目でわたしを見てきた。
「なあ、聞いてくれよ、雫ー」
「来て早々、何?」
碧は、勢いよく目の前の志保を指差す。
「志保が、文芸部潰れてもいいって言うんだ」
「それはひ——」
志保は、激しく手を横に振り、胸元まである長い髪を揺らした。
「そ、そうは言ってないよ? 同好会になっても、別にいいんじゃないかなって」
言い終わると、乱れた眼鏡の位置を元の位置に戻した。
「部活と同好会はだいぶ違うんだって! 詳しく説明すると——」
碧が熱弁を振るおうとしたので、面倒になりそうだと判断し、早めに口を挟んだ。
「あ、大丈夫です」
「部活は部費がもらえる。同好会はもらえない。つまり、タダで好きな本を読めるか、なけなしの小遣いから捻出するかの違い。これって考えるまでもなく、部活の方が圧勝じゃない?」
話し終えると、碧は満足げに腰に手を当てる。
——この人には、他人の話を聞く機能が欠如している。
そんな碧を見ながら、さっきから気になっていたことを尋ねた。
「それでさ、なんで今頃になってそんな話してんの?」
「十月の文化祭で、演劇部とコラボしないかって話が出てるんだよ。
文芸部が脚本書いて、その脚本を演劇部が舞台で披露する。ワクワクしない?」
碧が机に前のめりになってくるので、少し体を仰反る。
「楽しそうじゃん。なんで志保は反対してんの?」
志保は、まっすぐこちらを見つめながら口を開く。
「雫は、小説を書いたことないから、分かんないんだよ。どれだけ大変か」
「なっ」
「だって、いつも部室で私たちと喋ってるだけじゃない」
「ぬ……」
そんなこと言われたら、な行でしか会話できなくなるじゃないか。
珍しく碧がフォローに回る。
「ま、まあ、雫だって、俺らの書いた小説は読んで感想はくれるんだし?
アウトプットはこれからってことで……」
すると、志保がジト目で碧を睨む。
「じゃあ、今回の脚本、雫にも書かせてよね」
「もちろんだ。なあ、雫」
「……うん、分かったよ」
わたしは、小説を書いたことがない。
というか、小説自体、高校に入ってやっと読めるようになった。
中学まで、みっちり暗殺しかやってこなかったから仕方がない。
フィクションなんて、絵本と教科書くらいしか読んだことがなかったのだから。
そんな愚痴を心の中で繰り広げながら、口を開く。
「でもさ、なんで今年の文化祭はそんなに気合入ってんの? 去年なんて、読書感想文みたいなやつをでかい紙に書いて、壁に貼っただけだったじゃん」
「その結果、どうなったと思う?」
「こうして部活動が続けられている?」
「新入部員が、一人も来なかったんだ……」
志保が、終わりそうにない問答に痺れを切らした。
ゆっくりと立ち上がり、碧とわたしに一瞥をくれる。
そして、簡潔にまとめられた。
「つまり、去年の文化祭、そして今年の新入生歓迎の結果、新入部員はゼロ。だから、今年の文化祭で、どこにも所属していない一年生や、次の新入生に今のうちにアピールしておこうってこと。それに、演劇の脚本って花形っぽい印象を使って、地味な文芸部のイメージを変える作戦。以上!」
二人で無言の握手喝采。
なんて分かりやすいんだろう。
もう、部長は志保のほうが適任なのではないか。
創設者としてのプライドが許さないから、碧は絶対嫌がるだろうけど。
そんな拍手を制するように、碧が声を張った。
「というわけで、明日、早速、演劇部との合同の話し合いがある!」
「え、早くない? まだ二ヶ月先だよ?」
「一か月で脚本を書き上げて、さらに一か月かけて演劇部と調整するんだ。とりあえず、明日は案が出せるように考えておいてくれ」
「初心者にはハードル高いなあ。碧先輩は何を書くんですかー?」
後輩系女子が好きなくせに、文芸部には後輩系女子がいないので、後輩系女子っぽく質問してあげた。
感謝してほしい。
「そうだな。ミステリー・ホラー系はいいよな。謎が謎を呼ぶ展開と——」
碧の妄想は、際限なく広がり続け、まるで宇宙のような広がりを見せていた。
その瞬間、志保と目が合う。
アイコンタクトを交わした視線は、同じ場所へ向いた。
「「……帰ろっか」」
碧の止まらないラブコメ談義をBGMに、
わたしたちはそそくさと部室を後にした。