皇帝の本心
迎賓館の内部は未だ落ち着きを取り戻せずにいた。
何せ皇帝の暗殺未遂事件が起こったのだ。
大勢の観衆の目の前で暴漢が皇帝を襲い、皇帝がダンスに誘った女性が身を挺して皇帝を庇った。
そして皇帝はその女性を抱き抱えて姿を消した。
これはその場にいた招待客にとって大変衝撃的な出来事であった。
彼らの関心は暴漢にはない。
独身を貫いている皇帝がダンスに誘った令嬢は一体誰なのか。
その場にいた貴族や軍人たちはしきりにその正体を知りたがったが、誰も彼女の顔も名前も分からない。
皇帝を庇った令嬢は無事なのか。
皇帝と令嬢は一体どんな関係なのか。
事件そのものよりもリーシャとヴィクトールの関係に興味がある者達ばかりだった。
そんな野次馬たちの喧噪は貴賓室のある二階の廊下にまで聞こえていた。
部屋を出たヴィクトールは耳に入ったざわめきを聞いて思わず短いため息をつく。
(リーシャにあのような怪我を)
リーシャを抱き留め、腹に深く突き刺さった刃物とそこから広がっていく鮮血を見た時は「手遅れだ」と思った。
だからこそ冷静でいられたのだ。
リーシャは自分を庇って傷を負った。
だからこそ、死にゆくリーシャを動揺させてはいけない。
自分は無事であるから安心して欲しい。そう伝えねばと思った。
(血の気が引くとはああいうことを言うんだな)
足の先からさぁっと冷たくなっていくような感覚。
心の臓が急激に拍動して耳鳴りがした。
あんな感覚はもう二度と味わいたくはない。
「お前は本当に運がいいな」
ふいに背後からそんな言葉が投げかけられた。
「苦情ならばいくらでも受け付けるよ。君にはその権利がある」
「文句を言っても仕方ないことであるとは分かっている。だが、言わずにいられない。分かるだろう?」
「すまなかった」
そう言って間髪入れずに頭を下げたヴィクトールにオスカーは一瞬動揺した。
ヴィクトール・ウィナーは易々と頭を下げない男だとそう思っていたからだ。
(しかも、こんなに人目に付きやすい場所で)
誰が通ってもおかしくはない廊下の真ん中で、ヴィクトールはオスカーに頭を下げた。
こんな姿を見られた暁には聴衆の良いネタになるに違いない。
それでもヴィクトールは何の躊躇いもなくオスカーに詫びたのだ。
「すまなかったと思っている」
「……」
「君の言うとおり、私は運がいい。今回だってリーシャが身代わりになってくれたおかげで命を救われた。
しかしもしもリーシャがあのまま命を落としていたらと思うと、自信の幸運を素直な気持ちでは喜べない」
「そもそもお前がリーシャをダンスに誘わなければこんなことにはならなかったのだ」
「その通りだね。申し開きもない」
「正直に答えろ。お前はリーシャのことをどう思っている?」
「正直に、か……」
オスカーの問いにヴィクトールは困ったような表情を浮かべた。
「今更友愛だとか親愛だとか、そんなふざけた答えは要らない。そんな薄っぺらい嘘を並べ立てたところでなんの意味もない」
「そうだね。では、正直に言おう。私はリーシャを一人の女性として愛している」
二人の会いだにつかの間の静寂が訪れた。
あんなに煩かった喧噪も遠くのもののように感じた。
自分から言い出したにもかかわらず、オスカーは驚愕の表情を浮べていた。
こんなにもあっさりと皇帝が恋慕の情を認めるとは思わなかったのだ。
嫌味の一つでも言ってやろうと思っていた所に肩透かしを食らった。そんな気持ちである。
「これで満足かい?」
「……嘘ばかり並べられるよりずっとマシだ」
「そうか。君は変わったな。今の君にならば安心してリーシャを任せられそうだ」
「任せられる? 随分と上から目線だな」
「ふふ、昔の君は頼りなかったからね。でも今は違う」
ヴィクトールはオスカーの肩をぽんと叩くと少しだけ満足そうな顔をして去っていく。
(あの男には適わん)
勝負にかって試合に負けた。
なんとも妙な心持ちになったオスカーだった。




