リチャード・ベルクマンの凶行
ダンスを終え、二人は向かい合うと礼をした。
周囲で見守っていた人々はその場に立ち尽くしていたが、しばらくすると堰を切ったように拍手がわき上がる。
「ありがとう。この礼はまた今度」
「ええ。貸しですからね」
リーシャとヴィクトールがそんな会話をしていると、二人の方へふらふらと歩み寄ってくる人物が目に入った。
(あれはたしか、ウィナー公船会社の……)
見覚えのある顔だ。
土気色をしてひどいクマのあるやつれた顔。
燕尾服を着てはいるがやせ細った体のせいでひどく不格好に見える。
リチャード・ベルクマンだ。
「陛下、ご、ご機嫌うるわしゅう」
ベルクマンはふらふらとおぼつかない足取りでヴィクトールの方へ近づいてくる。
そんなベルクマンをヴィクトールは不可解そうな目で見つめた。
「君は確か、ベルクマン宮の……」
「……はい、リチャード・ベルクマンです。あの、あの……あ、あ、ああ!」
何かに怯えるように頭を抱え、大声で叫んだあとベルクマンは足をもつれさせながらヴィクトールに向かって掛けよって来る。
その瞬間、リーシャはベルクマンの手元でチカッと何かが光るのが見た。
(いけない)
そう思うよりも前に咄嗟に体が動いた。
「……っ!」
どすんという衝撃と共に腹の少し上当たりが熱くなるのを感じた。
きーんと耳鳴りのような音がして一瞬何も聞こえなくなる。
「何をしている!」
背後でヴィクトールの声がしたと思うと「きゃー!」という女性たちの悲鳴が周囲からあがった。
「その男を取り押さえろ!」
リーシャの目の前に立ち尽くしている男を燕尾服や軍服を着た男達が一斉に取り押さえる。
男は訳も分からぬ叫び声を上げながら必死にヴィクトールへと手を伸ばしていた。
(あ、ああ。刺されたのか)
そこまで見届けてようやく、リーシャは自分が刺されていることに気がついた。
視線を下げると自らの体に突き刺さったナイフのようなものが見える。
刺されたことを意識した瞬間、文字通り身体を裂くような猛烈な痛みが襲ってきて後ろによろけた。
「リーシャ」
ヴィクトールは倒れそうになったリーシャの肩を抱き留めると身体を支えながらゆっくりと座らせた。
「陛下、お怪我はありませんか?」
「私は大丈夫だ。それより」
「……」
ヴィクトールの視線の先にはリーシャの腹に突き刺さったナイフとじわりと広がる赤い染みがある。
微かに震える手でリーシャの肩を抱きながら、ヴィクトールはいつも通り落ち着き払った声で言った。
「今医者を呼ぶ。だから」
「……待ってください。医者は、呼ばないで」
「何を言っているんだ」
「良いから。オスカーを……オスカーを呼んでください。それと、人払いを……。お願いします」
「……それで間違いないんだな?」
「……はい」
「分かった」
悲鳴を聞き人混みをかき分けて駆け寄ってきたオスカーはヴィクトールの腕の中で倒れるリーシャの姿を見ると怒鳴ることすらできずにその場に立ち尽くしていた。
苦しそうにするリーシャと、腹に突き立てられた刃物。
それをみた瞬間頭が真っ白になり何も考えられなくなったのだ。
「オスカー! リーシャが君を呼んでいる」
強く叫ぶヴィクトールの声ではっと我に返ったオスカーは慌ててリーシャの元へ駆け寄る。
駆け寄ったは良い物の、言葉が出てこない。
苦しそうに顔を歪めるリーシャを前にしてただ茫然と座り込んでいるだけだ。
「オスカー、御守りを」
リーシャは狼狽えるオスカーの腕を掴むとぐいと引き寄せて痛みに喘ぎながら小声で囁いた。
これはオスカーにしか頼めない事である。
なんとしてもオスカーに動いて貰わなければならない。
その一言でオスカーは初めてリーシャがお守りを身に付けていない事を思い出した。
このままではリーシャは死ぬ。
そう初めて気が付いたのだ。
(そうだ、御守りだ。あれがあれば)
ようやくお守りの存在を思い出したオスカーは勢い良く立ち上がると
「ヴィクトール、リーシャを客間へ。俺は先に行って準備をしておく」
と周囲も気にせず指示を出した。
相手は皇帝である、とかそんなことは関係無い。頭にも無かったしそんなことを考える余裕もない。
「分かった。すぐに行く。皆、すまないが道を開けてくれ。怪我人がいる。すぐに手当が必要だ」
ヴィクトールの一声で周囲を囲んでいた人垣がさっと割れた。
さきほどまで混乱していたのが嘘のように舞踏の間は静まりかえり、誰もがじっと三人を見つめている。
そんなへばりつくような視線を振り切ってオスカーは走り出した。
(どうしてこんなことに)
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
二人が踊り終わって、周囲の見学者の中から男が一人ふらりと皇帝の方へ寄っていくのを見た。
そして次の瞬間、リーシャが皇帝の前に躍り出たかと思うと横で見ていた客から悲鳴が上がった。
(リーシャは御守りを身に付けていなかった)
舞踏会に相応しい格好をするため、ドレスに合わせた宝飾品を身につけていたからだ。
(いつもならば御守りですぐに治るのに、こういうときに限って!)
今の状態は危険だ。
お守りは魔道具だ。命が尽きてしまえば御守りも使えない。
油断していた。御守りがあるからこそ危機感が薄れていた。
皇帝の舞踏会だから安全だと、そう思っていたのもある。
(俺は護衛失格だ)
悔やんでも悔やみきれない。
貴賓室に到着したオスカーはリーシャの手荷物の中から「御守り」を拾い上げると再びやってきた方向へ走り出した。
一刻でも早くリーシャの首に御守りをかけなければと必死だったのだ。
階段を上がったところでちょうどリーシャを抱えたヴィクトールと合流し、オスカーはリーシャの首にそっと石榴石の首飾りをかけた。
「早く部屋の中へ」
これで一安心と言いたいところだが、ここでナイフを抜く訳には行かない。
ナイフを抜けば瞬く間に傷が治る。
それを野次馬に見られるわけには行かないのだ。




