貸しひとつ
その夜、迎賓館にある舞踏の間は大勢の招待客で賑わっていた。燕尾服を着た男達に混ざりちらほらと軍服姿の男がいるのはヴィクトール・ウィナーが軍の統治者であるからだろう。
シャンデリアの明かりに照らされて銀色に輝くリーシャの髪色は暗い髪色が多い舞踏の間ではよく目立つ。
特に皇帝と同じ銀色の髪、という点が人々の興味関心を引いていた。
「そういえば、皇帝には想い人がいるとか」
「だから未だに未婚なのだそうだ」
そんな声がひそひそと漏れ伝わってくる。
どうやらこの舞踏会は皇帝の嫁選びの場でもあるらしい。
嫁選びと言っても皇帝自身はそのつもりで開催した訳ではない。
周囲にいる臣下や貴族がいい年をして独身を貫く皇帝のことをおもんぱかり勝手に若い娘を用意しているのだ。
自分の娘や血縁の娘を紹介しようと皇帝を取り囲む貴族とやや困った様子のヴィクトールをリーシャとオスカーは遠巻きに眺めていた。
「意外ですね。彼があんな顔をするなんて」
娘達に囲まれて顔をひきつらせているヴィクトールを見てリーシャは言う。
「誰が一番初めに皇帝と踊るか競っているのだろう」
「それはまた面倒な。誰と踊っても面倒なことになるに決まっています」
「先代皇帝は好色家で娘を嫁がせることで権力を得ることが出来た。ヴィクトールになっても同じことをと思う輩も多いのだろう」
「彼に色仕掛けは通用しないと思うのですが」
むしろそういうことを嫌う性格であることは周囲の人間だって分かっているはずだ。
離宮ごと処分された者達を見ているはずなのだから。
それにも関わらず同じことを繰り返そうとする者は後を絶たない。
皇帝とて所詮は男。そう考えているのだろう。
ふとヴィクトールと目があった。
リーシャの姿を認めるなり、皇帝は娘達をかき分け一目散にリーシャの方へと歩み寄ってくる。
「助かった」と、そんな顔をしているのが遠目から見てもよくわかった。
「リーシャ、すまない。来て早々申し訳ないが君に頼みごとがある」
「頼みごとならオスカーにしてください」
「オスカー、すまない。君の気分を害することは重々承知している。その上で頼みたいことがあるのだが」
「お前が今から何を言おうとしているのか当ててやろうか。リーシャと踊らせてくれ。そう言うつもりだろう」
「よく分かったね。その通りだ」
「リーシャは俺の婚約者だぞ?」
「分かっている。……だが」
そう言ってヴィクトールはちらりと後方を見た。
娘達がそわそわしながらこちらを見ている。
「最初だけでいい。最初の一曲だ。頼む」
「いつもはどうしているんですか? 踊らない訳には行かないでしょうに」
「いつもはロウチェにお願いしているんだけど、今日は急用が入ってしまってね」
「そういえば花の国でもロウチェさんといらっしゃっていましたね」
「お互い持ちつ持たれつの関係なんだ。彼女も結婚をする気がないから」
「そうなんですか?」
「彼女なりに色々と思うところがあるらしい。私の兄弟にはそういう者達が多いんだ」
(兄弟には……)
含みを持たせた言い方だ。
「さて、どうだい。私と一曲、踊っては頂けないだろうか」
ヴィクトールは仰々しくそう言うと片膝をつき、リーシャに向かって手を差し伸べた。
(既視感)
以前もこんなことがあった。
花の国での出来事だ。
そのときはオスカーを庇うためにヴィクトールの誘いを一蹴したが、ここは偉大なる帝国。
ヴィクトールのお膝元であり、彼が治める国である。
(ここで彼の誘いを断ったら皇帝に恥をかかせることになる)
国の頂点に立つ皇帝が臣下や貴族の目の前で袖を振られたら立つ瀬がない。皇帝の顔に泥を塗る行為だ。
つまりリーシャには拒否権がない。
彼と踊る。それ以外に選択肢がないのだ。
リーシャはオスカーの方をチラリと見た。
伺うためではなく、同意を求めるための目配せである。
(仕方ない)
オスカーもこのことは良く分かっていた。
ここでリーシャが断ればヴィクトールに恥をかかせることになると。
他国ならまだしも、皇帝が治める国でそうなってはいけない。
曲がりなりにも彼は皇帝であり、威厳のある存在であるべきなのだ。
首を横に振らないオスカーを見てリーシャはそれを肯定と捉えた。
納得がいかずとも否定はしていない。そう考えたのだ。
「分かりました。これは貸しですよ」
そう言ってヴィクトールの手を取る。
「君たちには大きな借りが出来てしまったね」
すっと立ち上がったヴィクトールの声色は心なしか少しばかし弾んでいた。
舞踏の間の中心に緑色のイブニングドレスが翻り、きらきらと輝く銀の髪にドレスの色と合わせたエメラルドの髪飾りが光る。
楽団の演奏に併せて優雅に舞い踊る二人の姿に誰もが夢中になっていた。
「すまないね、迷惑をかけて」
ヴィクトールは小声で囁く。
「反省しているようには見えないのですが」
「うん。まぁね。リーシャと踊れるのはなんだかんだ言って嬉しい」
「まさかロウチェさんがいないと嘘を?」
「いや、それは本当だよ。ちょっと用事が出来てしまってね。だから助かったよ。誰かを贔屓にするつもりはないから」
そう言うとヴィクトールは二人に羨望のまなざしを送る娘達に目をやった。
「陛下も大変ですね」
「最近やたらうるさくてね。私も若くはないから、後継ぎがどうとか。オスカーにはもう伝えたんだけど、将来的には養子を取るつもりなんだ」
「養子ですか?」
意外な言葉にリーシャは目を丸くする。
「私には兄弟姉妹がたくさんいるから、彼らの子供で優秀な子を何人か後継として育てようと思っている。
それならば一応皇帝の血筋だし、反発も少ないだろう」
「なるほど。……そうですか」
「どうした。意外か?」
「いえ、そこまで考えていらっしゃるとは思いませんでした。ということは、本当に妻を娶るつもりはないのですね?」
「ああ。リーシャ以外の女性には興味がないんだ」
「ご冗談を」
(冗談ではないんだけどな)
澄まし顔をしたリーシャにヴィクトールは内心そんなことを思う。
リーシャとて分かっているのだ。皇帝の言う言葉が嘘ではないと分かっているし、皇帝自身そのことを理解している。
言わずとも分かる。二人の間にはそんな不可思議な絆のようなものがある。
だからこそ、オスカーよりも早くリーシャに出会えていたら。
そう思わずにはいられないのだ。
リーシャの心は固い。
オスカーへの愛は揺るぎなく、いくら愛を囁いたところでその心がヴィクトールへ靡くことはないだろう。
だからこそこうして今、ヴィクトールと踊っているのだ。
左手に光る婚約指輪と、何も言わずに送り出したオスカーが二人の関係を物語る。
そこにヴィクトールが入る隙はない。
それがなんとももどかしかった。
望めば何でも手に入り、こうなればよいと思った方に物事が進んできたヴィクトールにとって初めて手には入らなかったもの。
それがリーシャだ。
(もしも彼女が妻になってくれたら、どんなに心強いことか)
周辺各国との諍いも身内の揉め事も、共に考え、乗り越えてくれる伴侶がいたらどんなに良いか。
ついそんなことを考えてしまう。
(ここまで入れ込むつもりはなかったのだが。我ながら呆れる)
年甲斐もない、と言うべきか。
四十半ばも過ぎた男が一人の女に入れ込むなど、自分らしくないと呆れてしまう。
それでも知れば知るほど、言葉を交わせば交わすほど、不思議と惹かれていく魅力のようなものがリーシャにはあった。
「君とはもっと早く出会いたかったよ」
ついぽろりと本音が漏れる。
「早く出会ってどうなるというのです」
「言わなきゃ駄目かい?」
「結構です。でも、そうですね。実は私も一度だけ、考えたことがあります」
「ん?」
「もしもオスカーよりも早くあなたと出会っていたらどうなっていたのかと」
思いも寄らぬ言葉にヴィクトールは一瞬言葉を詰まらせた。
まさかリーシャの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったのである。
「それで?」
「ここで働くのは悪くないと思いました。給金も良さそうですし、仕事に困ることもなさそうですし。
でも、それだけです」
「……そうか。それだけで十分だ」
言葉の中に混じったほんの少しの嘘。
皇帝ヴィクトール・ウィナーにとってはそれで十分だった。




