夜の紫
朝、朝食をとっているリーシャの元にある贈り物が届いた。夜空のような深い青の包装紙に包まれた化粧箱である。
「送り主は――ヴィクトール・ウィナー?」
(何でクロスヴェンにいることを知っているんだろう)
小包に添えられた送り主の名が書かれたカードを眺めながらリーシャは首を傾げる。
どこから耳に入ったのか、皇帝の情報収集能力には驚かされてばかりだ。
「なにが届いたんだ?」
「今開けますから待って下さい」
不快そうにするオスカーを宥めながら包装を解くと美しい装飾が施されたガラス瓶が現れた。
細かな切り子細工が施された瓶に宝石の形をした紫色の栓がはまっている。
瓶の中身は紫色の透明な液体のようだ。
「香水?」
蓋を開けるとふんわりと良い香りが漂う。
(ラベンダーの香り……だけじゃない。この甘い香りはなんだろう)
嗅ぎ覚えのあるラベンダーの香りと、それに混じってとても官能的な甘い香りがする。
説明書やメッセージカードのようなものが入っていないため詳細が分からないのが惜しい。
「そういえば、シルヴィアさんが言っていましたね。偉大なる帝国が化粧品事業を始めたと」
「そんなことを言っていたか?」
「はい。もしかしたらこれがその商品なのかもしれませんね」
(悪くはない)
むしろ、結構好きな香りだ。
夜の窓辺から吹き込む夜風のような、心地の良い、それでいてどこか艶のある香り。
(ラベンダー。皇帝の母、ラベンダーからとっているのかな)
ウィナー宮で宿泊したラベンダーの私室にもラベンダーの花を使ったポプリが置いてあった。
おそらくこの香りは皇帝にとっての「母の香り」なのだ。
あの皇帝にも「意外といじらしい所があるものだ」と心の中で考える。
「食事が終わったらナタリアが迎えに来るのだったか」
「はい。今日はクロスヴェンを案内してくれるそうです」
「明星の箱庭」の音楽監督の娘、ナタリアがサイン会の日の詫びにと街の案内を買って出てくれたのだ。
サイン会の日はそのまま宿に直帰してしまったのでシルヴィアやマリーと買い物ができなかった。
「詫びがしたい」とやってきたナタリアにそのことを話すと快く案内を引き受けてくれたのだった。
「ようやく晴れ晴れとした気分で観光できます」
「ここ数日、気を揉んでばかりだったからな」
「肩の荷が下りた気分です」
そういうとリーシャはわざとらしく肩をぽんぽんと叩いた。
ちょうど朝食を食べ終えた頃、ナタリアが部屋へやってきた。
サイン会の日の豪華なドレスとは異なり動きやすい軽装だ。
「先日は大変失礼いたしました。これは父からの預かり物です。小ホールで上演しているオペラのチケットですわ。宜しければ是非」
「お気遣いありがとうございます。本日は宜しくお願いします」
差し出されたチケットをリーシャが受け取ると、ナタリアは「あら?」と言って目をぱちくりとさせた。
「この香り、もしかして『夜の紫』ですか?」
「夜の紫?」
「ラーヘンデル公社の香水です」
そういうとナタリアはハンドバッグの中から小さな香水瓶を取り出してみせる。
香水瓶の中では紫色の透明な液体が揺れていた。
「香水と言えばフロリア産の『魅惑の薔薇』が主流だったのですが、最近はこの『夜の紫』も人気なのです」
「ラーヘンデル公社……聞いたことのない名前ですね」
「偉大なる帝国の化粧品会社だと聞いております。クロスヴェンにも路面店があって、うちの劇場の看板女優が宣伝を担当しているんです」
「そうなんですか?」
「ご興味があれば案内致しますよ」
「そうですね、お願いします」
「かしこまりました。表に馬車を待たせてありますのでそちらへどうぞ」
クロスヴェンは大都市だ。
石造りの、それも三階立て以上の建物が乱立し、馬車の往来も人の往来も多い。
演劇の都というだけあり、「明星の箱庭」以外にも音楽ホールや中小の劇場が多くあり、衣装やドレスを取り扱う服飾店、布地を取り扱う反物屋、演劇や音楽、芸術文化に特化した本屋などが立ち並ぶ「劇場地区」があるのが特徴だ。
その劇場地区からほど近い場所に街の流行を担う商業地区があり、ラーヘンデル公社の路面店はその一等地に位置していた。
「これはまた立派な店ですね」
紫色の垂れ幕がかかった石造りの建物を見上げてリーシャは感嘆の声を漏らす。
「明星の箱庭」の看板女優、「白百合の君」の写真が大胆にあしらわれた大きな垂れ幕が屋上から下ろされ、遠くから見てもとても目立つ。
リリーが手に持っている香水こそが、今ラーヘンデル公社が売り出している「夜の紫」だ。
「この方が看板女優の?」
「はい。リリー・フロウンダース。我が劇場の看板女優です」
歳は四十代後半だろうか。
それでも年齢を感じさせないほどの美貌だ。
赤茶色の髪に青い瞳。舞台化粧をしていてもなお素の透明感がにじみ出ている。
「彼女はこの街の流行そのものですから。リリーが身につけた物であれば服でも宝石でも飛ぶように売れるのです」
「では、夜の紫も?」
「はい。今や飛ぶ鳥を落とす勢いで……。ほら、あちらをご覧ください」
ナタリアが指さした方向にはピンク色の建物が建っている。フロリア公国の香水店だ。
「少し前までは流行っていたのですが、夜の紫が流行ってから閑古鳥が鳴いている状態で」
「こんな近くに香水店《同業店》を建てるなんて……」
フロリアの香水店はランヘーデル公社の店の目と鼻の先、斜め前にある。
先に建っていたのはフロリア公国の店舗だろうから、ラーヘンデル公社はフロリアの香水店があると知ってわざと近くに店を出したのだろう。
(喧嘩を売っている)
おそらく、これは当てつけだ。
看板女優を使って流行と顧客を奪う。いかにもあの国の人間がやりそうなことだ。
「いかにもあの男がやりそうなことだ」
オスカーが嫌悪感丸出しで言う。
「別に間違った考えではありません。商売ですし、直接嫌がらせや妨害工作を行った訳ではない。
演劇の街で看板女優を宣伝に使うのだってごく当たり前のことでしょう」
「それはそうだが」
「フロリアだって誰だってお金を出せばできることなのでは?」
「ええ。劇場を通して依頼していただければ。もちろん、それなりにお金はかかりますけれど」
「人気に胡座をかいて金を渋るから顧客を浚われた。それだけでしょう」
「随分とランヘーデルの肩を持つじゃないか」
「そんなことはないと思いますけど」
(いや、そんなことあると思うが)
そんな言葉が喉まで出掛かったがすんでの所でオスカーはぐっと言葉を飲み込んだ。
いつものことだ。リーシャとヴィクトールの思考は似通っている。
それを今更否定したり嫉妬したりしてもどうしようもない。