思い出の標本
トントン、と客室の扉が叩かれる。
「オスカー、開けて下さい」
リーシャの声を聞いたオスカーが扉を開けると、頬を赤く腫らして疲れ切った様子のリーシャが立っていた。
「その顔」
「ちょっとした怪我です。宿に帰ってお守りを身につければすぐに治ります」
「持って行かなかったのか?」
「こういう事態になった時にすぐに傷が消えては不審がられるでしょう?」
(荒事になると想定していたのか)
ミアの性格を分かった上でのことだろう。
その予感は見事に的中したようだ。
「リーシャさん、大丈夫ですか!?」
赤く腫れ上がったリーシャの顔を見たアダンはぎょっとすると慌てて立ち上がる。
「ええ、お気になさらず。それよりも、すみません。
大分きついことを言ってしまったので荒れていると思います。あとはお願いできますか?」
「もちろんです」
「それと」
リーシャはアダンの向かいの席に腰を下ろすと背筋をまっすぐのばして言った。
「久しぶりに会ったばかりで申し訳ないのですが、貴方には頼みたいことがあるのです」
「何でしょう」
「私は正式にローズヴェルトの姓を捨て、リューデンの貴族、ルドベルトに身分を移します」
「……そうですか」
いつかそんな日が来るとは思っていた。そんな顔だ。
「おそらくルドベルトからなにかしら接触があると思うので、その対応をお願いしても宜しいですか?」
「分かりました。つつがなく進むよう、私が責任を持って対応させていただきます」
「ありがとうございます」
つつがなく。つまりミアや義両親に口は出させないということである。
リーシャが正式にローズヴェルトの人間ではなくなるとなれば、リーシャの両親が抵抗するのは目に見えている。
家を出て数十年経った今でも「リーシャは店を継いで自分たちを養うべき」だと考えているような人間だ。
ただで金の卵を生む鶏を抱え込む権利をそう易々と手放すとは思えない。
「そのお礼と言ってなんですが」
リーシャは腰に身につけている貴重品用の収納鞄から古い紙製の小箱を取り出した。
「これは?」
アダンはその小箱を手にとって箱につけられているラベルを確認した。
「あっ」
「見覚えがあるでしょう?」
かすかに震える手で蓋をはずすと小さな鉱物標本が現れた。
「これは……。いったいどこで?」
「随分と昔ですが、骨董市で投げ売りされているのを見つけたんです。そこまで質の良いものではないので価値がないとされたのでしょうね。
おばあさまが居ないときにこっそりと見ていたでしょう?」
「見られていたんですね。お恥ずかしい」
アダンは恥ずかしそうに頭をかくと少年のようにきらきらとした目で鉱物標本を眺めた。
標本としては小振りだが大きめの結晶がついた、水色と紫色が混ざったようなフローライトの鉱物標本である。
「何か特別な標本なのか?」
顔を綻ばせるアダンを見てオスカーがリーシャに尋ねる。
「いえ、ごく普通の、ありふれた物です。特別珍しいとかそういう訳ではないのですが……。彼が小さい頃に一番気に入っていた標本なんです。
祖母の蒐集棚の一番下に並べられていて、祖母が留守の時にこっそりと覗いていたのを知っていたので」
「ということは、あれも蒐集物の一つなのか?」
「はい。核にするには低品質だと思われたのか、価値が分かっていなかったのか、ある骨董市で投げ売りされていたんです」
「盗まれたと聞いていたので、まさか再びこうして巡り会えるとは……!」
「宜しければ差し上げますよ」
「え?」
「今までご迷惑を掛けたお詫びと、これからのお礼です」
そういうとリーシャはスッと頭を下げた。
「両親のこと、家のこと、店のこと、全てを任せる形になってしまい本当に申し訳なく思っています。ごめんなさい」
「頭を上げて下さい」
アダンはリーシャの肩に手を置くと「迷惑だなんて思っていません」と言葉を付け加える。
「リーシャさんが居なくなって確かに大変なこともありましたが、おかげさまで自分の店を持つという夢を叶えられたんです。
むしろ、今帰ってこられると私の立場が危うくなるので困ります」
「アダン」
「なので、もう二度と戻ってこないで下さい」
「はっ」と息を呑む声が聞こえる。
アダンは優しい笑みを浮かべると小箱を大事そうに手に抱えたまま立ち上がった。
「これは迷惑料として頂いておきます。本当に貴女に会えて良かった。どうかお元気で」
バタン、と扉が閉まるのをリーシャはただ椅子に座って眺めているだけだった。
(本当に、そう思っているのだろうか)
肩に手を置かれたときに見つめ返したアダンの表情が脳裏に焼き付いている。
愁いを帯びた、寂しさとも諦めともとれる潤んだ瞳。
あれはアダンの本心だったのだろうか。
(なにも言い返せなかった)
どう言葉を返して良いか分からなかったのだ。
もう二度と会うことはないかもしれない。だから何か言葉を返さなければと思った。
けれど、アダンはそれを否定した。
力強い声色で、もう二度と帰ってくるなとリーシャとの関係を自分から打ち切ったのだ。
(あんなことを言われたら、なにも言えない)
あれは優しさだ。
リーシャがもう二度と過去の呪縛に捕らわれないように、はっきりと一本繋がっていた縁を打ち切って見せた。
それはリーシャ自身、よく分かっている。
「初恋の終わり、か」
オスカーはぽつりと呟く。
「何の話です?」
「いや、なんでもない」
(あれはアダン自身に向けた言葉だ)
とオスカーは思った。
心の中でくすぶり続けたリーシャへの恋心と決別するための、アダンの決意の言葉だと。
それが分かっていたからこそ、オスカーは二人の会話に口を挟まなかったのだ。
別れの言葉を遮るような無粋な真似はしたくない。
そう感じた。
「片が付いたか」
オスカーの言葉にリーシャは複雑そうな笑みを浮かべながら「そうですね」と返した。
「結果的には決別してしまいましたが、これで良かったのだと思います」
「ああ」
「私たちは分かりあえない。それでいいんです。互いに理解しあえないのならば仕方ないし、無理に理解する必要もない。
互いに譲らない、譲歩しないというのも選択肢の一つだと気づいたんです」
「まぁ、妹は納得していないようでしたが」とリーシャは苦笑する。
あれは話し合いではない。いわば、一方通行の殴り合いのようなものだ。
互いに譲れない物があり、折れる気がないのなら決別しても仕方がない。
最初からそのつもりだった。
国に戻る気も家を継ぐ気もない。それは絶対条件だ。
妹や両親のために生きるつもりも、彼らのために自身を犠牲にするつもりもない。
(それでいいと、オスカーと旅をしているうちに思うようになった)
自分の選択は間違っていないと、そう思えるようになった。
「やはり私は旅をしているのが性に合っているような気がします」
「……そうか」
『あの店はリーシャさんには狭すぎたのかもしれません』
アダンの言葉がオスカーの脳裏によみがえった。
「そうだな」
テーブルの上のグラスを手に取りウイスキーを一思いに煽るとオスカーは小さく相づちを打った。