初恋の相手
「君は、リーシャと昔なじみなのか?」
リーシャとミアが話し合っている間、オスカーとアダンは別室で待機していた。
(先ほどの様子から、どうやら面識があるようだが……)
目の前にいるミアの夫がリーシャと知り合いだということが気になって仕方がないオスカーは部屋に入るなりそう切り出した。
「リーシャさんは私が幼い頃に奉公していた店のお嬢様だったんです」
目の前に王族がいるからか、アダンは少し緊張気味だ。
「もう二十年以上前の話になりますが……。私がまだ十にもなっていない頃の、いわゆる初恋の相手というやつで」
「なんだと?」
「あっ、いや! 今はもう妻がおりますし、リーシャさんにもオスカー様のような素晴らしい婚約者がおりますので、そのような気持ちは!」
「……」
眉を顰めるオスカーに慌てたアダンは弁解を始めた。
相手は王族だ。機嫌を損ねては大変なことになる。
「子供の頃の話です。お許し下さい」
「……まぁいい。では、子供頃のリーシャを知っているのだな?」
「はい」
「よかったら話を聞かせてくれないか?」
「もちろんです」
アダンは少し懐かしそうな、遠くを見るような目をした。
「リーシャさんは小さい頃からとても可愛らしいお嬢さんでした。
我々東方の民は皆藍色の髪に藍色の目をしておりますから、リーシャさんの銀の髪はよく目立つのです。
それに人形のような愛らしい顔立ち。まるで絵物語に出てくる妖精のようだと評判でした」
(妖精)
ふとあのフラドールの景色が頭をよぎる。
「それで、貴公から見たリーシャはいったいどのような娘だったんだ?」
「とても聡明で、魔法の才に溢れた方でした」
カラン、とロックグラスの氷が鳴る。
アダンはウイスキーをゆっくりと口に含むとよく味わってから飲み下した。
「私がリーシャさんに初めて会ったのは確か八の頃でした。
私の両親は商いをしておりまして、その取引先の一つであるリーシャさんのご実家に付いていった時に初めてリーシャさんと出会いました。
その当時、すでに彼女はおばあさまから手ほどきを受けており店の仕事もいくつかこなしていたようで、少しだけ年上の彼女がすでに大人に混じって仕事をしていることに感銘を受けたのを覚えています」
「君が八歳の頃というと」
「確か彼女が十二、三歳の頃だと思います」
「ちなみに君は今いくつなんだ?」
「三十八になります」
(……ということは)
オスカーがなにを考えているのかアダンには手に取るように分かった。
アダンも同じ事を考えていたのだ。
「リーシャさんは今も昔も、変わらずお美しい」
(なにがあったかは聞かないのか)
今も昔も、という言葉には含みがある。
二十年以上経っても昔と変わらぬ容姿をしている理由が気になっていないはずがない。
それでもアダンはそのことについて深く追求しようとはしなかった。
(聞くのは野暮だと思っているのだろうか。それとも)
アダンはまだリーシャのことが好きなのだろうか。
オスカーは初恋という物を知らない。
強いて言うならば、リーシャが初恋の相手だ。
だからこそ、幼少の頃に抱いた淡い恋心というものがひどく眩しく見えた。
(なんとも嬉しそうな顔をしている)
リーシャについて語るアダンはどこか遠くを見るような目をしている。
目の前にいるオスカーではなく、思い出の中にいる少女の影を追いかけているような少年の瞳だ。
もう二度と会えないと思っていた憧れの人がそのままの姿で現れたのだ。嬉しいに決まっている。
「実は、私が修復魔法を習い始めたのはリーシャさんの影響なんです」
アダンは恥ずかしそうに言った。
「はじめはリーシャさんに少しでも近づきたくて、まぁ、その、下心から始めたことだったのですが続けていくうちに鉱物の魅力にとりつかれてしまいまして。
最初の頃は相手にしてくれなかったおばあさまも、私が何度もしつこく通ううちに蒐集物を見せてくれるようになったり、空いている時間に手ほどきをしてくれるようになったんです」
(動機は同じだがトスカヤのトマスとは大違いだな)
トスカヤのトマス。彼もリーシャに憧れ、近づくために宝石修復師を志した男の一人だった。
彼がアダンと異なったのは、修復魔法について学ぼうともせず、ロメオという詐欺師の甘言に乗って不正に修復師の名を得ようとしたところだ。
一方アダンはリーシャに近づきたいという動機は同じながら下積みをし、今や店の跡取りとなるほどの実力を身につけている。
(立派な男だ)
とオスカーは感心した。
「リーシャのおばあさまはどんな方だったんだ?」
「とても厳しい方でした」
アダンは何か思い出したのか苦笑いをする。
「常に完璧を求められるというか、妥協を許さないお方で子供にも容赦ないのです。
まず魔法を学ぶ前に言葉遣いや礼儀作法から。全て一から順に、きっちりと学ぶことが大切だという方針で」
「ほう」
「ですが、それは決して意地悪などではないのです。
おばあさまの言うとおりに一つ一つ、基礎から積み上げて行けば自ずと魔法が使えるようになる。
たとえどんなに才能が無くても魔法が使えるよう、基礎の基礎からたたき込んで下さる。
おばあさまには感謝をしているんです。
魔法の才が無かった私を見捨てることなく導いてくれた。魔法だけでなく礼儀作法や学まで仕込んでくれた。
感謝してもしきれません」
(アダンの話すローナ像は今まで聞いていた話と大分違うな)
意外だった。
リーシャの話ではローナは魔法に一層厳しい人だった。
妹のミアに魔法の才がないと知り失望した。そんな話を聞いた覚えがある。
だが、実際は魔法を使えない、ローナの血筋でもないアダンに根気強く魔法を教えたという。
いったいアダンとミア、二人の間に何の違いがあったと言うのだろう。
「昔リーシャから聞いたのだが、リーシャの妹君は才能がないからおばあさまから見捨てられたと……。
それが原因で魔法を避けるようになったというのは本当なのか?
君の話を聞く限り、ローナという御仁は才能がないからという理由で見捨てるようなお方ではないように思うのだが」
「リーシャさんがそんなことを?」
アダンは少し考えた後に「おそらく」と前置きをした上で話し始めた。
「おばあさまが失望したのはミアに魔法の才が無かったからではありません。
原因は彼女の態度でしょう」
「というと?」
「ミアは魔法の才能がないわけではないのです。ミアだけではない。ミアの両親、私の義父母も一般的な人間に比べたら秀でている。
ただ、彼らの傍らにはいつもリーシャさんがいて、その裁定を下すのが偉大なる魔法師と呼ばれた天才だった。
不幸なことです。
ただ、それだけでおばあさまが見放す、というのは考えにくいと思います」
「それは実体験を元に言っているのか?」
「はい。素質で言えば、私はミアや義父母よりも下ですから」
そう言うとアダンはため息をついた。
「ミアは一番でなければ気が済まない性格なんです。
他人よりも劣っているのが許せず、特に姉と比較されるのを何よりも嫌がった。
おばあさまの下で修復魔法の修練を積めば、自ずとリーシャさんと比較されるでしょう?
ミアが修練を始めた時点でリーシャさんの実力はすでに店で働く大人達の上を行っていた。
適わないことは子供の目から見ても明らかです」
「……なるほど」
「昔、おばあさまが愚痴をこぼしたことがありました。
あの子はずるいずるいとばかり言って、それを自分で得るための努力をしない。
努力をしないのに他人の功績や名誉を奪いたがると。
それだけで、ミアが修行を積んだ一週間の間になにがあったのか察することが出来るでしょう」
(おおよそ、リーシャを指して『ずるいずるい』と癇癪でも起こしたのだろう。
その態度がローナの逆鱗に触れたのだ)
『はしたない』
フロリア公国でリーシャがアイリスに放った一言を思い出す。
もしもリーシャがその場に居たとしたら、身も凍るような目でミアを見ていたに違いない。
分をわきまえず、「ずるいずるい」と癇癪を起こす子供。
それも自らは修練を積もうとせず、ただ他人の努力を羨み「姉さんばかりずるい」と口うるさく言う妹だ。
リーシャがそういう人間と相容れないことをオスカーはよく知っていた。
(リーシャはローナとよく似ている。ローナもリーシャと同じような思考をしていたとしたら、ミアの癇癪には耐えられないだろう)
「この子はだめだ」と判断するのも仕方ない。
「そうだな。だいたい想像が付いたよ。
逆に言えば、努力を惜しまない、向上心がある者には手をさしのべるお方だったんだな」
「はい。熱意を感じれば店の従業員にも指導をしていましたし、子を儲ける前の義両親にもおばあさまが直接指南をしていたと聞いています」
「どういうことだ?」
「……元々義父母は店の跡継ぎとして期待されていたんです。リーシャさんが生まれる前は魔法の研究に熱心だったし、向上心溢れる夫婦だったと他の従業員から聞いたことがあります」
「……」
リーシャが生まれるまでは。
その一言で否が応でもなにがあったか分かってしまう。
「義父は自分の髪色に劣等感を持っていたそうです。
偉大なる魔法師と呼ばれた母親とは異なる藍色の髪と藍色の瞳。
だからまさか自分の娘が自分が喉から手が出るほど欲しかった物を持って生まれてくるとは思っていなかったのでしょう」
「その上、自分よりも遙かに優秀な魔法師として成長した」
「そうです。憧れた母の期待を一新に集め、その期待に応えながらめきめきと頭角を表す娘。これで潰れない方が珍しい」
「だからといって、リーシャに対する仕打ちが許されるわけではないだろう」
「……そうですね。幼い私から見ても、義父母はミアを溺愛し、リーシャさんを遠ざけていましたから」
「それで店を継げ、自分たちのために稼げというのはいささか虫が良すぎるのではないか?
実の娘に嫉妬をするなど、大人げない」
アダンは一瞬、顔をゆがませた。
何かとげのような物がわき腹にチクリと刺さったような感覚がしたのだ。
(この人は恵まれた人なんだなぁ)
ぼんやりとそんなことを考える。
自らが渇望した母の愛情も、母の期待に応えるだけの才能も、母と同じ色の髪も瞳も、全てを手にして生まれてきた娘。
産まれた娘を見た瞬間、まるで宝物を見つけたかのような表情を浮かべた母親を見た息子の気持ちはどれほどのものだっただろうか。
自分が欲した居場所をそっくりそのまま盗られたような失望感、嫉妬心、憎悪。
それらが理解できるからこそ、アダンは義父に同情をしていた。
(いや、義父を同情の目で見てしまう私も同じか)
義父をかわいそうだと上から見ている。
他人から哀れだと思われるのは義父にとって一番つらかろうに。
結局オスカーもアダンも同じなのだ。自らと関わりのない安全な場所から義父を眺めて怒ったり哀れんだりしている。
それだけの違いだ。
「……まぁ、私には義父の気持ちも分かるような気がするんです」
アダンは言う。
「自分が欲しかった物を全て手に入れた、絶対に適わない相手が近くにいるのは苦しい。
そう考えると、リーシャさんが家を出たのは双方にとって良かったことなのかもしれません」
「そういうものか」
「おばあさまが亡くなりリーシャさんが家を出てから、店の経営状況は少しずつ悪化していきました。
リーシャさんとおばあさまへの指名依頼が多かったので、同じ質の仕事を担保出来ないと知ると離れていくお客様が多くて。
二人に頼り切りだったのでほとんどの従業員の腕は他の店と大差ない状態でしたし、数少ない腕利きの従業員も義父母とミアの横柄な態度に愛想を尽かして出て行ってしまったんです」
「それは……なんというか、大変だな」
「ええ。義両親は元々おばあさまが亡くなったらリーシャさんに跡を継がせるつもりで、自分たちはリーシャさんが成人するまでの繋ぎだと周囲に吹聴していました。
だから経営に関しては全く知識がなく、修練もさぼっていたので修復の腕も落ちているような状態で……。
誰かが漏らしたのかそんな内情が噂で広まり、客足は遠のく一方だったんです」
白髪交じりのアダンの髪がその苦労を物語っている。
(噂を撒いたのは元従業員だろうか)
アダンは「横柄な態度」と言っていた。従業員達に恨みを買っていても不思議ではない。
「それを見かねたうちの両親が丁稚奉公からそのまま店で働いていた私をミアの婿にしてはどうかと提案したのです。
長年店で働いていたので事情は分かっているし、おばあさまに計算や帳簿の付け方も習っていたのでちょうど良かったのでしょう。
義父母はそれを承諾し、結婚式が終わるとすぐに私に経営を丸投げしてきました。
自分たちはさっさと隠居して楽をしたかったのでしょうね」
「君はそれでいいのか?」
思わずオスカーが訪ねるとアダンは苦笑する。
「うまく利用されていると思いましたか?
元々店を持つのは夢だったんです。
業績が右肩下がりといってもなんとかならない状況ではありませんでしたし、おばあさまには恩があるので。
おばあさまから学んだことを役立てる時がきた。それだけです」
「……そうか、それなら良いのだが」
(あのじゃじゃ馬の夫にはもったいない男だな)
妻に振り回されているようでそうではない。
妻を自由にさせているのも、経営に口を出されるよりはその方がずっとマシだからだ。
ローナ・ルドベルトの教育の賜だろうか。それとも、ローナが見出した才能か。
(もしもリーシャが実家に残っていたら、この男と結婚をしていたのだろうか)
リーシャならばアダンの商才に気がつくはずだ。
放っておくはずがない。
もしもローナが長生きしていたら、それこそリーシャの婿にと考えるかもしれない。
それほどまでにミアの夫であることが惜しいとオスカーは思った。
「オスカー様はイオニアの王族の方だと伺いました」
「ああ、そうだが」
「リーシャさんとはいったいどこで?」
「国の近くで行き倒れている所を救ってもらったんだ。それから護衛として同行している」
「行き倒れて? いったいどういう状況なんです?」
「色々あったのだ。色々、な」
流石に国が存亡の危機にあったことは話せまい。
オスカーが「んっ」と咳払いをするとアダンは何かを察したようでそれ以上追求しようとはしなかった。
「それからずっとリーシャと旅をしているが、リーシャからは学ぶことばかりだよ。
魔法のことも、立ち寄った国々のことも、民のことも。
世界とはこんなに広いものだったのかと気づかせてくれる。
リーシャは俺を広い世界へ連れ出してくれたんだ」
「リーシャさんが……」
アダンはぽつりとそう呟くと寂しそうな表情を浮かべた。
「あの店は、リーシャさんには狭すぎたのかもしれませんね」
「……」
「もちろん、リーシャさんが店に残ってくれていたら。そう思わなかった日はありません。
きっと彼女が跡を継いでいたら、店は今でも繁盛していたし支店を開くことだって夢ではなかったかもしれない。
でも、そうなっていたらリーシャさんは今のように自由を得られなかったでしょう。
数十年ぶりに会った彼女は相も変わらず美しかった。それだけじゃない。とても幸せそうな顔をしていたんです」
劇の上演中、覗いたオペラグラスの向こうに写ったリーシャの笑顔。
店で修行をしていた頃はいつも険しい顔ばかりしていたリーシャが見せたふとした表情にアダンは心を奪われた。
そしてそれは隣にいる婚約者がいてこそなのだろうと、実家という檻から解き放たれてこそ見せる笑顔なのだろうと感じたのだ。
「あの笑顔を見たとき、私は心から安心したのです。ああ、彼女の選択は間違っていなかったんだ。良かった、と」
「君は――」
オスカーが何かを言い掛けるとアダンはオスカーの目をまっすぐ見たまま小さく首を横に振った。
(それ以上言うな、と)
消えかけた火種が小さくくすぶっている。
これ以上風で煽ってくれるなということだ。
「リーシャさんが後悔していなければそれで良いのです。
それに、今更店に戻ってこられても私が困ります。
この年になって職を失うのはつらいですから」
「……そうか」
(この男も夢見たことがあるのだろうか。もしもリーシャが店に残っていたら、もしも自分と結婚をしたら――と)
だからこそ、そんなに泣きそうな顔をしているのだろうか。
オスカーは黙ってグラスのウイスキーを傾けた。
言葉では言い表し難い、胸が焼け付くような感情が原の中からせり上がってくる。
まるで自分のことのようにほろ苦い気持ちになる。
「リーシャのことは、必ず俺がしあわせにする」
オスカーは落ち着き払った声でただ一言、そう言った。
アダンは少しだけ目を見開くと「適わないな」と小さく呟く。
(異国の王族とはいえ、もしも変なやつだったらガツンと言ってやるつもりだったのに)
それくらいならば許されると思っていた。
けれど。目の前にいるのはアダンが思っていたよりもずっと、まっすぐな瞳をした男だった。
黒曜石のような真っ黒な瞳には曇り一つない。
自らの恋慕も嫉妬も、全て見透かしている。そんな目だ。
「今更どうこう言えるような立場でも身分でもないことは十分承知しております。
それでも何か一言言うことをお許し頂けるなら……どうか、どうかリーシャさんを宜しくお願致します。
どうか、どうか……」
そう言って頭を下げるアダンの目からはキラリと光る一筋の涙がこぼれ落ちていた。




